タルコフスキー版ソラリスの問題

ハヤカワ文庫、旧訳「ソラリスの陽のもとに」と新訳「ソラリス」を読み比べると明らかに旧訳はおかしい。Joanna Kilmartin と Steve Cox による英訳「Solaris」も読んでいる。冒頭、新訳では「私は竪穴の周りに立っている人たちの前を通りすぎ、金属製の梯子を降りてカプセルの中に入った。」というところが旧訳では「私は狭い金属の階段を降りて、カプセルの中に入った。」、英訳では「The men around the shaft stood aside to let me pass, and I climbed down into the capsule.」となっている。英訳では金属というニュアンスが落ちている。旧訳は旧訳で、だいぶはしょっている。

スタニスワフ・レムは母国語、つまりポーランド語で原作を書いたと思われるが、ロシア語ならともかくポーランド語から直接翻訳できる人がそんなにいるとは思えない。まそれはともかくとして、新訳はできるだけ原文に忠実に訳そうと努力しているような感じを受ける。

レムの原作は、ソラリス・ステーションに着陸し、ステーションの中に入り、スナウトに出会って、スナウトと会話するところまでが実に念入りに書かれている。タルコフスキー版ソラリスの大きな問題は、そこのところが極めて雑だということだ。ハリーと出会うまでの前振りとして、ここをどのくらいきちんと描写するかで、全然感じが変わってしまう。

スナウトはかなり重要な人物なのだがタルコフスキーはたぶん全然彼に関心が無かったのだろう。その点、ソダーバーク版ではケルヴィンとスノー(スナウト)の出会いと会話がかなり緻密に描かれていて好感が持てた、ような気がする。またちゃんと見直してみようと思うのだが。

タルコフスキーは単にスナウトを老いぼれた科学者という程度にしか描いていないが、ソダーバーグのスノーは若くて演技力が高い。ここの部分はソダーバーグがちゃんと原作を参照して丁寧に解釈し直していて偉い、と思う。

以前にも私は「スノー役のジェレミー・デイビスは名演技だった。」などと書いている。タルコフスキー版ではスナウトと話している最中からいろんな怪しげな現象があちこちで起きているのだがそんなことは原作には書いてない。タルコフスキーはクリスとスナウトが延々としゃべるシーンに耐えられなく、映像で手っ取り早く表現したかったのだろうが、雰囲気を台無しにしていると思う。原作ではスナウトに会い、自分の部屋でシャワーを浴びるまでケルビンはずっと重い宇宙服を着っぱなしだったのに、タルコフスキー版では宇宙カプセルから降りたばかりのケルヴィンが普段着で皮のブーツの紐がほどけていてつまづくなどというつまらない演出を入れている。SFを軽視するのも甚だしい。ちょっと許しがたい気がする。

家康の和歌

井上宗雄『中世歌壇史の研究 室町後期』、明治書院改訂新版とあるがところどころに誤字など残る。あるいは改訂後の加筆か。近衛信尹の「姉前子」とあるが、これは妹でなくてはならない。前子は信尹より10才年下のはずだ。

「近衛殿、様狂気に御成候、竜山様、御子様の事也」「宮中、異形にて御注進也」「以外之儀間、九州薩摩へ御下被成」

などと書かれていて笑う。

「近衛殿は海上にて生害了と」「実否は知らず」

とはつまり海上で自殺したと言われているが真否はわからんなどとも書かれている。

信尹の側近が作ったという『犬枕』という仮名草子があるそうだ。『犬之草紙』というものもあるらしい。

p.657 天正16年8月15日「衆妙集によると家康のは幽斎の代作であった。」p.673「その晴れの歌の一首が幽斎の代作であることは分かっている」

などと書いているのだが、根拠はあるのだろうか。『衆妙集』は細川幽斎の歌集だが、いったいどこにそんな話が載っているのだろう。たしかに『衆妙集』には「人々にかはりて」詠んだ歌というものがいくつも載っているが、家康の歌と同じものはないように思う。

本所・桜屋敷

鬼平の第1話は「唖の十蔵」でこの回はまだ火付盗賊改方長官の長谷川平蔵と妻の久栄、与力筆頭の佐嶋忠介、そしてのちに密偵となる粂八くらいしかでてこない。ほかにはこの話にしか出て来ない同心の小野十蔵が出るくらい。初回らしく非常にシンプルな話である。

第2話の「本所・桜屋敷」では彦十と岸井左馬之助が出てくる。ほかには酒井祐助、竹内孫四郎、小柳安五郎という同心が出てくるが竹内は後の話では自然消滅してしまう。

ところが新しいテレビドラマの「本所・桜屋敷」ではいきなり主要登場人物が勢揃いでそのうえゲスト出演で松平健まで出てきて、平蔵と松平健の対決まで盛り込んでいるから、これだけ誰も彼も出演させて、ゲストのメンツも立てて、その上昔と今と二人一役やらせて、そういう条件付きで一話に全部盛り込めと言われた脚本家はさぞかし苦労しただろうと思う。これを見させられるほうも迷惑で、少なくとも私にとっては大迷惑だった。ストーリーは二の次で制限時間内に俳優を並べるだけで精一杯だっただろう。最初は少ないキャストで、だんだんに増やしていけばもっと話も作りやすかっただろうと思う。私も歴史小説など書いていて思うが、こういう説明的、前振り的、紹介的な書き出しは決してやってはならぬと思っている。いつの間にか自然と話の世界に入り込んでいたというような導入が最善だと思うが、テレビドラマではそうもいかないんだろう。

銭形平次と池田大助

銭形平次の朗読をyoutubeかaudibleでいくつも聴いているうちにだんだん飽きてくる。トリックも展開も先に読めるようになってしまい、ああまたこの仕掛けかとか、まあおそらくこんな感じにオチを付けるのだろうと思いながらいい加減に聴くから途中で筋が追えなくなって聴くのをやめてしまったりする。

銭形平次は全部で383編あるそうだが、ネタのパターンとしてはせいぜい20か30くらいで、それをいろんな脚色をして書き分けているだけであろう。池田大助も登場人物が少し違うだけでパターンは同じだから同じように飽きてしまう。20話くらいの傑作選を編んでそれを読むので十分だと思う。

筆記試験における圧迫面接的要素

某予備校の現国の問題集を読んでいると、なんだってまた現国というものは、こんな不愉快な現代文を読まされ、問題を解かされなくてはならないのだろうという気にさせられる。その中に菊池寛の書いたものが混ざっていて、私はそれを一気に読み終えて、爽快感を覚えた。こんな菊池寛みたいな文章ばかりが出題されたのなら私はきっと現国を好きになれただろうと思う。

要するに現国というものはまず書かれた内容に私はまったく共感もできなければ関心も持てないのだ。むしろ反感しか抱けないのだ。読む気が起きない、こんな文章に付き合わされるのが苦痛でしかたないのである。中には、理科系や科学に対する露骨な敵意と無理解が綴られただけの文章もある。エセ科学者や科学評論家が書いた鼻持ちならぬ文章もある。衒学的としか言いようがないこむつかしいだけの無意味な文章もある。なぜこんな文章を読まされねばならないのか。おそらく世の中のマジョリティがこうした文章を読むことに快感を覚えているからに違いない。世の中にはそうした需要があり、多くの人はこうした文章を読むことになんら抵抗が無いのだろう。私には信じられないことだが。そして彼らは自分たちがマジョリティであることを確認して安心しているのに違いない。こういう幼稚としか言いようがない現状に、大いなる不幸を感じる。

「自由とは無条件に良いものだと思われがちだが、」そんなこと思ってねーよ。世の中に「無条件で良いもの」なんかあるはずねーだろ。あり得ない誘導するなよ。はなからあり得ない前提に基づいて延々とお説教聞かされている感じ。だから全然読む気になれないんだよ。

世の中で教養人とか文化人ともてはやされている連中の有り難くもない御託や蘊蓄や価値観や思想を強制的に押しつけられ苦痛に耐えるだけのイベントとしか思えない。現代に残る圧迫面接の一種か。マークシートだけでなく記述式や小論文にもそうした筆記試験における圧迫面接的要素はあるのだろう。つまり未だに入試が、出題者が属する学術的コミュニティに受験者が適しているかどうか同調圧力をかけて試す通過儀礼の場、ある種のアカデミックハラスメントとしての性格を有しているからだろう。