p. 31
> 批評は小説を切りきざんで分析したりしちゃいけない。まずどっぷりと思う存分、詩的体験に身を浸しなさい。味わいなさい
> 『されば、緒の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々の言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし』。原文密着主義。これはまあ宣長さんの言ったことだけど、小林秀雄の主張でもあるの。
p. 62
> ヴィトゲンシュタインってひとは哲学でさえ、すべてのものを正確にあるがままの形で抛ったらかしにしておくものだと言ってるから、文学批評に対してもそう要求したんだろうね。この人もちょい本居宣長だね。
どうも筒井康隆は本居宣長を誤解しているのではないか。
というところに昔も読んでて引っかかってたらしい([文学部唯野教授](/?p=6830)
[文学部唯野教授2](/?p=6835))。
それで調べてみたが、
上の引用は『うひやまぶみ』からであった。
> <ツ>語釈は緊要にあらず、語釈とは、もろもろの言の、然云フ本の意を考へて、釈(トク)をいふ、たとへば天(アメ)といふはいかなること、地(ツチ)といふはいかなることと、釈(ト)くたぐひ也、こは学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これにさのみ深く心をもちふべきにはあらず、こは大かたよき考へは出来がたきものにて、まづはいかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりてもさのみ益なし、されば諸の言は、その然云フ本の意を考ヘんよりは、古人の用ひたる所をよく考へて、云々(シカシカ)の言は、云々の意に用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし、言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也、然るを今の世古学の輩、ひたすら然云フ本の意をしらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意用ひざまたがひて、あらぬ ひがこと多きぞかし、
ネットを検索して見ると誰もこの誤植(1990年2月20日第2刷)に気付いてない。
> 緒の言
ではない。これは
> 諸(もろもろ)の言(ことば)
でなくては意味が通じない。
「緒言」だと「前書き」という意味しかない。
今の歴史的仮名遣いでは「用ひる」ではなくて「用ゐる」でなくてはならないが、
宣長は生涯「用ひる」だと思っていたようだ(というのは『うひやまぶみ』は晩年に書かれたものだから)。
宣長は、古文書に出てくる単語の語義とか語源は何かなどということをいちいち考えても意味が無い。
学者はみなそれを知ろうと思うが(学者の、誰もまづ知らまほしがることなれども)、
そんなことをいくら考えてみてもムダだ(さのみ深く心を用ふべきにはあらず)、
いくら考えようが大して良い思いつきなど出てこないし(大かたよき考へは出来がたきものにて、まづはいかなることとも、知りがたきわざなるが)、
わざわざ知る必要もなく(強ひて知らでも、事欠くことなく)、
たとえわかったとしても大したことはない(知りてもさのみ益なし)、
その代わりそういう単語が、
昔の人たちがどういう文脈でどんな場面で使われているかという事例を調べなさい。
用例を良く調査しなければ(言の用ひたる意を知らでは)、意味も誤解するし、間違った使い方をするのだ、と言っている。
これはつまり古文辞学的なアプローチをせよと言っているだけである。
儒者であれば荻生徂徠、国学者ならば契沖が、江戸初期からやっているがもともとは明代の中国で生まれた方法だ。
『文学部唯野教授』の第7講「記号論」のソシュールの話と瓜二つなわけで、
> 「ネコ」が「ヤギ」でも「タコ」でも「ハコ」でもない「ネコ」だからです。混同されやすい他の言語(ラング)と混同されない限り、どんな発音やアクセントでも「ネコ」は猫なの。
> 猫がどんなものかを(子供に)教えるには犬や豚や鼠などとの差異を教えなきゃならないの。
これを「原文密着主義」というのはどうだろう。
宣長は「語釈は緊要にあらず(語義そのものは重大な問題ではない)」と言ってるに過ぎないではないか。
少なくとも「切りきざんで分析したりしちゃいけない」「まずどっぷりと思う存分、詩的体験に身を浸しなさい。味わいなさい」「すべてのものを正確にあるがままの形で抛ったらかしにしておく」なんてことは言ってない。小林秀雄はそういうことを言いそうだが、彼は宣長については正確に理解していると思うし、そういうつもりで引用したんじゃないと思うんだ。
なんとなくだが筒井康隆は国文学について何か屈折した心情があるように思う。
> 「お女中お女中」唯野が声をかける。「いかが召された」「はいあの持病の癪が」「国文科の学生らしい」唯野は蟇目とうなずきあう。
とか
> 密告ったのは誰だ。マスコミに出る機会の少い国文学科の誰かであろう。