著者不在読者万能

私の小説の中では「エウメネス」「エウドキア」がよく売れている方なのだが、
比較的マイナーなはずのエウドキアが売れている理由がよくわからなかった。
だがオタクの世界では、エウメネスほどではないにせよ、エウドキアはよく知られたキャラであり、
エウドキアがどんな人であったか知るために(もしかすると二次創作のための設定資料として)ポチる人が多いのではないか。
私以外の全然別の人が全然別の話を書いても同じくらいには売れたのではないか。
とすれば私という書き手は不要であり、不在であり、存在するのは読者だけということになる。
私が書かなくてはならない必然性がない。

本を売るということは、それを買う読者がいるということであり、
ようは読者万能ということである。
同じ事はすべてに言える。
政治家にしろ君主にしろ、近代・現代は国民万能時代だからどうしてもそうなる。
売れっ子ライターやアルファブロガーなどみんなそうだ。
ツイッターではそういうよく読まれる人のことは、なんと呼ばれているのだろか。

私は話の中で登場人物を死なせるのが嫌いだ。
もちろん歴史小説では死ぬが、それはその人が死ぬことが歴史的に確定しているからだ。
私が勝手にこしらえた人物を殺すのは忍びない。
ほとんど唯一の例外は墨西綺譚に出てくる乾長吉だが、墨西綺譚は今は非公開にしている。

石原慎太郎、村上龍、山田詠美、村上春樹などの流れをみると、
読者はあきらかに暴力やセックスを求めている。
ラノベにすらその傾向はある。
ミステリー・ホラー小説もつまるところ人が殺されるからおもしろがって読むのだ。
人が死なないミステリーなどほとんど見向きもされないだろう。

私の場合、男女が恋愛関係に至る過程を書くことはあっても、恋愛関係そのもの、つまり情事を書くことはほとんどないが、
それも一般読者には不満だろう。

村上春樹から暴力やセックスを差し引いたらあんなに売れると思うかね?

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