p. 45
> 神童にしてはならない。宣長さんが神様になってしまうとき、学問は、とまる。少なくとも伊勢の青少年の可能性は摘みとられる。
これも面白い言及である。
著者が伊勢の高校国語教師であるから、その視点から宣長はそういうふうに見るべきだということだ。
p. 162
> だいたい宣長さんの学問の発想には独創性は少ない、とわたしは見ている。
これも非常に大胆な発言だ。今まで誰も言わなかったことである、という意味で「独創」的でもある。
確かにさまざまな古典を当たって新しい知見を提起するというものが研究であるとするならば、
宣長はしかしたとえば「竜田川」は奈良の地名ではなくて、山崎の水無瀬川のことである、などと言った非常に独創的な指摘がある。
ただそれは丹念に古典を調べて総合した結果たどりついた事実というものであり、
「学問の発想」というものではないのかもしれない。
いわばスーパーコンピューターで総当たりの統計処理を行って得られる結果、のようなものである。
宣長はスーパーコンピューターであって学者ではない、という言い方もできなくはない。同じことは契沖にも言えるかもしれない。
宣長が導き出した結果はみんなにとって有り難く便利なものだった。
確かに宣長の場合には、あらかじめ何かの直感によってこうであろうという仮説を立てて、
それをじっくりと調査・証明しようというような学問ではない。
いろんな本をやたらと乱読してメモしていたらたまたまある事実に気付いた、というような研究の仕方である。
さもなくば、少年の頃から変わらない信念とか執着があるだけで、
それは結局研究とか学問というような形で昇華されることはなかった、と言えるかもしれない。
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