樋口一葉の父は甲斐国から江戸に駆け落ちしてきた幕臣の息子であったらしい。甲府藩はもともと徳川宗家が治めていたがのちに幕府直轄領となり、江戸であぶれた幕臣が左遷されるようなところであった。ということは樋口家ももともとさほど身分の高い幕臣ではなかっただろう。駆け落ちしたかったということもあっただろうが、辛気臭い甲府を出て華やかな江戸時代末期の町人文化が花開いた江戸に出たいという気持ちが強かったのではないか。
一葉の父、樋口則義はいろいろ周旋して同心株を買って町奉行所の同心になったという。町奉行所には奉行がいて、与力がいて、同心がいて、その下に岡っ引きがいるわけで、おそらく則義のような仕事をこなしつつやっと同心に取り立てられたということだろう。となると、一応は、銭形平次や八五郎よりは身分は上で、最下級ではあるものの徳川宗家直参の武士ということになる。
与力といえば大塩平八郎が有名だが、与力ともなれば200石扶持、300坪程度の屋敷を与えられるからいっぱしの御殿様だ。
同心はそれよりか少し格下で30俵2人扶持だが100坪、つまり300m2程度の屋敷を与えられていた。
ところが幕府が瓦解して、父は死に、一葉一家は住む家にも困ることとなる。典型的な没落士族といった図だ。この頃一葉が書いた「塵中日記」を読むと、非常に狭い棟割長屋のようなところに親子三人で住んでいる。そうしてそういう境遇から抜け出せないままに24才で死んでしまうのだから、なんともかわいそうな人だ。
塵中日記は文章もわかりやすく読みやすいし、歌も面白い。近所に住む女郎連中に手紙の代筆を頼まれたりしている。