中世に、寺や僧侶が強大な軍事力を持っていたのは、彼らが領主だったからだ。
所領と軍事力はほぼ比例すると考えて良い。
いわゆる古くからの官寺というのは、次第に衰退していくが、延暦寺、園城寺、後には本願寺などが力を持つようになる。
これらの寺社が力を持ったのは、国によって保護されたからというよりは、鎌倉幕府や足利幕府などの支配から免れたためであろう。
幕府の権力の介入を嫌がった日本全国の寺は、進んでこれらの大きな寺の末寺となった。
日本古来からある由緒ある神社も、本地垂迹説を理論的背景として、やはり次々と寺の支配化に入って行った。
たとえば延暦寺は日吉神社や山王神社、日枝神社などの自らの山王信仰に基づく神社を持つ他にも、
白山神社など本来何の縁もゆかりもない神社まで、神仏習合によって傘下に従えていく。
こうして、僧侶や神官などは相互に連携を結んで、全国的な寺社によるネットワークと権力を持つに至る。
平清盛は寺社を甘やかした。
清盛は、後白河法皇やその手下の官僚組織が寺社を弾圧しようとすると逆に法皇を鳥羽離宮に幽閉し、官僚(公卿)たちを粛清し、寺社と融和した。
以来、鎌倉幕府の北条氏や室町時代の足利氏などの武家も同様に、これらの寺社の支配に消極的だった。
これが中世に僧侶集団をのさばらせた原因だろう。
織田信長の偉いところは、それまで幕府が手をつけなかったこれら寺社勢力に積極的に弾圧を加えて、中央権力による全国支配の中に組み込んだところだろう。
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