源頼光

『拾遺集』

> 女のもとにつかはしける
> なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋の かけたるやなぞ

『玄々集』、または『金葉集』三奏本にも出る。

> かたらひける人のつれなくはべりければ、さすがにいひもはなたざりけるにつかはしける
> なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋に かけたるやなぞ

いろいろと話しかけてもつれない女がいて、
心にかかったまま、うちあけることができなかったので、歌を詠んで送った。
なかなか告白できずにあなたに心をかけているのはなぜでしょう。
「信濃なる 木曽路の橋に」は「かける」に懸かる序詞で特に意味は無い。
「橋に架けたる」はおかしいだろう。「橋の架けたる」ならまだわかる。

『後拾遺集』

> をんなをかたらはむとしてめのとのもとにつかはしける
> 源頼光朝臣
> かくなむと 海人のいさり火 ほのめかせ 磯べの波の をりもよからば
> かへし 源頼家朝臣母
> おきつなみ うちいでむことぞ つつましき 思ひよるべき みぎはならねば

頼家というのは頼朝の長男ではなくて、ここでは頼光の次男(実に紛らわしい!)。
であるから、頼家母というのは頼光の妻(の一人)のはずである。
その女性は平惟仲の娘であるという。
頼家母の乳母に歌を送ったら頼家母本人が返事をした、ということか?
それとも頼家母が乳母をしている別の女性がいたのか?(いやその可能性は低いだろういくらなんでも)
「をんな」というからにはすでに子を持つ女性、その子を育てている乳母、ということだろう。
よくわからん。

「かくなむ」が口語っぽい。
「もうそろそろ良いんじゃないか。私の本心はこうですよとそれとなく打ち明けてくれ。」

『金葉集』二度本

> 源頼光が但馬守にてありける時、たちのまへにけたがはといふかはのある、かみよりふねのくだりけるをしとみあくるさぶらひしてとはせければ、たでと申す物をかりてまかるなりといふをききて、くちずさみにいひける
> 源頼光朝臣
> たでかるふねの すぐるなりけり
> これを連歌にききなして 相模母
> あさまだき からろのおとの きこゆるは

相模は頼光の養女であった。
つまり相模母は頼光の愛人であったと思われる。
この相模母というのは能登守慶滋保章の娘だそうだから、頼家母とは別人ということになる。
まあ、シングルマザーの愛人がいたりその連れ子がいたり、
愛人に自分の子を産ませたり。
いろいろあったわけだな。
源義朝なんかもそんな感じだし。

相模の歌がうまいのも頼光の影響かもしれん。
但馬国府にいたときの歌とすれば「けたがは」とは今の円山川のことか。

頼光の歌として知られているのはこの三首だけらしい。
ばりばりの武士ながら、なかなかの歌の使い手ではないか?
しかも武士の中でも最初期の歌人だ。

初期の武士の歌人はこの頼光。頼光の子の頼家。
頼光の孫(頼国の子)の頼綱、頼実、師光。
頼綱の子の仲政。
仲政の子の頼政。
だから、頼光から頼政までは歌人の家系だということになる。

桓武平氏だと平忠盛が最初か?

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