千載集

千載集―勅撰和歌集はどう編まれたか セミナー「原典を読む」

千載集がなぜあのような慌ただしい時期に編纂されたのかということについて考察している本なのだが、
結論は結局後白河院が、保元の乱から平家滅亡までの鎮魂のために作ったのだということらしい。
それ以上のことは書かれていないように思われる。
他には古写本の異同とか校合のことなどが書かれている。

たとえて言えば、本能寺の変とか応仁の乱の真っ最中に勅撰集を選ぶようなもので、
どう考えても正気じゃない。なんか理由があるんだろう。
歴代の勅撰集の謎の中でも割と大きなほうだ。
『虚構の歌人』の中でも少し書いておいたのだが。

千載集は、続詞花集の改訂版の形で出された。
続詞花集は二条天皇の勅撰であり、選者は六条清輔。
後白河院はそれほど和歌には熱心ではなく梁塵秘抄にみられるように今様が好きだった。
後白河院は鎮魂や追悼供養のために梁塵秘抄をまとめたのだろうか。
違うはずだ。
単に今様が好きだから蒐集したのである。

続詞花集を補完した形でちゃんとした勅撰集を出そうという計画は、
六条家にあったはずなのだが、
六条家がおそらく頼りにしていた二条天皇と高倉院は相次いで急死し、
六条家が働きかけて勅撰に関わっていたと思われる平家は都落ちしてしまった。
さらに六条家は清輔以降あまり勢いがふるわなかった。

そこでまあ、ほかが自滅して取り残された形で権力に返り咲いた後白河院をだしにして、
後白河院に比較的近かった俊成が、
源平合戦のさなかのドタバタに、えいやっとつくったのが千載集というものだろう。
当時、後白河院や俊成は頼朝に支援されてかなりお金持ちだった。

頼朝が歌がうまかったかどうかは今では私は懐疑的だ。
上洛して慈円とやりとりした歌くらいしか残ってない。
ふだんどういう歌を詠んでいたかわからないのである。
ということは九条家の慈円と交渉する都合上歌を詠み交わす必要があって、
だれか歌のうまい人に代詠してもらったか、あるいは添削してもらった可能性が高いのである。
そして慈円と頼朝がやりとりした歌を見比べてみると、
あの凡庸な慈円のほうがまだ頼朝よりもましにみえてくるのである。
慈円はやはりこういう即興の切り返しの技がうまかった。
だてにふだんからあれだけたくさんの歌を詠んだのではなかった。

もちろん実朝に関しては、彼がある種独特な個性的な歌人であったことは疑いようがない。
頼家も歌が残ってないだけで詠んでいたかもしれんが、記録に残ってないのでまったくわからない。

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