新勅撰和歌集を読んでいるのだが。
北条泰時が蓮生法師とやりとりした歌というのが載っていて、
> 父みまかりてのち、月あかく侍りける夜、蓮生法師がもとにつかはしける (平 泰時)
> やまのはにかくれし人は見えもせでいりにし月はめぐりきにけり
> 返し (蓮生法師)
> かくれにし人のかたみは月を見よこころのほかにすめるかげかは
北条泰時の歌というのがやや珍しいのだが、勅撰集に採られていてしかも選者は定家であるし、
また同世代の人なので正真正銘真作であろう。
父というのは義時のことだから、義時が死んだ1224年頃の歌と思われる。
泰時は定家の弟子になったというがそれは1221年承久の乱で泰時が六波羅にとどまってたときのことと考えて間違いあるまい。
当時定家は60才くらい。
泰時は40才くらい。
詳しくは「名月記」あたりを読めばわかるか。
ところで蓮生法師だが、熊谷直実が出家し、法然の弟子になって法力房蓮生と称したとあるのだが、
熊谷直実は1207年に死んでおり、時代があわない。
蓮生とは宇都宮頼綱とのことで、もとは鎌倉武士だが、1205年出家して実信房蓮生と称し、嵯峨野の辺りに隠遁したという。
だいたいつじつまがあう。
なんでも京都の小倉山の別荘で定家に98首の歌を選んでもらったものが百人一首のもとになったともいう。
まともかく定家とはつきあいがあったようだ。
結局は何らかの形で定家とつながりのある歌人が採られている、ということだろう。
宇都宮頼綱も熊谷直実も時代が近くどちらも浄土宗なので紛らわしい。
まあしかし、熊谷直実は口べたで怒りっぽかったそうだから、上記のような歌など詠めるはずもない。
ほかに新勅撰集で目についた歌など。
> 世の中はなどやまとなるみなれがはみなれそめずぞあるべかりける (よみひとしらず)
> わたつみの潮干に立てるみをつくし人の心ぞしるしだになき (藤原行能)
> あとたえて人もわけこぬなつくさのしげくもものをおもふころかな (相模)
> 身の憂さを花に忘るるこのもとは春よりのちのなぐさめぞなき (源光行)
> 君恋ふと夢のうちにもなくなみださめてののちもえこそ乾かね (源頼政)
> けふ見れば雲もさくらにうづもれてかすみかねたるみよしのの山 (藤原家隆)
> 老いぬれば今年ばかりと思ひこしまた秋の夜の月を見るかな (藤原家隆)
なんというか、わかりやすくて、しみじみした歌が多いな。