中世歌論集でも少し書いたことだが。
wikipedia などによれば、古来風体抄は式子内親王が俊成に依頼して書かせたものであるという。しかし俊成の息子の定家が書いた歌論書ですら、断片的で短いものばかりであるのに、俊成がこれほどまとまった著書を残したとはとても思えないのである。また、俊成の歌を見るに、どれも軽妙で、感覚的で、芸術家肌の歌ばかりであり、学者的な人では決してなかっただろう。
式子内親王の依頼というのもどうにも腑に落ちない。これは、定家の後の人たちが、二条派歌論を権威付けるために俊成の名で書いたものではなかろうか。そう考えればこのめんどくさくもややこしい歌論の意味がわかる。
俊成は91才まで生きたのだが、古来風体抄を書いたとしたら80代後半という、当時としてはとてつもない高齢であり、文章が書けるはずもない、と思うのだが、どうよ。
そうだな、冒頭の、「やまとうたのおこり、そのきたれることとをいかな。」というのが、歴史的仮名遣いが間違っているし、俊成なら「とをい」「をのづから」「かきをき」とは言わず「とほき」「おのづから」「かきおき」と言うと思う。ひょっとすると相当後世のものかもしれん、とも思われる。
それに、「六義」「天台止観」だのと、定家や後鳥羽院ですら言わぬような、漢学臭く仏教臭いことを論じるだろうか。極めて怪しい。京極為兼くらいの時代の論法ではなかろうか。下手すると為兼本人か、京極派の誰かが書いたのではなかろうかというくらい似ている。
追記:そうかもしれないしそうじゃないかもしれないとしか言いようがないな。
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