景樹2

はづき十六日の夜なりけむ、頼襄が三本木の水楼につどひて、かたらひ更かしてよめる

> すむ月に水のこころもかよふらしたかくなりゆく波の音かな

文政7年(1824) 8月16日に香川景樹と頼山陽が会ったときに詠んだ歌らしい。
香川景樹は1768年生まれ、頼山陽は1780年生まれだから、山陽の方がだいぶ年下だ。
だが、1824年となるともう44才、日本外史が完成する2年前ということは、私塾の経営はだいぶ安定したころだっただろう。
山陽の母・梅颸が歌を景樹に習っていたつながりだという。
なるほど、そこは盲点だったな。
小沢蘆庵にも習ったらしい。
山陽もたまには和歌を詠んだらしく、母と子の和歌がたくさん載っているようだ。やれやれ、梅颸日記でも読むか。
山陽の歌

> 親も子も老いの波よる志賀の山三たび越えけることぞうれしき

梅颸の歌

> まがひつる雲は色こそながめけれ花にうづめるみよしののやま

景樹が小沢蘆庵のもとへ詠んだ歌

> 身はつかる道はた遠しいかにして山のあなたのはなは見るべき

蘆庵の返し

> としを経し我だにいまだ見ぬはなをいととく君はをりてけるかな

宣長が詠んだ歌

> 涼しさに夏もやどりもふるさとに帰らむこともみな忘れけり

景樹返し

> ただひと目みえぬる我はいかならむふるさとさへに忘るてふ君

宣長返し

> ふるさとは思はずとてもたまさかにあひ見し君をいつか忘れむ

ふーん。ずいぶんつきあいが広かったようだ。
上の歌からわかるが、宣長と景樹は初対面だったようで、しかも宣長の最晩年・享和元年(1801)の夏のことのようだから、
これで今生の別れとなったわけだな。秋にはもう宣長は死んでいるし。ぎりぎりのタイミングだった。
72才の当世随一の老学者にまみえた壮年の歌人の感情の高ぶりが上の歌のやりとりからも伝わってくる。

景樹は桂園派の流れを作った人で、堂上の公家から地下の香川家に伝えられた二条派の分流で、
真淵の「万葉調」に対して古今調を重んじてうんぬん。
なんとなく公家のまねをしてつまらん歌を詠み続けた因循姑息な流派のように思えるのだが、
景樹の歌はかなり狂歌に近い自由で気楽なものが多いように思う。
雑体の中に俳諧歌というものも載っている。
堂上でもなく万葉でもなく狂歌や俳諧に近い、江戸時代の中では主流とみなされる流派だったのだろう。
まして宣長も批判している「古今伝授」などといったいかがわしい密教的な歌風ではあり得ない。
景樹がそういうバカであった可能性はその実作を見る限りあり得ないと思う。

それが明治になると万葉・アララギ以外の古風な「和歌」はすべて「桂園派」というレッテルを貼られて迫害を受けた。
代わりに「短歌」という呼び名が発明されたというわけだ。
「桂園派」を攻撃するためにその古今調の始祖であるところの紀貫之が偶像破壊の対象として選ばれたということだろうが、
実際批判したかったのはその流れの香川景樹やら、宮中歌会所の高崎正風だったというわけだ。

正岡子規のアジ文書「歌詠みに与ふる書」だが、あれは特に子規がどうというより、俳句詠みの若造の跳ねっ返りな主張が、
当時流行していた西洋文学の、自然主義かなんかの風潮にうまく乗って扇動に利用されたってとこではないか。
しかもその言いたいところの実体は古文漢文ちんぷんかんぷんな文体ではなくて、俺等がふだんしゃべっているような言葉で歌わせろという程度の、
大衆化・民主化運動のたぐいであって、
こむつかしいお勉強なんかしてんじゃねーよぐらいの反発だっただろうと思うんだな。
別に古今がどうのとか貫之がどうのってことはどうでもよかったんだろうと思うな。
大衆運動なんてものはいつでもその程度のものだ。

龍馬

龍馬はまさに「さざれ石が巌となって苔むすまで」虚像がふくれあがった人と言うべきだろう。
土佐を脱藩して薩摩の密偵とか武器商人相手のブローカーのような仕事はしていたかもしれないが、
教養があるわけではなく、今でいうところのやくざの中堅幹部くらいのものだったのではないか。
「世の中を洗濯」程度のことはその当時の志士なら誰でも言いそうなことであり、
和歌はほとんどがその時代のはやり歌のつぎはぎだし、
手紙だって自分で読み書きできたかどうかすら怪しい。
まあしかし野口英世母のシカだってなんとかこうとか手紙くらいは書くわけだから、
まったく書けなかったということもないかもしれないが。
そんなやくざ映画の主人公みたいなところが受けるのだろうが、彼一人居ようがいまいが、維新がどうこう、
日本の歴史がどうこうということはあり得ない。

[贈正四位坂本龍馬君忠魂碑](http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hi144.html)
というものがあるらしいが、昭憲皇后の夢枕にどうこうというそのいきさつはともかくとして、
明治24年に追贈されたというから、おそらく薩摩藩でも西郷隆盛に追贈の運動があって明治22年に正三位を贈られているので、
土佐藩の中では一番名高い龍馬にもそのような運動の結果、追贈があった、くらいに考えれば良いのではなかろうか。
西郷隆盛は西南戦争の首謀者で本来朝敵だが名誉回復という意味で正三位にとどまったので、本来であれば正一位でもおかしくない。
たった一位の違いだが龍馬と西郷隆盛ではその意味あいが違う。
何しろ

> 我は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ

> 敵の大将たる者は 古今無双の英雄で

と歌われたのが隆盛なのだから。
贈正四位は生前だと五位くらいの、平安時代だと地方長官、鎌倉時代以降では執権や大名くらいの官位で、
維新に功績があった人には普通かやや高めくらいか。

こういう形の偶像崇拝は、非常に不愉快だ。
司馬遼太郎にも大いに責任がある、と言えなくもないが、司馬遼太郎を何か権威付けして利用し金儲けしている連中も、
自分たちのやっていることが歴史上どれくらい危険か、自覚した方が良い。
司馬遼太郎自身この手の虚構の偶像崇拝を嫌悪していたのではないのか。

伊東甲子太郎、橋本若狭、中原猶介が贈従五位か。ここらまでくるとほぼ無名の志士だな。
も少し事例があればだいたいの相場がわかるのだが。

蘆庵2

この人の言う「ただ事の歌」というのも、江戸時代に相当に流行っていた狂歌や、俳諧などとの棲み分けが難しいところがあり、
また蘆庵の歌にも狂歌とも言えるきわどいものもあるが、
まあそれだけ和歌が江戸時代に多様性を獲得しつつ成熟していたことを表すものとも言える。
探せばもっとこういう人は居るのかも知れない。
こういう少なからぬ数の、浪人だか乞食同然の人たちが学者もしくは芸人として生涯を全うできたという意味では江戸時代はやはり画期的だったのでは。

無常

> さざれ石の巌となるもとどまらで移り行く世の姿ならずや

小さな石が成長して大きな巌になるという変化も、とどまることなく変転してやまないこの世の現象の一つではないのか、と訳すべきだろう。

> はかなさはいづれまさらむよひの間に見えける夢とまぼろしの世と

> 世の憂さも忘るる酒にゑひしれて身の愁へそふ人もありけり

わろす。自分のことだろうか。

> 吹く風も待たでけぬべき露の身を千年のごとく思ひなれぬる

> おろかにてかよわきものの老いたればとりどころなき我が身なりけり

> つくづくとひとりしものを思ふには問はず語りぞ常にせらるる

> 昔見しいもがすみかは田となりて野はたは今の人の家々

> 花咲かで七十ぢあまり五とせになりぬと言ふもはづかしの身や

ことのはの道はことわざしげき世に住みて心に思ふことを言ひいづるならひながら、塵を離れたるものぞをかしと思ふことのありて

> 世の塵にうづもれながらうづもれぬ大和言葉の道ぞ正しき

「今ははや浜のまさごの道絶えて寄るかたもなきわかの浦波」に返し

> この国はことばの海の大八島いづくによるもわかの浦波

このみちもすゑの世の姿に心寄する人のみ多ければ、それを嘆きて詠める

> いかばかりいひちらすともことのはの花を思はば実はなかるべし

> ことの葉は人の心の声なれば思ひを述ぶるほかなかりけり

> 鳥すらも思ふおもひのあればこそかたみにねをば鳴きかはしけれ

歌は見聞き覚え知るより出づるものなるを、ひたすらにほかを求むる人の多ければ

> 何をかはあぜ倉かへし求むらむ見聞きに満てる言の葉の種

今の世の歌は言えりのみして、常に見聞くものおほくは詠まずなりにたり

> いにしへはおほねはじかみにらなすびひるほし瓜も歌にこそよめ

> ひとふしと思ふややがてすなほなる心のゆがむはじめならまし

> おろかにも千代よろづ代と祈るかなここはとこよのやまとしまねを

> 西に入り東に出でて天津日の幾夜千巡り世を照らすらむ

伊勢の宣長が七十を祝いて

> 七十ぢは人かずならぬ我も経ぬ君はちとせのよはひ重ねよ

老いたるどちの別れに

> もろともに老いにけるかなますらをの別れにかくや袖しぼるべき

> 言ふことはみな心より出でながら心を言はむ言の葉ぞなき

はかなくあかしくらすことをおもひて

> 西に暮れ東に明けて出づる日の今いくめぐり我を照らさむ

良い歌だなあ。これが辞世の歌か。
蘆庵の辞世の歌とは

> 入相のかねてをしみし年なれど今はとくづる声の悲しさ

> 波の上を漕ぎ来と思へば磯際に近くなるらし松の音高し

などを言うらしいが、あまり良い出来ではないなあ。

返歌

> 西に入り東に出づる日の本に我がいくばくの歌を残さむ

> いたづらに明け暮れはせじ西に入り東へ巡るただのひと日も

京都御所の紫宸殿の左近の桜は桓武天皇の時には梅だったが、枯れたために840年くらいに桜に変わり、
その後959年に火災で燃えてしまったので、吉野桜(いわゆる山桜)を植えたという。
今の左近の桜は写真から察するに山桜のようだ。

江戸時代には彼岸桜系のエドヒガンやしだれ桜が流行ったようだ。
そのしだれて赤みがかったところが派手で好まれたようだ。
真淵や宣長が愛したのは山桜。
正岡子規の俳句に出てくるのは山桜と言っているが特徴からしだれ桜のようだ。
江戸時代は柳のようにしだれている珍しいしだれ桜が流行だったのだろう。

ソメイヨシノがものすごい勢いで流行ったのは戦後のようだ。
ソメイヨシノは若木の頃から咲き、また挿し木で簡単に増やせる。
圧倒的な景観を割と簡単に作り出すことができる。
それまではどこまでもどこまでも桜の花という場所は吉野山くらいにしかなかったのだろうと思う。
今は千本二千本は当たり前で一万本というところもあるようだ。

小沢蘆庵の歌

江戸時代の知らない人。でもなかなか良い。
宣長とほぼ同世代の人で交流もあったらしい。

> よしさらばこよひは花の蔭に寝て嵐の桜散るをだに見む

これは良い。

> けさよりは吉野の山の春霞たが心にもかかりそむらむ

> あともなき朱雀大路の古き世を思ひ出でつつ雪やわくらむ

> 何ごとのはらだたしかる折にしも聞けばゑまるるうぐひすの声

> 春雨の音きくたびに窓あけて軒の桜の木の芽をぞ見る

良い。
江戸時代にここまで高いレベルに達し、また公家だけでなく武士や庶民にまで広く普及していた和歌がなぜあれほどまでに無残に破壊されねばならなかったのか。
実に悔しい。

なるほど、「ただごとの歌」か。すばらしいなこれは。

> 行く春をうぐひすの音は絶えぬるにはかなくもなほ鳴くひばりかな

> 鳴くひばりさのみな鳴きそ暮れてゆく春は惜しめどかひなきものを

> かひなしと言へども我も行く春を惜しとぞ思ふ泣きぬばかりに

> 泣くばかり惜しとはなにか思ふべきまた来む春を頼む身ならば

> 頼まれぬ老いの身をもて限りなき春を惜しむもかつははかなし

なかなか良いなこの連作。

> 今は世に心とめじと思ひしを花こそ老いのほだしなりけれ

良い。