俗中之真

小林秀雄「本居宣長」12章を読む。
なんとなく読み飛ばしていたが、おもしろい。

> 契沖は、学問の本意につき、長年迷い抜いた末、我が身に一番間近で親しかった詠歌の経験のうちに、彼のいわゆる「俗中之真」を悟得するに至った。

などと言っている。
小林秀雄本人はともかくとして契沖は「学問の本質とは詩歌だ」と言っているのだ。
また契沖の所感として

> たとえ儒教を習い、釈典を学べども、詩歌に心おかざるやからは、俗塵日々にうず高くして、君子の跡十万里を隔て追いがたく、
開士の道五百駅に障りて疲れやすし

をあげている。
契沖自身膨大な歌を詠んだが、誰も彼の歌をうまいと評価はしなかった。
また歌論すら残さなかった。
そこで小林秀雄は

> 宣長が直覚し、我がものとせんとしたのは、この契沖の沈黙である。

と言い、その最初の発露が、真淵に会う以前にすでに京都遊学中に書かれたという「あしわけおぶね」であって、
その中に

> 歌の道は、善悪の議論を捨てて、もののあはれと言うことを知るべし。
源氏物語の一部の趣向、このところをもって貫得すべし。ほかに子細なし。

とまで書いている。
つまり、契沖にしろ、宣長にしろ、またおそらくは小林秀雄本人の意見も、
学問の本質は歌である、源氏物語の「もののあはれ」の本質は歌である、古事記を研究材料としたのも歌に使われる詞の用例を調べるためである、
と明確に述べている。
くどいが、近代小説の先駆けとしての源氏物語を発見したのでもない。
古神道を発掘し復元するために古事記を解読したのでもない。
すべては歌のためだというのである。
ここまで明瞭に書かれているのに、小林秀雄を読んだ人たちの感想なり評価は決してそのようには見えない。
実に不思議だ。
だいたいにおいて宣長という人の思想を本気で理解しようとはしてなさそうな上に、
理解はしつつ「歌」という中核の要素だけが抜け落ちている。
「歌」は現代人にとって盲点なのか。
たぶん現代日本人は「歌」を知覚する以前にふるい落とす無意識のフィルタを持っているに違いない。

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