『宣長さん』2

小林秀雄は宣長の桜に対する異様な愛着に気付いていたが、
中根道幸は、宣長が自らを「神の申し子」と信じ切っていたことによる、と断言する。
つまり、子の授からなかった宣長の父母が、吉野水分の子守明神に願掛けをしたことによって宣長を儲けたことを言う。
水分(みくまり)は「みごもり」、子授け、子育ての神として、
『枕草子』にも「みこもりの神またをかし」と書かれているそうだ。

また、p. 17

> サクラも歌も物のあわれもヤマトゴコロも紫式部も、アマテラス男神説をふんがい排撃するのも、

宣長が父を失った「母子家庭」であり、「母性原理」によるのである、というのだ。
これらは小林秀雄よりもはるかに踏み込んだ言及である。

> 父母の むかし思へば 袖濡れぬ 水分山に 雨は降らねど

> みくまりの 神のちはひの なかりせば 生まれ来めやも これの吾が身は

> 鳥虫に 身をばなしても さくら花 咲かむあたりに なづさはましを

> したはれて 花の流るる 山河に 身も投げつべき ここちこそすれ

一方、同様の趣きの歌として、小林秀雄は次のような歌を挙げている。

> めづらしき こまもろこしの 花よりも 飽かぬ色香は さくらなりけり

> 忘るなよ 我が老いらくの 春までも 若木の桜 植ゑし契りを

> 我が心 休むまもなく 使はれて 春はさくらの 奴なりけり

> 此の花に なぞや心の 惑ふらむ 我は桜の 親ならなくに

> 桜花 深き色とも 見えなくに 血潮に染める 我が心かな

私も、宣長の一番わかりにくい、というかつまらないところはその非常に女性的なところである。
私には『源氏物語』はよくわからない。『和泉式部日記』なら面白いが。
「もののあはれ」というのも俊成や西行の言うようなものならわかる気がするが、『源氏』がどうという気にはならない。
和歌の趣味に至っては、私とは部分的に全然違っている。
宣長の和歌はいわゆる二条派の和歌であって、
彼が二条派固有の古今伝授を批判するのも、
公家と坊さん趣味の二条派の系譜に、戦国時代になって東常縁や細川幽斎などの武将が連なるようになったのが気に入らないだけではなかろうか。
古今伝授がいかんのであれば三条西実隆もダメなはずだが、公家の三条西には非常に同情的なのだ。
また京極派が嫌いなのも、京極為兼がかなり異常な公家であったからかもしれない。
ともかくいわば女々しい公家文化から少しでも外れてしまうと宣長は全然拒絶反応を示してしまう。

宣長の神霊思想についても、『古事記』についても、私はあまり興味がない。
「天地初発之時」を

> あめつちはじめてひらけしとき

と訓もうが、

> あめつちのはじめのとき

と訓もうが、私にはどちらでも良い気がする。
「天地が開く」という言い方は古文に見えないので「開く」と解釈してはならないというのが宣長の意見で、
まあそうかもしれないとは思うが、私にはそれほど重要だとは思えない。
「あめつちおこりしとき」と訓む人もいるらしい。
宣長は学者として極めて卓越した研究能力を持っていた。
そして仏教系・儒教系、垂加神道や度会神道などもよってたかって宣長の研究成果を自分たちの教義に取り込み、
自分たちに都合良く解釈するためのソースにしてしまった。

『宣長さん』中根道幸

小林秀雄の『本居宣長』を読み返すのと平行して、宣長について書かれた本を一通り読んでいる。

子安宣邦という人が宣長の本をたくさん書いている。
どうもこの人は平田篤胤との関係で宣長を論じたいところがあるようだ。
宣長に関する本では小林秀雄と中根道幸という人が書いたものが良いと言っており、
小林秀雄について言及している点や、
この中根道幸を紹介してくれたことはたいへんありがたいと思うのだが、
子安氏本人の主張に関してはどうも頭に入っていかない。

村岡典嗣は1911年に宣長の本を出した先駆的な人。
宣長その人というよりはその周辺のことを良く調べて書いてある。
加納諸平という歌人を教えてもらった。

吉川幸次郎。『漱石詩注』『宋詩概説』『元明詩概説』などは読んだが宣長はまだ読めてない。
しかし明らかに宣長の専門家ではないし、たぶん荻生徂徠がらみで何か書いているのだろう。

その他何冊か読んでみたがどれも大したことはない。
どれもよくわからないことが書いてある。
たぶん著者がよくわかってないのだろう。

子安氏が主張しているように、
小林秀雄著『本居宣長』と
中根道幸著『宣長さん』
を合わせ読みすれば必要十分であると感じる。
『宣長さん』は比較的最近(といっても2002年)出たもので、
著者が専門の研究者ではないせいもあるのだろうが、ほとんど世間に知られてないのだが、
これはすごい本だ。
この本を読まずして宣長を語るのは、もぐりであると言って良い。
早く出会えてよかった。

p. 350

> 結論として、端的に問題を提起しておこう。宣長さんは、定家、新古今をカンちがいしてはいなかったか、または新古今の行きづまりを打開するための写実ということに無感覚だったのであろう。

こういうことをさらっと言ってのけるのは相当の自信だ。
宣長と定家の両方をきちんと学んでなければ言えないことだ。

中根道幸は定家の私家集と宣長の『古今選』を比較している。
そして定家の好みと宣長の好みに大きな隔たりがあることを発見している。
宣長は定家を高く評価しているにもかかわらず、定家の好みを理解していない。それはそうだろう。
宣長は他の人よりも定家の歌を一番多く『古今選』に採っている。
しかし、その定家の歌というのが、『新古今』より後の、

> 多く二条派の目で拾われた定家なのである。

私は、宣長は契沖と出会う以前に、頓阿や三条西実隆の影響をうけたのではなかろうかと感じていた。
宣長は頓阿や叔父・察然和尚のように、或いは最初に歌の添削を受けた法幢のように、
浮き世離れした僧侶になろうと思ったのではないか、と思った。
宣長という人は、若い頃に書いた『おしわけ小舟』から晩年の『うひ山ふみ』までほとんど思想的な変化がなかった人だ。
途中、真淵の弟子になっているが、そのことが宣長の思想に与えた影響は軽微である。
真淵は宣長よりずっと年上であったから、自然弟子入りという形をとったまでだと思われる。
宣長はある日突然何かの思想にかぶれたり、またそれを捨てて別の思想にのめり込んだりというような、
スクラッチ・アンド・ビルドな人では決してないのである。
だからこそ、少年の頃の宣長を丁寧に調べてみる価値がある、と私は思っていた。

宣長が契沖によって国学に志し『おしわけ小舟』を書き、その後のことはだいたいはっきりしている。
その前、十六、七歳ころに和歌を詠みたいと思い始め、十九から自ら和歌を詠み始めた、
その理由はなぜだろうということを調べたいと思った。
『宣長さん』はその頃のことを非常に詳しく調べてある。
まさに私が読みたい本だった。
宣長が若い頃に誰と会ったか。
どんな本を読んだかを緻密に調べ上げている。
結論としては、宣長が育った松坂というところが、俳諧や和歌が盛んな土地柄であったから、
宣長も自然と感化されたのであろう、ということだった。
この「松坂文芸」は、
京都から松坂にやってきて、和歌、連歌俳諧、伊勢物語を講義した北村季吟という人によって基礎づけられた。
その「松坂文芸」が宣長という人を生んだというのである。

本居、宣長という名を選んだことについても興味深い考察がある。
最も注目すべきは、宣長が、単に経済的理由で紙商の養子になったのではないという指摘である。
「養子留学」であったというのだ。

> なぜ山田へ、跡目を継ぐあてもない養子に出かける気になったのか。

養子といえば普通は子の無い家の息子となって跡取りとなることだが、そうではなかった。

> 学業の飛躍を願い、父母先祖への謝恩の念とは別に、小津の家を捨て、進んでこの道を選んだ

実際宣長は、後に遊学先の京都で医者の養子になろうと運動するが、失敗している。
彼にとって養子縁組みとは就活のことであり、学者として生きていくための生計を立てることなのである。

> 今井田家であるが、従来紙商とされてきていて、それをあながち否定するわけではないが、私は妙見町に13軒あった御師(檀家数23000余)の中でも有力な家と考えている。

御師とはつまり伊勢神宮の檀家衆(宿屋など)をまとめる役職だ。その養子となって、
宗安寺住職・法幢に付いて和歌を学び始めた(宗安寺は伊勢市内の中ノ地蔵にあった浄土宗の寺)。
つまりは、僧侶になるというよりは御師の仕事を手伝いながら、学者になろうとしたわけだった。
そして養子が離縁になったのも、紙卸という商売が嫌になったからではなくて、
今井田家での学問に限界を見たからだろう。

宣長は、松坂に生まれ、江戸にも暫く住み、京都には何度か遊学し、山田(つまり今の伊勢市街地)にも養子に出た。
そうしてどっぷりと当時の「二条派」の歌風に親しんだ。
この「二条派」趣味は、生涯決して抜けなかった。
「二条派」に呪縛される余りに古今伝授批判などもやらかしたのだが、
宣長という人は、かなりの程度、和歌音痴であったと思われる。
定家を賞賛し、玉葉や風雅集を批判するのだが、ではそのどこが優れ、どこが悪いのか、
具体的にこの歌のここが良い悪いというような歌論を展開したのを見たことがない。
特に京極派に対する批判に具体性が欠けている。異風だというだけ。
二条派と違うからダメだと言っているだけのように見える。
二条派から離れることを異風に落ちると言っているだけ。

二条派がなぜよいか、それが正風だからだ。
京極派がなぜ悪いか、それが異風だからだ。
この宣長の主張には意味が無い。
二条派と京極派の歌を比較してその差異を指摘し、どちらがどういう理由で優れているかを分析してみせなくてはなるまい。
実際、二条派と京極派の違いを理路整然と指摘できる人はほとんどいない。
わかっているようでわかってない人がほとんどだ。
中野道幸氏や、京極派の研究者の岩佐美代子氏は例外的にわかっている人だ。

宣長はまた、細川幽斎の良さがわからない。
幽斎は古今伝授とは無関係に、明らかに優れた歌人である。
たぶん式子内親王も西行もわからないのに違いないし、俊成についても誤解していると思う。
そして、幽斎はダメだが頓阿が良いなどと言っているところなどもうどうしようもない感じがする。

> いとはじよ 老いの寝覚めのなかりせば このあかつきの 月を見ましや

> 憂きことは 身をも離れず みそぎ川 かへらぬ水に 払ひ捨てても

> いかにして 人にむかはむ 老い果てて かがみにさへも つつましき身を

これらは幽斎の歌だが、実に巧みだ。

正徹は読んだらしい。定家や頓阿についての知識は『正徹物語』から得た形跡がある。
しかし正徹の歌についての言及が見られないのは不思議だ。
たぶん正徹の理論はわかるが歌が理解できないのだろうと思う。
正徹は有名な定家崇拝者だが、正徹の歌は独特な、独立独歩のものだ(むしろ京極派と言ってもよい)。

宣長は、源氏物語や古事記を、原典に直接当たって読めと言っている。
古今伝授に騙されるなとか、古今集を参考にせよと言っている。
しかしその宣長が、二条派というフィルターを通して定家を眺めているのである。
明らかに定家そのものを見ているのではない。
それほどまでに宣長における二条派の呪縛は強かった。
しかしそれは説明の付かないことではない。
宣長が古事記と出会ったのは学者として分別がついてからのことだ。
しかし宣長が和歌を詠み始めたのは契沖と出会う前のことだ。
若い頃に染みついてしまった嗜好を除去することは困難だった。
また、和歌は余りにも宣長の日常と密接に結びついてしまっていて、
古事記や源氏物語を見るときのような客観的な目で見ることができなかったのだろう。

中根道幸は宣長に固有な「神秘主義」についても言及している。

p. 15

> 終生宣長さんの神秘主義とかかわる、この申し子意識はいつごろ確定したものだろうか。

宣長が、吉野、水分(みくまり)、そして桜に異様な執着をしたこと、
仏式と神式の墓を別々に作ったこと、
『直毘霊』や「日神論争」などに見られる宣長の依怙地で理解困難な思想とは、おそらく関連があるのだろうし、
これらもまた契沖と出会う以前の若い日の宣長の中ですでに完成されてしまっていて、理性による変更が効かなかったのに違いない。

p. 75

> 一見整った優等生の歌だが、よく見れば、モチーフは雅、片々たることばをつなぎ組み立てた。パズル歌。職人的機巧さが見える。

[宣長の初めての歌](/?p=18052)についての講評。
これも宣長の歌について、そして和歌について、よく知っていなければ言えないことだ。
他の人たちが単に「契沖のように退屈な歌」とか言っているのと同じなんだが、もう一歩踏み込んでいる。
まあ、確かにそうなんだよな。どの時代の誰というのでなく、あちらこちらから影響をうけて、それらをパッチワークのようにつなげた歌。
上にあげた幽斎の歌のように、思いをそのまま一気に歌にしたのではない。
つまり、幽斎の歌は写生なのだ。自分の心の動きを観察しているもう一人の自分がいて自嘲している。
こういう歌は宣長にはあまり無い(たまにはある)。
宣長は、基本的にはいろんな既存の歌のパーツを組み合わせて、技巧だけで作っている。
[本居宣長の漢詩](/?p=12569)についても、ほぼ同様のことが言える。

詠歌と歌学

> 歌の学び有リ、それにも、歌をのみよむと、ふるき歌集物語書などを解キ明らむるとの二タやうあり

> 歌をよむ事をのみわざとすると、此歌学の方をむねとすると、二やうなるうちに、かの顕昭をはじめとして、今の世にいたりても、歌学のかたよろしき人は、大抵いづれも、歌よむかたつたなくて、歌は、歌学のなき人に上手がおほきもの也、こは専一にすると、然らざるとによりて、さるだうりも有ルにや、さりとて歌学のよき人のよめる歌は、皆必ズわろきものと、定めて心得るはひがこと也、此二すぢの心ばへを、よく心得わきまへたらんには、歌学いかでか歌よむ妨ゲとはならん、妨ゲとなりて、よき歌をえよまぬは、そのわきまへのあしきが故也、然れども歌学の方は、大概にても有べし、歌よむかたをこそ、むねとはせまほしけれ

宣長は、「うひやまふみ」で、詠歌と歌学と二つがあって、
歌学がよい人はだいたい歌を詠むのが下手で、歌学のない人のほうが歌はうまい。
しかし歌学の良い人は必ず歌が下手だというわけではない。
詠歌と歌学という二つのものそれぞれの性質(こころばへ)を心得ていれば、歌学が詠歌の妨げとなるはずはない。
良い歌が詠めないのはそのわきまえがないからだ。
しかし、歌学のほうはだいたいでよく、歌を詠むほうをこそ大切にするべきだ。
などと言っている。

これは宣長自身が戒めとして言っていることに違いない。
あるいは契沖や頓阿のことを言っているのだろう。
宣長は国学者であり、歌学者であった。古学を解き明らめることを得意とする人であった。
しかしなによりも歌人たることに憧れていたし、歌人であることに至上の価値を見出していた人だった、と言えないだろうか。

少なくとも詠歌よりも歌学のほうが、歌学よりも古学のほうが重要で、(古事記などの)古学に励みなさい、などというはずがない。

宣長の初めての歌

> 新玉の 春来にけりな 今朝よりも かすみぞそむる ひさかたの空

宣長が19歳の時に、最初に詠んだ歌。
ちょっと検索してみると、いろんなことがわかる。

「春来にけりな」という歌は無い。
普通は「春は来にけり」と言うところだがなぜ「春来にけりな」?

> 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

やはりこれの影響か。

「来にけりな」であれば後鳥羽院

> 昨日まで かかる露やは 袖に置く 秋来にけりな あかつきの風

或いは寂連の

> 吹く風も 松の響きも 波の音も 秋来にけりな 住吉の浜

がある。
いずれも「秋来にけりな」の形。
いずれにしてもあまり事例は多くない。
「あらたまの」は普通は「年」にかかるが「春」も無くはない。
「今朝よりも」これもあまり用例はない。初出は凡河内躬恒

> 七夕の 飽かで別れし 今朝よりも 夜さへ飽かぬ 我はまされり

普通は「春立ちぬ」などというところだが、「春来にけり」「春は来にけり」も少なくはない。

「かすみぞそむる」これも用例がない。まあ、普通ならば「かすみそめたる」などとやるところだ。

「ひさかたの空」これもなくはないが用例は少ない。
初出は西行の

> うき世とも 思ひとほさじ 押し返し 月の澄みける ひさかたの空

であるらしい。

これらは主に新古今時代の歌だが、新古今やその他の勅撰集に出ているわけでもない。
宣長はどうやって和歌を勉強したのであろうか。
もう少しほかの宣長の初期の歌に当たってみる必要がありそうだ。

> 今朝よりや 春は来ぬらむ あらたまの 年たちかへり かすむ空かな

似てる歌を探してみた。
これは二条為世。まあ、普通の歌人の歌だわな。
そうだなあ。私なら、もとを活かして

> あらたまの 春は来にけり あしたより かすみそむらむ ひさかたの空

或いは

> あらたまの 年のたちぬる あしたより

などと直すだろうか。
いずれにせよ私はこんな歌は詠まないけど。

村岡典嗣『本居宣長』

村岡典嗣『本居宣長』

自分の門弟たちには、どうも歌文の道を好む人が多く、自分の学問の本旨である、古学をする人のないのは、嘆かはしいことである。それゆえに御身も、先にも言つた様に、神代の道を明らめることを専らとして、歌文といふごとき末のことに心をとめるな

門弟の服部中庸という者に、宣長が死の直前に戒めたことばだというが、とても信じられない。宣長が「歌文といふごとき末のこと」などという認識を持っていたはずがない。これはおそらく服部中庸が平田篤胤とともに謀ったことか、或いは篤胤が服部中庸から聞いたということにして勝手に広めた説ではなかろうか。

とくに平田篤胤は信用できない。

『うひ山ぶみ』を見るだけで明らかなように、宣長は「歌文」について、特に「歌学」についてそうとう細かなことを記している。歌学について書いた分量と他の記述の量を比べてみよ。

いずれにしても、こういう他人の逸話というのは信じるに値しない。宣長は、自分の考えはすべて著書にして遺した人で、門人に何か秘伝のようなことを遺す人ではない。また、宣長の書いたものと、門人が伝えることに齟齬があるとすれば、それは門人が間違っているか、嘘をついているのだ。宣長はそうやっていろんな人に勝手に解釈され利用される人だった。