文学部唯野教授3

『文学部唯野教授』を読み返してみようと思ったのは、
『短編小説講義』を読んでみて、すごくわかりやすかったからだ。
やはり筒井康隆という人は他の人に比べるとはるかに深く良く理解しており、
またわかりやすく説明できる人だなと思った。
『文学部唯野教授』は面白いは面白いのだが、大学での講義形式になっている文芸理論、
というより文芸批評理論、というより哲学談義が何言ってるかよくわからなくて、
その部分はめんどくさくて退屈で飛ばして読んでいた。

同じ文学と言っても、文芸と哲学。
不思議なことに、日本には哲学が好きな人が多くて文芸はあまり書く人がいない。
つまり、ハイデッガーとかサルトルとかを書くのが好きな人のほうが、
ゲーテやハイネなんかを書く人よりずっと多い。
私はずっと哲学には苦手意識というか、あんなもの何になるんだという気持ちが強かった。

『文学部唯野教授』と『短編小説講義』は同じ時期に平行して構想され執筆されたものであり、
内容も似通っている。
だから『短編小説講義』を読んでから『唯野教授』を読むと、
『唯野教授』だけではよくわからなかったところがわかったり、
あるいは共通する言い回しが出て来てより深く理解できたりする。

たとえば『短編小説講義』でマーク・トゥエインの『頭突き羊の物語』が、
「話の横滑り」のギャグでできていると書かれているが、
この「横滑り」という言葉が『唯野教授』にも何度も出てくる。
だから「横滑り」という言葉が出てくるたびにああ、
あのマーク・トゥエインの羊の話を念頭にこの言葉を使ってるんだなって思えるのだ。

唯野教授の講義だが、これはハイデッガーの話が分かれば後は大して難しくないってことが今回わかった。
ハイデッガーが難しいっていうのはつまり彼の言っていることが単なる同義語反復、
つまりトートロジーに見えるからだ。
たとえば「目の前に現実に存在しているものが現存在であり実存である」、
「現存在の存在規定は、我々が世界内存在と名づける存在体制をもとに、アプリオリに看取され、了解されなくてはならない」
などという言い方であり、
だからそれが何だ、そんなものが哲学ならば哲学なんて何の役に立つのだ、と思って、
それ以上ハイデッガーを読もうとも、哲学というものを理解しようとも思えなくなってしまう。

ハイデッガーだけを読んでいればどうしてもそうなるのだが、
ハイデッガーの師匠のフッサールという人と対比させてみると、
ハイデッガーの言っていることは良くわかる。
フッサールという人はそんなふざけた、トートロジー的なことは言ってない。
ただ、デカルトが言うような「意識」は存在しない。
自分が意識していると意識するような意識なんてものすら不要である。
確かなものは何もないのだから「判断中止」しろという。
判断中止してしまえば何もわからないはずなのだが、
フッサールはそこから「純粋意識」とか「超越論的主観性」とか「先験的主観」なんてものがあるなんてことを言い出す。
「判断中止」までは理解できるがそこから先が宗教になってしまってる。
ハイデッガーはそれはいかんよと言いたいわけだ。
人間の存在とはただ自然と対話することとか、いずれ死ぬという時間の中にいる存在だと言ってるだけ。
自分の死を直視しましょう、常に自分を未来に投げ込みましょう、
そして人間という存在は決して完成しない、などと言っている。

で、『文学部唯野教授』はフッサールの回までをめんどくさがらずに読んで、
フッサールの次のハイデッガーの回を丁寧に読めばそんなに難しいことは言ってない。
ハイデッガーを越えれば後は楽だ。
しかし飛ばし読みしてるとなんだかよくわからないということになる。
ともかくもハイデッガーについての筒井康隆の説明は非常にわかりやすい。

そんでまあ現代文芸批評はポスト構造主義とかいうところまで来たと言っているわけだが、
私が見るに、
文学も文芸批評も、近代科学の影響をうけて、
印象批評や、
宗教や哲学やイデオロギーから自由になろうとし、科学になろうとした。
いや、文学や哲学は、科学よりもさらに根源的な学問でなければならない。
つまり科学的技法というものに嫉妬して、科学を模倣し科学を超えようとした。
科学的に分析できる、
科学以上に厳密に根源的に分析しなくてはならないと考えた。
しかしその悪戦苦闘のすえ、文芸は、小説というものは著者がいて読者がいて、
その関係で美的価値が生まれるものであり、
科学的には解釈できないから科学ではない、というのが結論、というか、
筒井康隆がたどりついた独自の文芸理論なんだと思う。

> 文学は批評家がわざわざ脱構築してやる必要はなくて、なぜかというと文学は初めっから自分をディスコンストラクトしているからだし、それどこかディスコンストラクションのやりかたについて自分でぶちまけたりもしてるからなんだそうです。

文学はそもそも構築されていないから脱構築する必要すらない。
文学は科学的に分析できる、自然科学になれる、
自然科学を超えるなにか根源的な学問たり得る、
っていうのが最終目標だってことがそもそも間違っていたというのが結論であり、
まあ至極当然なポストモダン的な帰着だわな。
自然科学やら数学だって、何か根源的な学問たりえるわけではない。

たいていの現代思想の本はそういう結論で締めくくっている。
哲学とか科学とか宗教というものが何か究極の解決策であるかもしれないという考え方自体が、
大いなる錯覚だった。
わからんものはわからん。

でもまあこれって宣長がとっくの昔に言ってることと同じだと思う。
「文学とは何の役にも立たないものだ」「文学は文学であって、その他の宗教や政治や道徳で判断してもダメだ」ってことでしょう。

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