百人一首というのは要するに歌を学ぶのには適してない

自分でも定家までの歌人を100人選ぼうとしているのだが、私の好みのせいもあるかもしれないが、平安時代だけだと50人も選べない。奈良時代を入れても全然足りない。素戔嗚尊からずーっと入れて70人くらいにしかならない。江戸時代まで入れれば簡単に100人になるがそれでは百人一首をまねたことにはならない気がする。

藤原公任とか源俊頼なんかはあんまり興味ないんだよね。わざわざ取り上げる必要があるのかという。当時の一流歌人だったのは間違いないんだけど。

百人選んでそれぞれ一首ずつというのは、まあ、歴史の勉強にはなるかもしれない。和歌の歴史を学ぶという意味会いはあるかもしれない。だが歌を学ぶのには不毛な作業だ。

読み人知らずの歌を採れないのもかなり痛い。

和歌を学びたければ、たとえば西行が好きなら西行の歌ばかり学べばよい。西行に飽きたら俊成とか。西行と俊成の比較とか。人に好き嫌いがあるのは自然だ。それをせずに、ただ百人並べてみるというのはおそらくはもともと歌のわからん人のやること。歌を楽しんでいるというよりは、それこそカルタのように歌人を並べて遊んでいるだけなのだ。要するに百人一首はただのカルタだというごく当たり前の結論に達する。まったく面白くもなんともない結論だ。ブロマイド集めたり、ポケモンとか妖怪ウォッチとか、そういう趣味と何の違いもない。

源頼朝と源頼政、花山院は入れたいよなあ。頼朝は完全な趣味として、花山院や頼政はなぜ百人一首から漏れねばならぬのかがわからん。どちらも藤原氏によほど恨まれてたとかではないか。

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