後三条院御製

『後拾遺集』をながめていたら、後三条天皇の御製が三つあることに気付いた。

> 皇后宮みこのみやの女御ときこえけるときさとへまかりいでたまひにければ、そのつとめてさかぬきくにつけて御消息ありけるに
> 後三条院御製
> まださかぬ まがきのきくも あるものを いかなるやどに うつろひにけむ

少し難しい。
まず皇后宮が、後三条の中宮・馨子内親王なのか。それとも白河の中宮・藤原賢子を言っているのか。
賢子は贈皇太后とは呼ばれたが皇后と呼ばれたことは無いらしい。
いっぽう馨子は後三条の死後、皇后宮と呼ばれ、『後拾遺集』完成時にも存命だった(賢子はすでに死去していた)。
だから、「皇后宮」というのは馨子であろう。
馨子は後三条が皇太子尊仁親王のころに入内している。
それが「皇后宮、皇子の宮の女御ときこえける時」であろう。
その皇太子妃が里に出ていたときに、尊仁がまだ花の咲いていない菊に添えて和歌を馨子に送った。
菊もまだ咲いてないのに、どんな宿に行ってしまったのだろうか、と。

> 延久五年三月に住吉にまゐらせたまひてかへさによませたまひける
> 後三条院御製
> すみよしの かみはあはれと おもふらむ むなしきふねを さしてきたれば

わかりにくいが、これは後三条が白河に譲位した後に、住吉大社に参拝して、
その帰りに船上で詠んだ歌であるという。
譲位は延久四年十二月、崩御は延久五年五月であって、退位して半年あまりで死んでいるし、
その死のわずか二ヶ月前に詠まれているのだから、おそらく死の病のために譲位したのではないか。
「むなしきふね」とはその死ぬ間際の後三条のことを言い、
神も「あはれ」と思うだろう、そう言っているのではなかろうか。

> 七月ばかりにわかき女房月みにあそびありきけるに蔵人公俊新少納言がつぼねにいりにけりと人人いひあひてわらひ侍りけるを、九月のつごもりにうへきこしめして御たたうがみにかきつけさせたまひける
> 後三条院御製
> あきかぜに あふことのはや ちりにけむ そのよの月の もりにけるかな

蔵人公俊新少納言というのは藤原輔子の外祖父藤原公俊らしいが、どんな人かはよくわからない。
七月頃に後三条のある若い女房が月を見にあちこち遊び歩いて、
藤原公俊の局に入った(駆け落ちした?)ということを、人々が笑い合っているのを九月になって後三条が聞いて、
秋に会おうという約束は果たされなかったのか、その夜の話は漏れてしまった、
とでも言う意味であろうか。

ともかくこれらの歌を後三条が自分で詠んだのはほぼ間違いなさそうだし、
それなりの知性をそなえた人であっただろうと思われる。

[後三条天皇](/?p=11431)。

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