草枕3

草枕草枕2の続き。

「草枕」だが漱石が自分で作った詩がまだあった。

青春二三月 青春二三月
愁隋芳草長 愁ひは芳草に隋ひて長し
閑花落空庭 閑花は空庭に落ち
素琴横虚堂 素琴は虚堂に横たふ
蠨蛸挂不動 蠨蛸(あしたかぐも)、挂(かか)りて動かず
篆烟繞竹梁 篆烟(篆書のようにくねくねと立ち上る煙)、竹梁を繞(めぐ)る
獨坐無隻語 獨坐し隻語無し
方寸認微光 方寸、微光を認む
人間徒多事 人間、徒(いたづ)らに事多し
此境孰可忘 此境、孰れか忘るべけむ
曾得一日靜 曾て一日の靜を得て
正知百年忙 正に百年の忙を知る
遐懐寄何處 遐懐(遠く眺める)、何處にか寄せむ
緬邈白雲鄕 緬邈(はるかかなたに)、白雲の鄕

墨場必携:漢詩 春日靜坐 夏目漱石

きたね白雲きたね。

これも押韻はしているが平仄はけっこう適当(※追記。岩波文庫「漱石詩注」p.73に五言古詩として載る)。

たぶんこの出来だと平仄警察がわらわらわいてきて漱石は相当、詩人としてのプライドを傷つけられたと思うなあ。

夏目漱石が「草枕」を書いたのは明治39年、処女作「我が輩は猫である」は明治38年。しかしこれらの詩は明治31年、漱石が31才の時に作ったという。つまり「草枕」に出てくる画家と同じ年に作ったものだということになる。正岡子規が死ぬのは明治35年なので当時子規はまだ生きていた。

ウィキペディアによれば(書簡を見ればわかるというがそこまで調べるのはめんどくさい。よっぽどヒマがあったら調べてみるか)、熊本で英語教師をしていた漱石は、明治30年の大晦日、つまり明治31年の正月に、友人であった山川信次郎とともに熊本の小天温泉に出かけ、そのときの体験をもとに『草枕』を執筆したとある。漱石の誕生日は2月9日なので、明治31年正月の時点で彼はちょうど30才だった。まさに当時「三十我欲老」という心境だったのだ。やはり漱石は売れっ子作家になる以前の自分に回帰しようとして、自分自身をモデルとして、『草枕』を書いたのであろう。

漱石は「正岡子規」と題する談話で、「大将(子規)の漢文たるや甚だまずいもので、新聞の論説の仮名を抜いたようなものであった。けれども詩になると彼は僕よりもたくさん作っており、平仄もたくさん知っておる。僕のは整わんが、彼のは整っておる。漢文は僕の方に自信があったが、詩は彼のほうがうまかった。」などと評している。つまり若い頃漱石はあまり平仄の整わない漢詩を作っていた、それに対して子規の漢詩はきちんと整っていたのだった。だいたいつじつまが合う。

漱石が本気で(まじめに)漢詩を作り始めたのは、明治43年、修善寺で喀血した後のことだろう。『こころ』なんかを書いたのはさらにあと、大正3年頃。

岸には大きな柳がある。下に小さな舟を
つな
いで、一人の男がしきりに垂綸
いと
を見詰めている。一行の舟が、ゆるく波足
なみあし
を引いて、その前を通った時、この男はふと顔をあげて、久一さんと眼を見合せた。眼を見合せた両人
ふたり
の間には何らの電気も通わぬ。男は魚の事ばかり考えている。久一さんの頭の中には一尾の
ふな
宿
やど
る余地がない。一行の舟は静かに太公望
たいこうぼう
の前を通り越す。(中略)
かえ
り見ると、安心して浮標
うき
を見詰めている。おおかた日露戦争
にちろせんそう
が済むまで見詰める気だろう。

といった具合に日露戦争中であるような記述がある。日露戦争は明治37年から38年にかけてだから、その正月あたりの状況を写したものだろう。つまりちょうど203高地が陥ちた頃だ。久一さんとは徴兵で取られていく人のように思われる。「草枕」の発表は明治39年だから、執筆中、その頃の記憶も新しかったはずだ。つまり「草枕」は7年ほど前の30才の時の自分を日露戦争当時の世相に埋め込んで作られた話だということになる。

「やっぱり駄目かね」
「駄目さあ」
「牛のように胃袋が二つあると、いいなあ」
「二つあれば申し分はなえさ、一つがるくなりゃ、切ってしまえば済むから」
 この田舎者いなかものは胃病と見える。彼らは満洲の野に吹く風のにおいも知らぬ。現代文明のへいをも見認みとめぬ。革命とはいかなるものか、文字さえ聞いた事もあるまい。あるいは自己の胃袋が一つあるか二つあるかそれすら弁じ得んだろう。余は写生帖を出して、二人の姿をき取った。

これは主人公の画家がスケッチした町中の人だが、胃病なのは漱石のほうだ。漱石はやはりこのころすでに胃潰瘍で苦しんでいた。

漱石の妻、鏡子が書いた『漱石の思ひ出』の中に

俳句には随分と熱心で、松山時代から熊本に居る間の五年間ばかりが、一番俳句の出来た時で、生涯の句の殆んど三分の二はこの五年間に出来たもののやうです。それには中央を離れて熊本のやうな田舎に居りまして、自然文学の話などする友達もなかつたので、ただ子規さんあたりに動かされて、一生懸命で句作したといふことがあづかつて力がございませう。後には漢詩も作りましたが、とても俳句程の熱心は見られませんでした。

などとあるが、漱石の日記などみるに、確かに俳句は数は多いが、思いつくまま詠みちらかしているといったふうで、中には面白い、よく出来たものもあるようだが、どちらかと言えば単なる気晴らし、気分転換、多くはちょっとしたメモかなにかのようなものだったと思う。真剣に身構えて詠んだものではあるまい。『草枕』にも

何でも
でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、
かわや

のぼ
った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来ると云う意味は安直
あんちょく
に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の
さと
りであるから軽便だと云って侮蔑
ぶべつ
する必要はない。軽便であればあるほど功徳
くどく
になるからかえって尊重すべきものと思う。まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人
ひとり
が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや
いな
やうれしくなる。涙を十七字に
まと
めた時には、苦しみの涙は自分から遊離
ゆうり
して、おれは泣く事の出来る男だと云う
うれ
しさだけの自分になる。

などとある。要するに俳句は詩の中では最も簡便なわけだ。

「後には漢詩も作りましたが」というのはほんとうに晩年の『こころ』なんかを書いてた頃のことを言っているのだと思う。鏡子さんが自分で書いているように漱石は子供の頃から漢詩に志があって、若い頃からけっこう作っていたはずで、日本人が漢詩を一つ作るというのは俳句を百詠むより難しいし、随分心構えが必要で、てまひまがかかるものであるから、そんなに量産できるはずがない。鏡子はその数だけを言っているように思える。

※追記。吉川幸次郎「漱石詩注」序に、「漢詩は夏目氏の文学において、相当の比重を占める。おそらくは俳句よりも、より多くの比重を占める。少なくともその自覚においては、そうである。」とある。

初期万葉集

白川静 孔子伝の続き。

白川静「初期万葉集」を読み始めた。これによればなぜ白川氏が万葉集の研究を始めたのか明らかだ。彼は漢学者、というより、漢字学者として、詩経を学び、詩経と万葉集を比較しようと考えたのだ。

詩経と万葉集を比較した学者ならば江戸時代にもいた。というより、平安時代にもいた。藤原公任は和漢朗詠集を作った。九条良経など漢詩も作り和歌も詠んだ。彼らは漢詩と和歌を際限なくごっちゃにしていた。

詩経に関しては荻生徂徠がかなりまとまったことを言っているはずだし、国学者も万葉集、詩経両方を研究した人がいたはずだ。私にはまずそこから研究すべきではないか、と思えたのだ。

しかし漢字学者である白川氏が江戸時代の国学者や歌学者を知っているはずもない。そうした先行研究を調べることはできなかっただろうと思う。もし万葉集の研究をするのであればまず仙覚、荷田春満、賀茂真淵の先行研究について触れなくてはならなかったのではなかろうか?

また私には、文字の無い時代から文字を得た時代の文芸について研究するのであれば、当然西アジアを含む全世界の古代文芸、ギルガメッシュ叙事詩や、ホメロスやその他の叙事詩との比較研究を行うべきであろうと思う。近代の研究者である白川氏にはその責務がある。しかしながら、世界の古代文芸との比較も行わず、江戸時代の先行研究のサーベイも行わず、白川氏独力で、いったいどれほどの研究ができるのだろうか、と私には思える。

一人の人間がそんな網羅的な研究ができるはずもない、もう少し限定的な何かを追求しようとしていたのかもしれないから、もう少し白川氏の書いたことを読んでみようとは思っている。

一人の一歌学者として思うに、日本人は古来、漢詩の理論で和歌を体系づけようとして、ことごとく失敗していた、その轍を踏むのではないかという危惧がある。

漢詩は漢詩なのである。和歌は和歌なのである。漢詩と和歌には似ている。確かに似ている部分もあろう。和歌が漢詩の影響を受けた部分は多い(逆は無いとしても)。しかしそもそもまったく違うものなのであって、これまで多くの人が陥った間違いに白川氏も陥るだけなのではないかという気がしてならない。そう、そもそも、日本歌学における漢学の影響を排除するところからしか、和歌というものは分析できないと私には思えるのだ。なぜなら、漢学の影響が日本文芸には強すぎるからだ。

漢語と大和言葉はそもそも言語として全然違う。相性は最悪だと思うが、長年の努力で混淆してきた。

私から見るとドイツ詩と漢詩は構造が良く似ている。しかし和歌はまったく違う。特に短歌形式や発句形式(俳句や川柳)は、短くて構造を持たないことが特徴である。一方(ゲーテなどの)ドイツ詩や漢詩は対句や押韻によってシンメトリカルに整った構造を持っている。今様や都々逸にはまだ構造や対称性、反復、リズムというものがあるけれども、短歌には無い。短歌でリズムを表現しようとするところに多くの人の勘違いがある。金属や宝石などの結晶は構造があるがガラスは結晶ではない。ガラスはほとんど変形しない液体なのだ。短歌もまた結晶構造を持たない、アモルファス、静止した液体なのである。という比喩でわかってもらえるだろうか?

和歌は世界中見ても類例の無い詩形だ(良く探せばアフリカとかネイティブアメリカンなどに似たものがあるのかもしれん)が、東アジアと西アジア、そしてヨーロッパの詩というものは相互に影響を与えながら成立したのではないか。詩とはなんであるかということの考察はそんなに簡単なことではない。

霞関集 大江戸和歌集

江戸時代に石野広道という人が編んだ「霞関集」という私撰集が新編国歌大観第六巻に載っていて、安政年間に蜂屋光世という人が編んだ、「霞関集」の続編的な「大江戸和歌集」という私撰集も載っている。江戸には京都から下ってきた堂上和歌の家元、つまり、冷泉、中院、武者小路、烏丸、日野などの公家が、徳川直参の幕臣に和歌を教えていた(実際に京都から公家が江戸に下ってきたのではなく、ほとんどの場合は書簡で教えを受けていただけかもしれない)。純粋に学術的に研究している人をのぞけば、この、江戸における堂上和歌に関心を持ちわざわざ調べてみようという物好きはほとんどいないようである。研究している人たちもそうした和歌に文芸的な面白みがあるとは思っていないだろう。

私はかつてもし幕末に孝明天皇が勅撰集を作ったらどんな歌集になるだろうかと考えて、「民葉和歌集」というものを試みに選ぼうとした。その頃、私には小沢蘆庵、香川景樹、上田秋成、賀茂真淵などの江戸時代の歌人はすでに見えていたのだが、近世歌人の全貌というものはまだ全然見えてはいなかった。徳川家継の生母月光院が冷泉為村に習って詠んだ歌などもわずかに知っていただけだった。

「大江戸和歌集」に採られた歌は当然「民葉和歌集」にも採られなくてはならない。今はほったらかしているが、もしこれから「民葉和歌集」を完成させるのであれば、当然それら堂上和歌も調べてみなくてはならない。また「霞関集」の編者石野広道やその同輩らの歌も、同じように調べてみなくてはならんと思った。これとは別に同時期に本居大平が編んだ「八十浦之玉」という私撰集があってこれも新編国歌大観第六巻に載っている。この「八十浦之玉」については調べなくともだいたいどんなものかは予想が付くのだが、やはりちゃんとこの機会にどんな歌が採られているか見てみる必要があると思った。

「霞関集」「大江戸和歌集」などの江戸堂上和歌は、賀茂真淵が始めた県居門の和歌、つまり万葉調の和歌とはひどく対立していたらしい。村田春海はもともと江戸堂上和歌派であり、「霞関集」の初版には歌を採られていたが、後に真淵の県居門下に入ったために、「霞関集」の新しい版からは歌を抹消されたという。「八十浦之玉」は宣長の息子が編んでいるから、真淵と同じ国学の一派ではあるが、真淵の万葉調とはまた全然違う。しかしながら村田春海と宣長は同じ真淵の弟子どうしで(表向きは)仲良しだったから、その人間関係はかなりこみ入っている。

ともかく「民葉和歌集」はそれら江戸時代の歌人らの歌を門派によらずみんな採録して、また、21代和歌集に続く、22番目の勅撰集という形でまとめたいので、それまでの勅撰集に漏れた古歌も合わせて採りたいと思っていて、ちゃんと作るのは相当な手間だ。ものすごい大仕事になる。江戸時代の和歌というものは全然知られてないだけでものすごく莫大なボリュームがあってそれを一通り調べるだけでも気の遠くなるような作業が必要で、ちゃんと研究している人はいるにはいるけどほとんど手が付けられていない状態だと思う。世の中の人たちはみんな小倉百人一首レベルの知識で止まっていて、或いは明治以降の新派和歌にしか興味がなくて、250年間続いた江戸時代の和歌を総括しようという人はいない(いや、いたのかもしれないが全然成果が出ていない)。江戸の幕臣たちが膨大な和歌を詠み遺していたなんて誰も知らない。

で、実際江戸時代の和歌には価値がない、調べる価値がそもそも無いのかというと、石野広道の歌をちらっと見た感じではけっこう面白い。たとえば、

かすかなる 田づらの庵の ともしびも 蛍やおのが 友とみるらむ

など。堂上和歌を模倣した以上の機知がある。師の冷泉為村なんかよりずっと面白いのではなかろうか(私は加藤千蔭や村田春海の歌はちっとも面白いとは思わないが石野広道の歌はかなり面白いと感じる)。現代の私たちが和歌を詠むのに役に立つヒントやアイディアがかなり含まれているように思われるのである。

江戸時代ってやっぱすげーなと思う。我らは江戸時代に対してテレビドラマの時代劇でみるうすっぺらいイメージしか持ってない。しかし水戸黄門にしろ、吉宗評判記にしろ、最初放送がスタートした頃はすごくきゅっと締まった硬派な番組だったんだが、しだいしだいにだらけてきて、ただの紋切り型のチャンバラになってしまった。そういうものばかりみているから江戸時代なんてちゃらいと思いがちである。

加藤千蔭とか村田春海とか、よくもまあこんなチャラい歌ばかり詠んだものだとあきれかえるのだが、今はほとんど忘れ去られた優れた歌人や歌が、或いは随筆や評論や研究が、長い長い江戸時代には実はみっちりとつまっていて、膨大な堆積物となって遺されている。それらは第二次世界大戦の敗戦という壁の向こうにあって、さらに明治維新というものが目隠しになっていて、今の私たちには容易に想像できないものになっていて、きちんと読む人もいない。

そういうものをどんどん掘り返す作業をしなきゃいけない。実にもったいない鉱脈である。そもそも雄略天皇以来1500年の和歌の歴史というものはものすごく分厚くて、そう簡単にわかるものじゃあない。図書館に行くと日本歌学大系という佐佐木信綱が主体となって編んだシリーズものがあるがこれとは別に歌学文庫 本居豊頴 監修 室松岩雄 編 法文館書店というものがあって、これは要するに宣長のひ孫が編集したものらしいのだが国会図書館デジタルコレクションで見れる。恐ろしい。また世の中には筑摩書房の宣長全集というものがあるが、これとは別に本居全集 吉川弘文館というものがあってこれがまたすごい。さらに荷田全集(荷田春満)というのがあるがこれまたすごい。国会図書館の送信サービスめちゃくちゃすごい。そういうのが明治以降戦前までに相当するまとめられていてこれらを読むだけでもあっという間に10年くらいはかかりそう。世の中のつまらん俗事に時間を取られている暇などないのである。

菅茶山の和歌

菅茶山は漢詩人で、頼山陽の師として知られるが、和歌もかなり詠んでいたらしい。木村雅寿という人が書いた「筆のすさび」跋にも

書き寄せし かひこそなけれ 山川に 生ふる藻草は 玉も混じらず

などとある。この「筆のすさび」には多く歌の引用もある。またその中に「歌道評論」と題して

江戸の友人、長流契沖以下の古体をよむ人の歌をあつめて一書をなす。或人見て、「真淵以後の人、中古の歌をそしる者多し、内々は何某公の歌の中にても、きこえぬありなどどいひてそしるもあり、今其そしられし人々の歌をかくあつめ見ば、此集と執れかまさらん、もし今の集まさらずば、そしりし人々心に慚ざらめや」といひし。此言はわれ人聞きて自ら警むべき事なり。
近頃の歌といふものは、拘ること多くしておもふ事もいひがたかりしを、長流以下の人々打やぶりしは、言葉の道の大功なり、これより女文字の文もよくする人出づ、京に蒿蹊江戸に春海など其選と見えたり、蒿蹊春海みな男文字をもよくよむ人なり。春海予に逢しとき、昔の歌よみ人は多半儒生なり、古今集の撰者の官職にても見るべしなどかたりし、春海名山の詩をこひあつむとて、予に浅間岳の詩をつくらしむ、其後程なく身まかりしと聞きぬ、其詩いくばくかあつまりけん。
同じ時千蔭にもあひし、みな木村定良を介とす、定良俗称俊蔵といふ与力衆なり。千蔭は隠居して総髪なり、顔色容貌さしも歌人と見えたり、耳しひて息女を傍におきて彼此の言を通ず。春海は半びんにて頭大に下ほそりたる顔なり、一面旧知のごとく磊落の人なりし。
蒿蹊は近江八幡の人京に住す、小男にて剃髪す、音吐大によく談ず。

などと言っているのだが、わかるようでわからない話である。「此集」「今の集」とは何を指しているのか。「長流契沖以下の古体をよむ人」とは下河辺長流や契沖を創始者としてその流れをくむ人たちが詠む歌が古体の歌だと思ってしまうが実はそうではない。ここに最初のつまづきがある。

「江戸の友人」は茶山と交際があった知人ではあろうがしかし茶山はむしろ「或人」の批判に同情しているのである。おそらく「江戸の友人」が編んだ「今の集」が送られてきたので、同郷の学友(或人)に見せたところ、いろいろと批評をされたので、そのことを書いているのだと思う。

「此集」「今の集」とは「江戸の友人」が集めた「古体」の歌集ということで、たぶんここには下河辺長流、契沖ら「中古」の歌は含まれていない。「中古」の歌とはつまりここで「そしられし人々の歌」であり、「此の集」「今の集」とは「そしりし人々」が詠んだ歌、江戸で流行した真淵以後の、いわば、「疑似万葉」「新万葉」の歌、つまり「古体」の歌をさしているのだろう。

真淵門下の「古体」を詠む人々が「中古」の歌をそしっている。「中古」の歌と「古体」の歌を比較してみて、「古体」が「中古」にまさっていなかったとしたら、「古体」を詠む人たちは恥知らずということになる。そう言いたいのだろうと思われる。

「中古」とはつまり江戸初期の長流契沖のような歌を言い、「古体」とは江戸中期以降の万葉調を言うのだと思われるが、これは江戸時代の人の感覚であって、現代人にはわかりにくいと思う。

たとえていえば今の人が「江戸仕草」とか「恵方巻き」など昔ながらの古いしきたりのように言うことが実は最近捏造されたものであって、全然古くもなんともなく、実は新奇なものであるのに似ていると言えようか。

「近頃の歌」というのは、「拘ること多くしておもふ事もいひがたかりし」それを「長流以下の人々打やぶりし」などと言っているのを見ると、こちらはどうも、江戸時代以前の歌、もしくは江戸時代に残った堂上和歌のことを言っているらしい。つまり時系列に古い方から並べると、「近頃の歌」「中古」「古体」となる。非常に紛らわしい。江戸時代には和歌はだんだんと古代にさかのぼっていくようにみえる。古ければ古いほど新しい。逆説的ではあるがしかしそれが当時の人々の自然な感覚だったのだろう。明治以降の人にとっては新しければ新しいほど新しいに決まっている。

「古代」ではないんだよな。「古代」の「体」なんだよ。古代を模した今の世の体。

江戸時代のぬるま湯に長い間浸かり固定した身分制度の中に生まれて死んでいった人たちは、時代精神の移り変わりとか社会の変動とか未来の変革というものがまったく想像できなかったのであろう。未来は虚無であり、存在するのは過去ばかりである。江戸時代には過去を探求する道具、古文辞学というものが飛躍的に発展した。江戸時代には未来を予測するのではなく過去へ遡る歴史学が最も発達し注目された、最先端の学問であった。宣長の研究もまたその類いであった。

それゆえ江戸後期の人々は、最近になって新しく確立され見えるようになった古い過去ほど新しく見えるという錯覚に陥ったのであろう。逆に明治の人は過去を無価値なものと切り捨て、未来や海外を見通して将来を予測することが必須の課題であった。両者は全然違う時代だったのだ。

そうしてみると茶山は、国学が興った後の下河辺長流、契沖、伴蒿蹊、村田春海、加藤千蔭らの歌が良く、同じ江戸時代でも真淵やその模倣者の歌は(新しすぎて)よくないと言っているらしい、ということになる。実際、村田春海、加藤千蔭は真淵の弟子ではあるが、彼らの歌は真淵とは似てもにつかない。茶山自身が詠んだ歌をいくつか見てみると春海千蔭の歌に良く似ている。要するに江戸後期に文人たちが詠んだ平々凡々たる歌だ。

明治以降の人は現代口語を使った歌のことを新しい歌と言う。しかしながら江戸後期の人たちは古い万葉の言葉を使った歌を新しい歌、今風の珍奇な歌だと思っていた。この感覚は現代人にはなかなかわかるまい。江戸時代にはまだ現代口語など影も形もなかった。標準語、現代口語なるものは明治政府や明治の文人らが共同制作した人工言語なのだから。

春海千蔭は師が編み出した「古体」の歌を捨てて「中古」に回帰したが、同時に真淵の流れをくんで「古体」を愛好した歌人らが江戸にはいて、春海千蔭とは同門ながら対峙していたように思われる。春海千蔭は真淵よりもむしろ宣長と親和性が高かった。万葉調の流行は江戸で起きたものであり、京都で万葉調の歌を詠む人はいなかった(香川景樹や本居宣長が万葉調の歌をまったく詠まなかったわけではないが)。

ということをこの文章から読解できる人がどれくらいいるのだろうか。私はこんなふうに解釈したけれど、他の人にはそうは読めないかもしれぬ。実に朦朧とした文章だ。歌人の風貌と歌の善し悪しと何の関係があるのか。

富士川英郎『菅茶山と頼山陽』には

旅衣 たちな急ぎそ 老いが身は またあふことも 末知らぬ世に

旅にあれば 家のみ思ひ 帰りては また行かばやと 思ふ大和路

などの歌が見えて、端正によく出来た歌だと思うが、おそらくこの時代の武家や公家の子弟は子供の頃に和歌や漢詩を仕込まれて、それで人並みの和歌が詠めるようになる、と言っただけのことで(茶山は一流の文人らしく人並み以上に詠めたようではあるが)、何か特別個性的なというか、何か巧んで、凝った詠みかたをしているようには見えない。幕末の伊達宗広や中島歌子などの歌と通じるところがあるように思う。そう、飽くまでも教養人の嗜みとして、当時のハイソサエティの慣習の範疇で詠んでいる、とでも言おうか。当時の人は別に字を書くのが好きで書道をやり、お茶を飲むのが好きだから茶道をやったわけではあるまい。歌道もまたそうした教養科目の一つだからやったまでで、そこに個性や創意工夫を追求しているのではあるまい。よく出来ているのだが、褒めようと思って良いところを探し始めるとぼんやりとぼやけてしまい良さが見つけられなくなる。うまくまとまりすぎているというか、秀才的というか。

こういった歌をいったいどこから見つけてきたのだろうか。頼山陽の母、梅颸の歌も多く引用されているから、そちら関係の史料にあるのかもしれない。或いは広島の県立図書館あたりに行けばそうした郷土資料がざらにあるのかもしれないが。

富士川英郎という人は戦前に岡山で高校教師になったとあるからやはりその頃に菅茶山や頼山陽に親しんだのだろう。こういう東洋文庫に本を書くような東洋学者というものは今はいったいどこにいるのだろうか。もうほとんど絶滅してしまったのだろうか。最近では荻生徂徠全詩というものが東洋文庫から出たが、ほとんど新刊も出なくなってしまっているように思う。

梅颸の歌も調べてみると面白いのかもしれないが、今はもうあまり手を広げる気もないのである。ところで頼梅颸という呼び名はどうであろうか。江戸時代の公家や武家は夫婦別姓であったはずだから、飯岡梅颸と呼ぶべきではなかろうか。細川ガラシャなどという呼び名をみると、いやそれは明治以降の呼び名で、本来は明智玉子だろうと思ってしまう。明治は現代まである程度連続しているからみんな明治を擁護したがるが、明治政府はいろいろおかしな(日本の伝統を破壊する)ことをした。

村田春海が「昔の歌よみ人は多半儒生なり、古今集の撰者の官職にても見るべし」などと言っていた、というのも変な話である。古今集の撰者がみな(半ば)儒学者だったなどと言っているのだが、そんなことを言えば江戸時代の武士もみんな儒者であろう。

疑似文語

1月27日に1年、いや1年半かけて書いた本の最終原稿を提出して、もちろん校正段階で手直ししたり差し替えたりということもできなくはないのだが、それはもうやらず、最小限の修正に留めて、余計に書きたくなったらここのブログに書いていこうと思う。そういう文章が溜まっていってまた本にまとめるかもしれないし、しないかもしれない。

短歌の表記について:文語・口語のこと

あざやけし・やすらふ(1)

あざやけし・やすらふ(2)

あざやけし・やすらふ(3)

江戸時代にあったのは国文(くにぶみ)であり、国文には和文(やまとぶみ)と漢文(からぶみ)があった。『平家物語』や上田秋成の『雨月物語』のような和漢混淆文もあり、本居宣長の『玉勝間』などを見てもわかるが、散文に関していえば、和文だけでは語彙が足りないから適宜漢語を混ぜて書いていた。その書き言葉を記したものを文語というのであれば、確かに文語は江戸時代からあった。

この江戸期にすでに確立されていた文語を逸脱したものを擬似文語と言いたいわけだが、より狭義に言えば、口語、話し言葉にはあるが、文語にはない語を文語風に造語し補完したものを擬似文語と言いたいわけなのだが、今どき散文を文語で書く人など皆無であるから、疑似文語の問題はただ、俳句とか近現代短歌のコミュニティだけで見られるものである。

一番わかりやすい例でいえば「大きい」。古語には「おほし」しかなく、「多し」「大し」「大きなる」などとしか言わなかった。「おほきなる」から口語の「大きい」が出来て、「大きい」を文語化すると「大きし」となるが、「大きし」などという古語の用例はない。

同じく「近しい」という現代語はあるが「近しし」という古語は存在しない。

「おだやかな」という言葉はあるが「おだやけし」という形容詞は存在しない。「おだし」という言葉は『源氏物語』にも見える。ただし私の知る限りにおいて「おだし」が和歌に用いられた例はないように思う。話し言葉には用いても和歌に用いられない言葉というのはよくある。よく知られているのは、係り結びで「ぞ」「こそ」は使うが「なむ」は話し言葉にしか使わない、など。

同じように「あざやかな」とは言うが「あざやけし」とは言わない。古語には「あざらけし」という言葉があって、「あざらけし」というのが正しい、などという人がいるが、それもどうだろうか。「あざらか」は『土佐日記』に用例があるらしいが、「あざらけし」の用例は非常に少ない。まして和歌に用いられた例はなかろうと思う。

「たけのこ」は「たかむな」「たかうな」とも言う。『源氏』には「たかうな」と出る。和歌に使われるのは圧倒的に「たけのこ」であって、私は特に理由が無い限り「たけのこ」と言うべきだと思う。

「ずき」「ずけり」などは万葉時代には使われていたらしい。「見れど飽かずけり」など。しかしこれも、「ざりき」「ざりけり」と言うべきだと思う。もし文字数の制約で、或いはわざと万葉調にするため、或いは単に奇をてらってそうするというのは慎むべきだと私は思うし、私ならば絶対やらない。

「悲し」「悲しむ」という古語があるのだから、「寂しむ(さびしむ)」「愛しむ(いとしむ)」「侘びしむ(わびしむ)」「激しむ(はげしむ)」などという語があってもよかろうという人はいるかもしれない。実は「侘びしむ」は『岩波古語辞典』にも載っているれっきとした古語である。崇徳院に

いかでいかで 嘆きを積みし 報いとて 逢ひ見てのちに 人をわびしむ

また西行に

寝覚めする 人の心を わびしめて しぐるる音は 悲しかりけり

がある。「さびしむ」にも用例がある。しかしながら「愛しむ」は「いとほしむ」と言うべきだろう。「激しくする」を「激しむ」というのはおそらく誰もが違和感をおぼえるだろう。

俳句や現代短歌ではこれら疑似文語をしばしば使う。言語というものは移り変わっていくものだから、現代語を現代人が勝手に作り変えて新しい造語を作るのは勝手だという考えもあるだろう。どうぞそうしてかまわないと思う。その代わり和歌とは混ぜないでほしい。

どんどん新しい言葉を作ってその中には後の世に残る良い言葉も含まれているかもしれない。しかし多くの造語は淘汰されて残らない。何十年か後に、昭和の歌人たちはなんてでたらめな言葉遣いの歌を詠んでいたんだろうといわれたくなければそうした珍文語は使わないのが良い。

新語とか造語ではなくて、明らかに単なる誤用という場合もあると思う。「やすらふ」はグズグズする、ためらう、優柔不断、の意味であって「休む」という意味はない。「安心する」という意味も無い。それらの誤用を許容する理由は、現代短歌や俳句ならいざしらず、少なくとも和歌には無いと言ってよかろう。

私が言いたいのはつまり、九州弁と関西弁と東京の標準語を見境なく混ぜて使ってそれがまともな言語といえるか、ということだ。イギリス英語とアメリカ西海岸の英語とインド人の英語を混ぜた英語が許容されうるか。同じことで、万葉時代や江戸時代にはあった言葉を平安朝の言葉に混ぜて使って、そんな言葉で平気で和歌を詠むんですか、ということだ。現代人は古語には語感がきかないからなおのことちゃんと用例を調べて、例えば紫式部の日本語を標準として定めて、そこに併用しても違和感の無い語彙や文法を慎重に選んで和歌を詠むべきじゃないですかと言いたい。

一葉の歌 2

山の井の 浅くもあらぬ 冬なれや 汲み上ぐる水の やがて凍りぬ

寄る波に 消えぬ雪かと 見えつるは 入江の葦の 穂綿なりけり

うつせみの 世に誇れとや ほととぎす 我に初音を まづ洩らしけむ

野ぎつねの あたらすみかと なりにけり よしありげなる 峰の古寺

山鳩の 雨呼ぶ声に 誘はれて 庭に折々 散る椿かな

今はしも 人つらかれと 思ふかな 末とげがたき 仲と思へば

ともしびに 寄りて身を焼く 夏虫の あな蒸し暑き 夜半にもあるかな

何しかも 床の別れの つらからむ 見しは夢なる あかつきの空

いとどしく つらかりぬべき 別れ路を あはぬ今より しのばるるかな

影映す 鏡は置きて 新玉の 今年は心 磨き変へてむ

空をのみ 眺めつるかな 思ふ人 天下り来む ものならなくに

あやにくの 雨にもあるか 隅田川 月と花との あたら盛りを

降る雨に 濡るとも花を 見に行かむ 晴れなばやがて 散りもこそすれ

夏の夜は 短きものと 知りながら 見果てぬ夢ぞ はかなかりける

打ちなびく 柳を見れば のどかなる おぼろ月夜も 風はありけり

大方の 花は散りにし 夏山に 春を残せる 鶯の声

思ふこと 少し洩らさむ 友もがな 浮かれてみたき おぼろ月夜に

一葉の歌

をちこちに 梅の花咲く さま見れば いづこも同じ 春風や吹く

春風は いかに吹きてか 梅の花 咲ける咲かざる 花のあるらむ

明日といはば 散りもやすらむ 庭桜 今日の盛りをとふ人もがな

くろづたひ 行く人多く なりにけり 山田の里に 梅咲きしより

楽しさに 里のわらべは とく起きて 若菜摘みにと出づる春日野

降る雨に 濡るとも花を 見に行かむ 晴れなばやがて 散りもこそすれ

咲きにほふ 花にも酔ひて 澄田河 うつし心の 人なかりけり

世の人の 心の色に 比ぶれば 花の盛りは 久しかりけり

ねぜり摘む 里のわらべの かげ絶えて 田河の末に 蛙鳴くなり

月待ちて いざ見に行かむ 角田河 こよひを花は 盛りなるらむ

散りて行く 花もさこそは つらからめ 我のみ惜しむ 風の音かは

散りぬとて 忘られなくに 山桜 青葉のかげの ながめられつつ

水の色も ひとつみどりに なりにけり 夏草茂る 野辺の細川

夏の夜は 短きものと 知りながら 見果てぬ夢ぞ はかなかりけり

夏衣 替へて干す日も なかりけり 降り続きたる 五月雨の頃

帰るべき しほこそなけれ 山桜 暮るればやがて 月の出でつつ

いとどしく 濡れてぞ色は まさりけり 春雨かかる 山桜花

昨日まで 固くふふみし 桜花 今朝降る雨に ほころびにけり

世の人の 宝とめづる 玉もなほ みがきてのちの 名にこそありけれ

世の中の 憂さもつらさも 忘れけり ただ一杯の これのなさけに(酒)

寒けれど 小簾開けてみむ 角田川 漕ぎ行く舟の 今朝の白雪

うつし絵に 見るここちして 箱根山 月こそのぼれ 湖の上に

不忍の 池のおも広く 見ゆるかな 上野の山に 月はのぼりて

風ばかり とふと思ひし 松の戸を こよひは雨も 叩きつるかな

吹き迷ふ 筑波根おろし なほさえて ふもとの野辺は 春としもなし

咲く梅も 月もひとつの 色ながら さすがに折れば まがはざりけり

我が庭は 萩も薄も あらなくに 秋なる風ぞ おどろかし行く

いざさらば 起き居て聞かむ 夜もすがら 寝られぬ閨の こほろぎの声

おもふどち 雪まろげせし いにしへを 火桶のもとに しのぶ今日かな

凍りけむ いささ小川の 細流れ 今朝は音なく なりにけるかな

家隆による土御門院への合点

藤原家隆が土御門院の歌に合点(ごうてん)(判定)した珍しい例がある(『歴代御製集2』)。承久3(1221)年というからまさに承久の乱が起きたその年に詠まれている。

(はる)()(はつ)()(まつ)(わか)()より さし()千代(ちよ)(かげ)()えけり

子の日の歌には一句一字おろかならず候、但さりとては此の中には可爲御地候歟(おんぢとなすべくそうろうか)

一字一句おろそかにしていないのは良いが、他の歌と比べると普通だと言っている。十首などまとめて詠んだ歌のうち優れているものを「文の歌」と言い、劣っているわけではないが引き立て役になっているものを「地の歌」と言うようだ。

伊勢(いせ)(うみ)の あまのはらなる (あさ)(がすみ) そらに(しほ)()く けぶりとぞみる

余勢、姿、心巧みに無申限候歟(まをすかぎりなくそうろうか)

勢いも、姿も、心も巧みで、申し分ありません。

(きり)にむせぶ (やま)のうぐひす ()でやらで (ふもと)(はる)(まよ)ふころかな

山のうぐひすの心、(もっと)もよろしく候

「霧にむせぶ」が字余りだが、心がこもっていて良い、ということか。こんな石原裕次郎が歌う歌謡曲みたいなフレーズを土御門院が使っていたとはちょっと意外だ。

しろたへの (そで)にまがひて ()(ゆき)()えぬ野原(のはら)若菜(わかな)をぞ()

麗しく、一句無難優美に候

麗しく、無難で優美だと言っている。

堂上公家による和歌指南というものは、明治に至るまでこんなようなものだったのだろう。善し悪しは直接言わず、悪いときは地の歌だと言ったり、姿が悪いときは心が良いとだけ指摘したりする。

正徹と了俊

正徹は調べ始めるとだんだんわからなくなってくる人だ。どちらかといえば理論家のような気がしていたが信用がおけない。歌はつまらないような気がしていたが、良いものもある、みたいな。今川了俊の弟子だと言っておきながら実はどうもあやしい。疑い始めるときりがない。定家の崇拝者だというのも周りがそうあってほしいと思い、そういわせたような感じもしてくる。

なので結局彼がどういう人であったかということは彼が詠んだ歌をみるほかはあるまい。

正徹に比べて了俊は調べれば調べるほどわかりやすい人だ。了俊の歌は自分で処分したと言っていてほとんど残ってないが、残っているぶんをみても、確かにたいして面白くはなさそうだ。了俊の歌がほんとうにおもしろくなかったとしたら、和歌というものはほんとうによくわからないものだとしかいえない。

リアリズムとファンタジー

(うぐひす)(なみだ)(あめ)(くれなゐ)()()(うめ)(はな)下露(したつゆ)

()しやいつ ()()(はな)(はる)(ゆめ) ()むるともなく (なつ)はきにけり

(にぎ)はへる (たみ)(いへ)()(そら)()(けむり)(うへ)(つき)()むらむ

(さだ)めなく しぐるる(そら)()(なか)(ひと)(こころ)(くも)となりけむ

これら正徹の秀歌はどれも絵画的で浪漫的だ。紅梅に春雨が降り、鴬もまた紅涙(可憐な女性の涙)を流しているように見える。技巧は凝らしているが、曖昧さはない、くっきりと鮮明な、意図のはっきりした素直な歌だ。

リアリズムとファンタジー。必ずしも相容れぬものでもない。少なくとも創作の世界に完全なリアリズムもなければ完全なファンタジーもない。高畑勲はどちらかといえばリアリズムをエンタメ化するためにファンタジー要素を加味する人だ。一方、宮崎駿は空想の産物に生々しい血肉を与えるためリアリズムの力を借りる人だ。では正徹はどちらかと言えば、明らかに高畑勲側の人だったと思える。

歌はごまかしが効かない。詠む人の心根がそのまま出てしまう。歌を飾り取り繕おうとすればそれは詞のぎこちなさやつながりの悪さ、気持ち悪さとなって歌を損なってしまう。だから嘘をつこうとしてもすぐにバレる。

正徹は夢の歌ばかり五百首ほど詠んでいて、中には良いものもある。「見しやいつ」「春の夢覚むるともなく夏は来にけり」「人の心や雲となりけむ」と来るところなどなかなか良い。独特の風情、余情がある。