亭子院歌合

勝、負、持(ぢ)は引き分け。

> 左の奏は巳時にたてまつる。
方の宮たち、みな装束めでたくして、州浜たてまつる。
大夫四人かけり。

> 右の州浜は午時にたてまつる。
おほきなるわらは四人、みづらゆひ、しがいはきてかけり。

かけり、というのは担いだという意味で、
神輿のようにして四人がかりで州浜を担いだ、と言っている。
州浜が未だによくわからんが、やはり巨大な生け花のようなものだったように思う。

寛平菊合でも州浜に菊を挿すなどという話がでてくる。

> 左 貫之

> さくらばなちりぬるかぜのなごりにはみづなきそらになみぞながるる

> 右 貫之

> みなぞこにはるやくるらんみよしののよしののかはにかはづなくなり

> みぎかつ。うちの御うた、いかでかはまけむ、となんのたまひける。

州浜が入るのも、奏楽があるのも、歌を詠むのも左→右の順番のようである。

左も右も同じ歌人なのはどうなのかと思うのだが、
同じ亭子院歌合ではそういう例がいくつもあるので、
同一人物が判者(この場合は宇多上皇)にどちらが良いか決めてもらうという意味か。
「うちの御うた、いかでかはまけむ、となんのたまひける」がわかりにくい。
貫之の、右の方が良いが、私の歌なら負けなかっただろう、という意味か。
この詞書きのせいでこの歌が宇多天皇の御製に間違われ、
さらに醍醐天皇の歌に間違われたのだろう。
思うに、貫之の歌というのが一番自然だ。
宇多天皇はこういう、見もしないみよしのの歌なんて歌わない気がする。
気がするだけだが。

丸谷才一は、だがたとえそうだとしても、勅撰集に醍醐天皇御製として採られているからには、
醍醐天皇の作とすべきだ、などと言っていて、そんなはずはないと思う。
どこからそんな考え方がでてくるのか。

室町時代の勅撰集はそういうことをよくする。
詠み人知らずの歌を猿丸大夫の歌だとかよくわからんことをする。
けしからんことである。
「王朝文化」というのはそういう江戸時代や室町時代から古代を眺めたフィルターのかかったものではないはず。
それは結局、王朝時代の価値観ではなく、江戸時代の価値観にすぎないからで、
現代人が王朝時代を江戸時代の価値観で眺める必要などない。
古いものが神秘的でありがたく見えるのは人間の習性にすぎない。
実際昔の方が迷信深くて信心深かっただろうが、
なんでもかんでもそんなふうに解釈するのは間違っている。
丸谷才一も結局は「古今伝授」と同じ病気にかかっている。
古今伝授といってもそれは紀貫之が考えていたこととは似ても似つかぬものだ。
紀貫之をありがたがるなら古今伝授などというもので紀貫之の姿がゆがめられていることを排除し、当時彼らがどのようなものの考え方をしていたかを推し量るべきではなかろうか。

王朝とか新古今とかいいながら、
実は江戸時代や現代人の価値観で王朝とか新古今とか言ってるだけではないか。
だから、王朝文化は新古今で死んだとかいいたくなる。
江戸時代にも王朝文化は続いていた。
連続性はあった。
古今伝授のような迷信のせいで不連続に見えるだけではないのか。

> 左 御

> はるかぜのふかぬよひだにあらませばこころのどかにはなはみてまし

> ひだりはうちの御うたなりけり、まさにまけむやは

「ひだりはうちの御うたなりけり」左は実は御製だったのだ、負けるはずがない。
判定は誰が詠んだかわからぬ状態でやるらしい。
ま、その方が公平だわな。
詠み手とは別の人がよみあげ係をやる。
で、判者が宇多上皇だから、本人は自分の歌が勝ちと判定するから負けるはずがない、
とまあそんな意味だろう。

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