古来風体抄

[中世歌論集](/?p=10164)でも少し書いたことだが。

wikipedia などによれば、
古来風体抄は式子内親王が俊成に依頼して書かせたものであるという。
しかし俊成の息子の定家が書いた歌論書ですら、断片的で短いものばかりであるのに、
俊成がこれほどまとまった著書を残したとはとても思えないのである。
また、俊成の歌を見るに、どれも軽妙で、感覚的で、芸術家肌の歌ばかりであり、
学者的な人では決してなかっただろう。

式子内親王の依頼というのもどうにも腑に落ちない。
これは、定家の後の人たちが、二条派歌論を権威付けるために俊成の名で書いたものではなかろうか。
そう考えればこのめんどくさくもややこしい歌論の意味がわかる。

俊成は91才まで生きたのだが、古来風体抄を書いたとしたら80代後半という、
当時としてはとてつもない高齢であり、
文章が書けるはずもない、と思うのだが、どうよ。

そうだな、冒頭の、「やまとうたのおこり、そのきたれることとをいかな。」
というのが、歴史的仮名遣いが間違っているし、俊成なら「とをい」「をのづから」「かきをき」とは言わず「とほき」「おのづから」「かきおき」と言うと思う。
ひょっとすると相当後世のものかもしれん、とも思われる。

それに、「六義」「天台止観」だのと、定家や後鳥羽院ですら言わぬような、漢学臭く仏教臭いことを論じるだろうか。
極めて怪しい。
京極為兼くらいの時代の論法ではなかろうか。
下手すると為兼本人か、京極派の誰かが書いたのではなかろうかというくらい似ている。

引っ越し断念

共用サーバーというのは ftp か phpmyadmin とかしか使えず、ログインして作業できない。
そんで phpmyadmin で sql をインポートしようとしたらファイルサイズの上限に引っかかる。
UploadDir というのを設定すればローカルファイルをインポートできるというが、サーバ上のほんとうのディレクトリがわからんので、
アップロードしたい場所に phpinfo(); を仕込んでなんとかインポートしようとしたのだが、
途中でサーバーエラーがでてしまう。

で、共用サーバーではなくてVPSにすりゃいいらしいんだが、
月々のコストが三倍近くに跳ね上がる。
で、とりあえず凍結ということにした。

サーバ引っ越し

tanaka0903.net のドメイン更新にあわせてサーバをお名前.comに引っ越すことにする。

httpd を初めて走らせたのは 1994年だった。それは職場のサーバーだったのだが、
その後 1997年9月に geocities に日記を書き始めた。
インターネット接続は ISDN でプロバイダは AIF(アスキーインターネットフリーウェイ)
というものだったようだ。
すっかり忘れていた。

その後リムネットに引っ越したのだった。
すっかり忘れていた。

独自ドメイン取ったのは 2000年頃、自宅サーバを始めたのは、2001年くらいだったようだ。
最初は固定IPじゃなかったので No-ip の動的DNSを使っていたはずだ。
光ではなくてフレッツISDNというものだった。すっかり忘れていた。
というか、昔の日記を読んでもどうやってサーバ立てて運用してたかよくわからない。
ここに載せているのはそれら膨大な過去日記の一部だ。
昔は実名ばんばんさらしてたから(笑)。
今は公開できんね。

それから、bflets にして Asahi-net の固定IPサービスというのを使ったはずだ。
以来ずっと自宅サーバで遊んできたのだが、
いい加減疲れたので自宅サーバを維持していくのはやめようと思う。

たぶん一時的に休止すると思うが、そのうち復活する予定。
DNS設定変更が広がるまでしばらくかかる。
んで、今はwordpressしかやってないのだが、
みんなやってるみたいなんで、たぶん問題あるまい。
ていうか、wordpress 以外の php や mysql やっても良いということだわな。

ていうか、独自ドメインにこだわらなきゃ、hatena でもなんでも引っ越せばいいんだわな。独自ドメインにする必要あるかといわれればあんまないわな、もう自宅サーバはやめるわけだから。うーん。だけどまあ、はてなより wordpress の方が好きといえばいえる。せいぜい広告でも貼って小遣い稼ぎするか。

藤の長者

藤原氏全体の長者を藤氏長者とか藤の長者などというようだ。
藤原氏は中臣鎌足から次第に分家が枝分かれしたのだから、
その氏の長者というものにも実体があっただろう。
長者は摂政か関白か太政大臣になるのが普通だっただろう。

そのアナロジーとして、というか公家への対抗意識で、将軍家が源氏長者などと言い出したのに違いない。源氏全体の長者などいるはずもないのだが。清和源氏の長者というのであれば、頼朝の子孫となるところだが血統が絶えたので、足利氏は八幡太郎義家の子孫というので源氏長者などと言い、足利将軍家も絶えたので、こんどは徳川氏が新田氏までさかのぼって源氏の長者と言い始めたのだろう。律令国家の朝臣は氏や姓がなきゃいけないからそうして家系を捏造しなくてはならなかった。

そうか、豊臣秀吉は藤原氏の養子になったのか。ふーん。

徳川正記徳川氏

日本外史の中でも徳川正記徳川氏は異様に長くて切れが悪くてつまらんと思っていたが、
最近は結構楽しく読める。
日本外史を楽しく読んでいるというだけで病気なのに、その中でも一番つまらん徳川氏を面白く感じるとは、病膏肓に入ったというべきだな。
だんだん普通の人間の感覚というものがわからなくなってくる。

最初の辺りに、

> 頼氏、教氏を生み、教氏、家持を生み、家持、満義を生み、満義、政義を生み、政義、親季を生む。

という件があるが、これは文語訳マタイ福音書の

> アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟を生み、ユダ、タマルによりてパレスとザラを生み、・・・

という記述に良く似ている。つまり、ただ単に似ているというよりも、明治時代に福音書を訳すときに、たぶん訳者は日本外史の記述を参考にしたのだろう。或いは漢訳聖書の影響もあるのかもしれない。
そして筒井康隆はそれのパロディ・パブリング創世記を書いたというわけだ。
旧約聖書創世記にはマタイ福音書のような記述はないのだから、本来は創世記というのはおかしい。

新共同訳では

> アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、・・・

となっていて、より自然でなめらかな口語になっている。まあ、戦後だし、日本外史っぽい口調は嫌われたということだ。