医療費

長期入院して検査や治療を受けていると、その医療費の高いのに驚かざるを得ない。
こんなに高い検査や治療や手術がほんとうに必要なのだろうか。
ほんとうは、この半額以下でも十分なのではないか、と思わざるを得ない。

我々は生命保険や社会保障制度に守られているから、保険適用範囲であれば、自己負担額は微々たるもので済む。
生命保険会社からお金が返ってくる場合には、黒字になることすらある(もちろん毎年保険金を払い続けているのだから、それを含めれば黒字になんかなりゃしないのだが)。

実際には自己負担額の何十倍、何百倍もの費用がかかっている。
そのために、我々は、特に高額所得者は、毎月その収入の一割だか二割だか知らないが、誰の分だか知らないが、給料から天引きされているのだ。
おそらく年に百万円はくだらないだろう。それを毎年毎年、何十年間も払い続けるのだ。

今回、私が使った医療費は、なんだかんだ含めて三百万円くらいになるのではないか。
しかし、私がこれまでに支払った税金や保険料の三年分くらいにしかなるまい。
税金や保険料を全く払わずに、現金で十割負担した方がたぶん安いのだ。

みんな普段給料天引きされていて気づかないが、これが国民皆保険制度の大きな欠点だ。
そして医療費のほとんどは私のようなまだ若い人間ではなくて、六十以上の老人に、それこそ湯水のようにつぎ込まれている。
病院に外来で行ったり、入院したりすればわかるがそこにいるのは老人ばかりだ。
彼らのために若者の税金や保険料がどれほど使われているだろう。
その医療費のどのくらいが適性なのだろうか。
医学や医療の進歩のために、この分野に国として税金をどんどん投資している、と考えればよいのか。
それとも自分が将来老人になったときのための投資と考えればよいのか。

それとも、自分で貯金して将来に備えた方がましと考えればよいのか。
おそらく、いわゆる高額所得者と言われている人たちにとって、国民皆保険制度は損をしているはずだ。
損をしているからやめた方が良いとは無論言えない。
低所得者が十分な医療を受けられなくなると社会が不安定になって、高所得者にとっても住みにくい社会になるからだ。

いずれにしても私たちは税金や保険料を払いすぎているのは間違いない。
まあ、それが保険というものの本質なわけだが。健康な人間が損をする博打が保険だ。

国民皆保険や保険適用医療によって受けられるサービスは必ずしも高くはない。
大部屋で他人のいびきに悩まされたり、非効率な組織のために、やたらと入院期間が延びたり、とんちんかんな看護師の対応にいらだったりする。
要するに自分はこの程度のサービスしか受けられない額の金しか払ってないのだなと諦めるしかない。
つまり、だらだらと長い期間入院する老人向けの低価格低クオリティのサービスしか受けられないのである。

だが、国民皆保険のための保険料を払わず、その金で自由診療を受ければきっともっと良いサービスを受けられるだろうと思う。
アメリカではだからそうなっているのだ。
日本もそうした方がよい、と言いたいわけではないが。

中世の寺社

中世に、寺や僧侶が強大な軍事力を持っていたのは、彼らが領主だったからだ。
所領と軍事力はほぼ比例すると考えて良い。
いわゆる古くからの官寺というのは、次第に衰退していくが、延暦寺、園城寺、後には本願寺などが力を持つようになる。

これらの寺社が力を持ったのは、国によって保護されたからというよりは、鎌倉幕府や足利幕府などの支配から免れたためであろう。
幕府の権力の介入を嫌がった日本全国の寺は、進んでこれらの大きな寺の末寺となった。
日本古来からある由緒ある神社も、本地垂迹説を理論的背景として、やはり次々と寺の支配化に入って行った。
たとえば延暦寺は日吉神社や山王神社、日枝神社などの自らの山王信仰に基づく神社を持つ他にも、
白山神社など本来何の縁もゆかりもない神社まで、神仏習合によって傘下に従えていく。
こうして、僧侶や神官などは相互に連携を結んで、全国的な寺社によるネットワークと権力を持つに至る。
平清盛は寺社を甘やかした。
清盛は、後白河法皇やその手下の官僚組織が寺社を弾圧しようとすると逆に法皇を鳥羽離宮に幽閉し、官僚(公卿)たちを粛清し、寺社と融和した。
以来、鎌倉幕府の北条氏や室町時代の足利氏などの武家も同様に、これらの寺社の支配に消極的だった。
これが中世に僧侶集団をのさばらせた原因だろう。

織田信長の偉いところは、それまで幕府が手をつけなかったこれら寺社勢力に積極的に弾圧を加えて、中央権力による全国支配の中に組み込んだところだろう。

旗本直参

思うに、徳川直参とか旗本八万騎などと言うが、もともと徳川家に仕えていた、正味の幕臣というのは、
徳川氏と松平氏、それから三河時代からの本多、大久保、井伊、酒井くらい。
家康が入府して、関東八州に古くから居た豪族たちは、或る者は所領没収の憂き目にあったり、地方に転封されたりしたが、或る者は関東に居ながらにして、改易・減封されて、
たかだか一万石や二万石の大名に落とされて、町奉行だの寺社奉行だのなんたら奉行だのと、なんだかんだと幕府の実務にこき使われた。
そういう関東の小大名の連中が、旗本直参の主体だったわけだ。
彼らは殿様と呼ばれたが、養わなければならない家臣とか領地とか、幕府に課される職務、窮屈な格式などからして、大して恵まれた身分ではなかったような気もする。
少なくとも彼らは、室町時代までは誰に支配されるというのでもない領主だったのだから、そのころに比べれば奴隷のようなものだ。

彼らは関東在住だから、参勤交代は楽だったかもしれんが、当時は日本中に小さな所領が散らばっていたから、
その年貢の取り立てなどはずいぶん手間がかかっただろう。
殿様は給料をもらうのではなく、自分の知行地からの収入で生計をたてなくてはならないからだ。

となれば、幕末に幕府が瓦解しそうになったからと、徳川を守るために死にものぐるいで働くはずもない。
松平氏や井伊氏、紀伊徳川氏くらいは徳川宗家といっしょに真剣に戦ったかもしれないが、尾張や水戸の徳川家も、幕府を支える側についたわけではない。
これでは、いざ戦となったときに、外様大名の連合軍に勝てるはずもなく、
結局役にたったのはフランス軍仕込みの農民主体の歩兵部隊だった、ということなのだろう。

賃金労働者という奴隷

思うに現代は賃金労働者が多すぎる。
賃金労働者は、給料をもらえないと生きていけないから、彼らに無理にでも給料を払い続ける仕組みが社会に必要になる。
フローとしてのお金が回っていればそれでも良いが、デフレになると、ただ単に、給料がないと生きていけない人たちのために無理矢理仕事を用意したり、
生活保護を与えたりしなくてはならない。

農業生産力は江戸時代などに比べて何百倍も何千倍も進歩した。漁業にしても少ない労働力とコストで大量に収穫できる。
だから、人間は、一年に数日ないし十数日程度労働すれば、生きていくのに困らないはずだ。
先進国だけでなくすべての貧しい国でも、人口の多い国でも事情は同じはずだ。
それなのに、なぜ飢餓がなくならないかと言えば、それは世の中が資本主義で動いているからだろう。

資本主義は、お金という血液をどんどん体の中に回していないと死んでしまう。
お金が回っていれば健康だが、回らなくなると死んでしまう。

工場労働者は技術の進歩でどんどん要らなくなる。しかし、労働者は賃金がもらえないと食べていけないから困る。
ほんとうは、より、労働のない自由な世界へと近づいているはずなのに、なぜか人々はますます労働に縛られてしまう。
おかしな話だ。
即ち今の世の中は労働とお金がイクイバレントであって、お金がフローしてないと社会全体が死んでしまうという仕組みだから、
労働が減ってしまってはいけないのだ。だからいつまでも働き続けなくてはならない。
なんと無駄なことだろうか。

私は、まだ子供の頃だが、そのうち生産性がどんどん高まって、人間は働かなくても生きていけるようになり、
文化的な活動だけに従事していればよくなるのではないか、と思っていたが、二十一世紀になっても、全然そんなふうにはならず、
産業が効率的になればなるほど、労働者たちは貧しくなっていく。
仕事をどんどん減らすそばから仕事をどんどん創造しなくてはならない。
仕事は減るはずなのに逆に増え、人々の負担は減るはずなのに逆に増える。
これを逆説的といわずなんといおうか。
減った仕事を増やし戻すために四苦八苦している。

たぶん今の世の中は、一次産業に従事して、自分の食べる野菜などは自分ちの畑で育てて、
米や小麦などの高カロリーで安い食料はばんばん輸入して、
田舎の二束三文の安い土地に安い家を建てて住んでいれば、
すごく快適に暮らせるはずだ。
そうなってないのは、ほとんどの人が、賃金労働者になってしまい、借金の奴隷になってしまっているからだろう。

江戸時代の農村のような生活に戻れば、多くの人が幸福になるのはたぶん間違いない。

だいたい、食糧自給率ガーなどというのはナンセンスな話だ。
日本の食糧自給率は、カロリーベースで39%。だが、生産額ベースでは69%。つまり、輸出額より輸入額の方が31%多いから、
その分国外に依存している、ということだろう。
国内では野菜など高額な作物を作り、国外から穀物などの安い作物を輸入すれば、
生産額ベースの食料自給率はもっと上がる。
さらに、高品質な作物を高額で輸出するようになれば、自給率が100%を超えて農業国となることだって可能ではなかろうか。
米や小麦など、世界的に見ても生産量が多いわりに値段の安い作物は、国内で生産しない方が良いに決まってる。

ところが今は米は兼業農家が個人で狭い先祖代々の土地で作っている。
先祖伝来の土地を手放したくないから、無理矢理兼業農家を続けている。
しかし採算がとれないから、その個人農家を補助金や高い関税で守っている。
あほかと思う。
零細な兼業農家が土地を放出し、大規模な専業農家に集約すれば、日本の農業はもっと効率的になるはずじゃあないのか。

米や小麦などは備蓄がきくのだから、有事にそなえて備蓄しておけば済む話だ。
穀物を生産する人たちも商品を売らなければ生きていけないし、穀物は世界のどこかで常に余剰しているから、
何年も飢えるということは考えにくい。
場合によっては、ほんとうに穀物が輸入できないときは米や小麦に転作すればすむ話だろう。
普段は付加価値の高い作物を育てていればよい。
実際、第二次世界大戦でも、輸入できなくて困ったのは原油であって食料ではない。
食料はある程度は増産できるが、原油はほとんどまったく自給できないのだから。

[okkyも、だいたい同じことを言っている](http://blog.livedoor.jp/okkydokky/archives/51309846.html)。

喫煙者の巣窟

酒が飲めなくなったので、最近はランチなど、これまで手つかずだった分野を開拓してみたりしているのだが、
私が割と好みの中華料理屋があり、今日はオスメス一匹ずつ、合わせて4000円で上海蟹を食べたりした。
ところがこの店が12時になると一気に混み始めて、来る客みんな喫煙者でたちまち空気が臭くなる。

つまり今時ランチタイムは禁煙という店が多く、オフィスも駅前もどこもかしこも禁煙だから、
うまいまずい関係なく、たばこの吸える、日替わり定食が500円で食えるというだけの理由で、
この店に喫煙者が押しかけているのだと思われる。
店としては、客が大勢来るのが良いのに違いないが、
私のように、安くてうまくて本格的な中華料理屋だからとわざわざ来ている人間にとっては迷惑この上ない。
わざと喫煙可能な店を作ってそちらに喫煙者が集まるような仕掛けを作れないものか。

気になってググってみると、上海蟹の姿蒸は、黒醋をつけて食べる。
一匹2000円から2500円くらい。まあ相場どおりのようだ。
わざわざ中華街まで行ったり、あるいは高級店に行かなくても、近場で食べられたのは良かった、と言えるだろう。
ま、この店はランチが11時からで12時まではがらがらにすいているから、その時間帯に来るしかあるまいね。
オスは黄色いミソが入っていて、メスは赤い卵が入っている。ここの店のはミソも卵もぎっちりつまっていた。
身もうまいがほとんど食べるところはない。

ここらは駅前も歩行禁煙で巡回して注意する人がいるのだが、北口は人手も店も多くて、歩きながらたばこを吸っているとすぐ注意されなどして、
あまり見かけないのだが、南口には歩きたばこの連中がわらわらいる。こちらまでは巡回してこないのだろう。