白河院の院宣により源俊頼が「金葉集」を編み、院の気にいらなかったために、
三たび奏覧した。
俊頼は「散木奇歌集」に連歌を収録したが、
「金葉集」の巻十にも連歌が採られているというので見てみたのだが。
> あづまうどの 声こそ北に 聞こゆなれ みちのくにより こしにやあるらむ
> 日の入るは くれなゐにこそ 似たりけれ あかねさすとも 思ひけるかな
これは酷いだじゃれである。
勅撰集に採るようなものではない。
ただ、古今集にはこんな具合なただの語呂合わせだけの歌も中にはあるが。
> 取る手には はかなくうつる 花なれど 引くには強き すまひ草かな
> 雨よりは 風や吹くなと 思ふらむ 梅の花笠 着たる蓑虫
面白いが、明らかに和歌の題材ではない。
俗謡のたぐいであろう。
同じ時代に梁塵秘抄があるが、それと同類だろう。
ところが莵玖波集になると、形式はいわゆる連歌であるが、
内容は和歌そのもの(というより和歌の劣化版)である。
つまり、平安後期には連歌とは俗な内容の、形式的には和歌であったものが、
南北朝になると、形式的には連歌だが、内容的には和歌になった、
ということではないのか。
誰もそういう指摘をしてないのだが。
後拾遺集で藤原通俊は和泉式部や赤染右衛門などの現代女流歌人を発掘してみせた。
金葉集で源俊頼は、より過激に、俗謡を和歌に取り入れようとしたのではなかったか。
金葉集については[金葉集](/?p=13325)、[金葉集三奏本と詞花集](/?p=13338)などにも書いたが、ぱっと見退屈な歌集である。
ところが連歌のところだけが異様に斬新である。
退屈だけど駄洒落は大好きな人というのは確かにいる。
狂歌人の大田南畝などがまさにそうだ。
巻頭歌が紀貫之だとか藤原顕季だとか源重之だとか、
そんなことはどうでも良いんだよ。
どうしてそんな些末なことにこだわるのかな。
後拾遺集序に
> 麗しき花の集といひ、足引の山伏がしわざなど名づけうゑ樹の下の集といひ、集めて言の葉いやしく姿だみたるものあり。これらの類は誰れが志わざとも志らず。また歌のいでどころも詳ならず、たとへば山河の流を見てみなかみ床しく、霧のうちの梢を望みていづれのうゑ木と知らざるが如し。
これが当時のいわゆる連歌なのではないか。
「麗しき花の集」とは「麗花集」(ほとんど残らない)、
「足引の山伏がしわざなど名づけうゑ樹の下の集」はよくわからんのだが、
これが「散木奇歌集」の元なのではないのか。
藤原通俊はそれら俗謡を捨て、源俊頼はこれを拾ったのではなかったか。
良く読んでみると後拾遺集も金葉集も実に面白く興味ぶかい。
その理由の一つは従来の学説というものがまったく当てにならないからでもある。
当てにならないという意味では古今集もそうだ。
そういう意味では新古今が一番きちんと理解されていて、
また難しく見えてもあれほど勉強さえすれば簡単なものもなくて、
現代人にもわかりやすいとはいえる。
あつまうとの-こゑこそきたに-きこゆなれ/みちのくにより-こしにやあるらむ
ももそのの-もものはなこそ-さきにけれ/うめつのうめは-ちりやしぬらむ
しめのうちに-きねのおとこそ-きこゆなれ/いかなるかみの-つくにかあるらむ
はるのたに-すきいりぬへき-おきなかな/かのみなくちに-みつをいれはや
ひのいるは-くれなゐにこそ-にたりけれ/あかねさすとも-おもひけるかな
たにはむこまは-くろにそありける/なはしろの-みつにはかけと-みえつれと
かはらやの-いたふきにても-みゆるかな/つちくれしてや-つくりそめけむ
つれなくたてる-しかのしまかな/ゆみはりの-つきのいるにも-おとろかて
かもかはを-つるはきにても-わたるかな/かりはかまをは-をしとおもふか
なににあゆるを-あゆといふらむ/うふねには-とりいりしものを-おほつかな
ちはやふる-かみをはあしに-まくものか/これをそしもの-やしろとはいふ
たてかるふねの-すくるなりけり/あさまたき-からろのおとの-きこゆるは
ひくにはつよき-すまひくさかな/とるてには-はかなくうつる-はななれと
あめふれは-きしもしととに-なりにけり/かささきならは-かからましやは
うめのはなかさ-きたるみのむし/あめよりは-かせふくなとや-おもふらむ
よるおとすなり-たきのしらいと/くりかへし-ひるもわくとは-みゆれとも
おくなるをもや-はしらとはいふ/みわたせは-うちにもとをは-たててけり