読書」カテゴリーアーカイブ

筆記試験における圧迫面接的要素

某予備校の現国の問題集を読んでいると、なんだってまた現国というものは、こんな不愉快な現代文を読まされ、問題を解かされなくてはならないのだろうという気にさせられる。その中に菊池寛の書いたものが混ざっていて、私はそれを一気に読み終えて、爽快感を覚えた。こんな菊池寛みたいな文章ばかりが出題されたのなら私はきっと現国を好きになれただろうと思う。 要するに現国というものはまず書かれた内容に私はまったく共感もできなければ関心も持てないのだ。むしろ反感しか抱けないのだ。読む気が起きない、こんな文章に付き合わされるのが苦痛でしかたないのである。中には、理科系や科学に対する露骨な敵意と無理解が綴られただけの文章もある。エセ科学者や科学評論家が書いた鼻持ちならぬ文章もある。衒学的としか言いようがないこむつかしいだけの無意味な文章もある。なぜこんな文章を読まされねばならないのか。おそらく世の中のマジョリティがこうした文章を読むことに快感を覚えているからに違いない。世の中にはそうした需要があり、多くの人はこうした文章を読むことになんら抵抗が無いのだろう。私には信じられないことだが。そして彼らは自分たちがマジョリティであることを確認して安心しているのに違いない。こういう幼稚としか言いようがない現状に、大いなる不幸を感じる。 「自由とは無条件に良いものだと思われがちだが、」そんなこと思ってねーよ。世の中に「無… 続きを読む »

結婚式

シャイニングを、原文と和訳を見比べながら読んでいるのだが、なかなか面白い。これによると、キリスト教徒の伝統的な結婚式では、神父(牧師)が新婦の父親に Who giveth this woman? と尋ねて、それに I do. と答えるらしいんだが、つまりこれは女は父の持ち物から夫の持ち物となるという、完全な家父長制の、というかゲルマン法に基づく儀式であって、「バージンロード」というからには処女の娘を夫となる男のところへ連れて行くのは父でなくてはならず、従って新婦の母親はいなくてもよいし、新郎の父もいなくてよいことになる。 この箇所、和訳では「この男にめあわすために、この女を渡すのは誰か?」「われこれを行なう」となっていてしかも傍点までふってある。日本でも昔は教会でこういうふうなセリフを使ったのかもしれない。そのまま訳しちゃわけわかんないから略さずに言うセリフを探し、さらにそれを古風な和訳に置き換えたのだろう。翻訳者の苦労がわかるね。

シャイニング

『鬼平』全巻を読み終えたので今度は『シャイニング』を読み始めた。思うに私が読む小説というのはたいてい映画かドラマの原作になったものだ。それを映画なんかと見比べながら読む。『ソラリス』『ハイディ』なんかもそうだ。それはつまり、私自身に、鑑賞したり消費したりするだけではなく、自分も創作したいという願望があるからだと思う。映画やアニメ、ドラマ、ゲームなんかは一人では絶対作れない。お金を集めてくる人、監督する人、編集する人、素材を作る人なんかが要る。小説なら自分一人の一存で作ることが出来る。だから私はもっぱら小説を書いている。他の作品を参考にしたり、それらの作品がどのように脚色され、原作としてどういう扱いを受けているのかってことに興味があるのだ。

鬼平犯科帳24巻読了

とうとう鬼平犯科帳を全部読み終えたので何か感想を書こうと思うが、これがまたけっこう難しい。 第23巻から「荒神のお夏」という同性愛の盗賊の頭が出てきて、それまでの路線からちょっとはみ出していて、あれっと思った。マンネリ気味になったので新しいキャラを入れて無理矢理新しい展開を作り出そうとしているようにもみえた。 お夏は火付盗賊改の密偵となっているおまさを気に入り、おまさもお夏の妖しい魅力に抗しきれてない。おまさらの活躍でお夏一味の押し込みは失敗するが、お夏だけはなぜか逃げ延びる。 おまさはお夏がおまさを殺しに来るのだろうと思っているが、お夏はおまさが密偵であることに気づいておらず、ただおまさを見つけ出して一緒に暮らしたいと考えている。お夏はおまさを連れてくるよう、知り合いの盗賊、三河の定右衛門なる者に依頼するが、彼の一味の中にはおまさが密偵であることに気づいている者がいて、おまさをお夏の所へ連れて行く前に始末しようと考えている。 ここで定右衛門一味は神谷勝平という浪人を雇っておまさを誘拐するが、神谷はおまさやお夏に同情的で、おまさの危難を救ってやろうと考えている。 という辺りまできて作者死去のため、この「誘拐」という長編は中断している。 この続きがどうなるかというと大筋としては定右衛門一味は例によって火付盗賊改によって捕らえられおまさは救い出される、ということになろう。ただこの、荒神… 続きを読む »

目安箱とか玉くしげとか

落とし文とか捨て文というものを制度化した目安箱ってのがあったはずだよね。で、ちょっと調べれば、天明の飢饉のとき、松平定信が諸藩や民間人からも献策を推奨し、宣長も『玉くしげ』『秘本玉くしげ』などを紀伊藩主徳川治貞に献上した、くらいのことはすぐにわかるはず。 徳川幕府が人民に施した善政などない、江戸時代は暗黒時代だったっていうネガティブキャンペーンを薩長が文部省なんかを使って長年にわたって繰り広げたせいで、ネトウヨはとかくこうした間違った歴史観をもっている。 定信の父は田安宗武、宗武の父は徳川吉宗で、もとは紀州藩主だった。宗武は賀茂真淵に国学を学び、定信もおそらく国学的な雰囲気の中で成長したはずで、そうなると徳川宗家の開祖家康がとんでもなくむちゃくちゃな宗教観・思想の持ち主だってことは、定信もわかっていたはず。 ところが定信は朱子学を信奉する教条主義者だってことになってしまった。そんなはずないだろ。定信の著作をみれば明らか。尊号一件の扱い方にしても、彼が完成させた大政委任論にしろ、定信が、賀茂真淵や本居宣長らのような、国学者的な尊王家であるのは明らかだ。 ネトウヨの無知蒙昧を正すのでなくそれを煽って部数を稼ごうなどという輩が愛国者と言えるだろうか。

日本国紀

松平定信や白河天皇に対する評価なんて、ほんとに一番ダメな部分の水戸学の影響を受けた、ほんとに駄目な薩長の史学を受け継いでる。だからネトウヨはダメなんだよ。ホンモノの勤王、ホンモノの水戸学を知らない。本当の歴史を知らない。ごく大雑把に言えば司馬遼太郎程度の史観しかない。 徳川幕府が260年続いたのはともかくもうまく治めたからだよ。足利幕府や鎌倉幕府と比べてみれば一目瞭然。明治維新からまだ160年。あと100年もたなきゃ薩長は徳川には勝てないよ。 特に、松平定信は名宰相と言って良い。彼がいなければ徳川幕府はもう少し短命だったかもしれんね。家継の後、吉宗が将軍になってちょっとましになり、孫の定信が出たから100年くらいは寿命が延びたんじゃないか。大政委任論は定信が完成させたんだがそれは彼が尊皇だったからだよ。宣長の思想をちゃんと理解できてたからだよ。宗教音痴の家康からはそんな発想は全く出てこなかったと思う。薩長に比べれば徳川宗家はずっと勤王、尊皇だよ。ひどいもんだよ明治政府が作った皇室典範なんてさ。開国して富国強兵が国是だったからある程度仕方ないとしてもだよ。 家康は浄土宗から天台宗に改宗したり、天海とか林羅山とかわけのわからない坊主を側近にした新興宗教狂い、宗教音痴で、日本人を宗教でがんじがらめにしようとした。そのうえ健康オタクでどうしようもないヤツだった。その成れの果てが林家であり湯… 続きを読む »

日本国紀

そうそう。為永春水の小説なんか読むと書いてあるんだがなあ。

日本国紀

ポツダム宣言を受諾したのも、ひとえに当時の大日本帝国政府の大臣らが無知だったせいなんだろうなあ。 三国干渉を飲んだのも当時の明治政府が無知だったからなんだろうな。

日本国紀

今更ブログでいろいろ書きたいことがあるわけでなく、また、酔った勢いでツイッターであれこれ書くのももうやめようと思っているのだが、本は売りたいと思っている。だから本の宣伝になるようなことはしたいと思っている。あと、ツイッターで書き散らしたことも、ある程度こちらでまとめ読みできるようにしておこうという気持ちがある。 『日本国紀』の初版が出たときは、私も買ってみて読んで、Shin Hori氏や、桜ういろう氏、事務カリー氏らと競っていろいろアラを探したりしたのは楽しい思い出だ。私は単なるうっかりミスとか、Wikipediaの引用なんかにはさほど興味はなかったのだ。誰だって本を書けば間違いの一つや二つはあるよ。それは改訂版出すときに直せば良い。著者の芸風というか、ビジネスモデルに文句言っても仕方ないしそういう辺りにのめり込む趣味は無い(ってあたりがワイが左翼とは違うところか)。 問題はその間違い方にあるわけで、間違う背景に、非常にいびつな、偏った、よく調べもせずに決めつけたような歴史観があるのが気に障ったわけだ。たとえばヨーロッパ諸国はみな君主国というのはおかしいわけで、古代には共和制アテナイや共和制ローマなどがあったわけだし、中世、近世、近代にも共和国はあった。「重箱の隅」の「驚くほど小さなミス」というより、歴史事実から知見を得ようとせず、逆に自分の主義主張趣味を歴史に当てはめようとする態… 続きを読む »