和歌」カテゴリーアーカイブ

平淡美

藤原為家は「平淡美」を理想としたとか「平淡美」を主張したとか、「平淡美」の理念を説き、などといろんなところに書いてあって、その根拠となるのが彼が書いた歌論書『詠歌一体(八雲口伝)』であるというのだが、この『八雲口伝』を読んでもどこにも「平淡」が良いなどとは書いてないように思える。たとえば『日本歌学大系 第三卷』の解題、これはおそらく編者の佐佐木信綱が書いたのだと思うが、 平淡美を理想とした彼の態度もよくあらはれて とあるのだが、これは佐佐木信綱がそう思ったというだけではなかろうか。そして佐佐木信綱がそう書いたことを孫引きしてみんなが為家は平淡美なんだと思い込んでしまったのではなかろうか。 『八雲口伝』だが、まず「題をよくよく心得解くべきこと」とあり、題詠するときには与えられた題をおろそかにしてはならんというようなことが書いてある。次に「歌もおりによりて詠むべきさまあるべきこと」として、百首の歌を詠むときには中には地歌(平凡な歌)が混じっても良いが、二十首、三十首を詠むときには(ちゃんと精選して)良い歌だけを詠むべきだ、歌合では晴れの歌だを詠め、などと書いてある。 三つ目は「歌の姿の事」。「詞なだらかに言ひくだし、きよげなるは姿の良きなり。」同じ風情でも悪く続けては台無しになる。同じ詞でも「聞き良く言ひ続けなす」のが上手、聞きにくい詞は三十一文字をけがす。 春立つと 言ふばかりにや … 続きを読む »

家康の和歌

井上宗雄『中世歌壇史の研究 室町後期』、明治書院改訂新版とあるがところどころに誤字など残る。あるいは改訂後の加筆か。近衛信尹の「姉前子」とあるが、これは妹でなくてはならない。前子は信尹より10才年下のはずだ。 「近衛殿、様狂気に御成候、竜山様、御子様の事也」「宮中、異形にて御注進也」「以外之儀間、九州薩摩へ御下被成」 などと書かれていて笑う。 「近衛殿は海上にて生害了と」「実否は知らず」 とはつまり海上で自殺したと言われているが真否はわからんなどとも書かれている。 信尹の側近が作ったという『犬枕』という仮名草子があるそうだ。『犬之草紙』というものもあるらしい。 p.657 天正16年8月15日「衆妙集によると家康のは幽斎の代作であった。」p.673「その晴れの歌の一首が幽斎の代作であることは分かっている」 などと書いているのだが、根拠はあるのだろうか。『衆妙集』は細川幽斎の歌集だが、いったいどこにそんな話が載っているのだろう。たしかに『衆妙集』には「人々にかはりて」詠んだ歌というものがいくつも載っているが、家康の歌と同じものはないように思う。

うけらが花

加藤千蔭「うけらが花」 貞直卿より季鷹県主へ消息におのれがよみ歌のうち二首殊にめでたまへるよしにてみづから書きてまゐらせよとありければ書きてまゐらすとて 武蔵野や 花かずならぬ うけらさへ 摘まるる世にも 逢ひにけるかな * 富小路貞直。千蔭の弟子。千蔭は江戸の人のはずだが。 * 加茂季鷹。京都の国学者、上賀茂神社の神官。 これが歌集の名の由来だと思われるが、 自分を「うけら」にたとえて謙遜しているのはわかるのだが、 なぜ「うけら」? さまざまな野の花の一つということか。虫のオケラにかけているのかな? 本歌取りで、万葉集 恋しけば 袖も振らむを 武蔵野の うけらが花の 色に出なゆめ あるいは 我が背子を あどかも言はむ 武蔵野の うけらが花の 時なきものを または 安齊可潟 潮干のゆたに 思へらば うけらが花の 色に出めやも 「うけら」。キク科の多年草「おけら」のこと。

忘れ草

八千草の いづれがそれか 忘れ草 名にのみ聞きて 我れ知らなくに 野辺に出でて 我れも摘みてむ 忘れ草 よもまがはじよ 忍ぶ草とは 忘れ草 忘れな草と とりよろふ 野の八千草に まどひぬるかな 忘れ草 同じ忘るる ものならば 酒飲むことも なほ忘れなむ 牛ならば ひねもす野辺に たむろして 草をはみつつ もの忘れせむ なかなかに 忘れがたくば 野の牛に なりてひねもす 草もはままし 忘れ草 生ふる尾上に 住む鹿は 妻を忘れて うれひなからむ うーんと。 ワスレグサは初夏に、ワスレナグサは春に咲くもののようだ。 忍ぶ草とは、吊りしのぶのようなシダのことだろう。季語は秋だが、 初夏に萌え出でる。

敷島のやまとごころ、の謎

岩波古語辞典を見ると、「やまとだましひ」「やまとごころ」の意味として 「(漢詩文の能力に対する)実務処理能力」のことと書いてある。敢えて意訳するとそうなるわけだが、今で言えば、いわば、学校で習う語学や数学などの学問としての知的能力に対して、学校では教わらないが、世の中をわたっていくうえで必要な、人が人としてそなわっているべき基礎的能力のことを言うわけだ。学習で獲得するリテラシー能力に対して、リテラシー以前の能力と言うべきか。「腹芸」とか「胆力」とか「人の器」とか「対人交渉力」とか「地頭(じあたま)」などと言うようなものに近い。それを具体的に「実務処理能力」と言えばそうなる。儒教で「仁」とか「徳」というのがそれだろう。それがかつては舶来のもの(漢才)と日本古来のもの(倭心)という対比でとらえられていたところがややこしいが、近代でも和魂洋才などと言ったわけでそれと同じとも言える。宣長の 敷島の やまとごころを 人とはば 朝日に匂ふ 山桜花 だが、宣長は近世において大和心を上記の意味で正確に理解した(というより発見した)最初の人だが、 この歌はそういう意味ではかなり謎だ。誤解に満ちている。なにしろ幕末の時代にすでに宣長のイメージはかなりゆがんでしまっている。 敷島の やまとごころを 人とはば 蒙古の使ひ 斬りし時宗 という替え歌まで出来ているくらいだから。戦後はなおさら戦時中のフィルター… 続きを読む »

しづのをだまき

新古今恋五辺りを読んでいると、 忍びて語らひける女の親、聞きていさめ侍りければ 参議篁(小野篁) 数ならば かからましやは 世の中に いとかなしきは しづのをだまき あるいは 藤原惟成 人ならば 思ふ心を いひてまし よしやさこそは しづのをだまき などと出てくるので、ここでは「しづのをだまき」は単に「賤の男(しづのを)」として使われているように見える。身分が低いので相手の親に諫められたとか、告白できなかったとか。 伊勢物語32段 むかし、物いひける女に、年ごろありて、 いにしへの しづのをだまき 繰りかへし 昔を今に なすよしもがな といへりけれど、何とも思はずやありけん。 ここでは「倭文の苧環」という意味で、「いにしへのしづのをだまき」までがひとつながりの意味になっていて、しづは唐衣に使われる漢綾に対する昔ながらの麻などで織られた大和綾というもの。なので「いにしへのしづ」となる。古くは濁らず「しつ」「しつおり」「しつり」などと言ったらしい。「をだまき」は「緒手巻」か「麻手巻」か。紡いだ麻の糸を巻いたもので、糸から綾を編むときに使う。 機織りの動作から「くりかへし」となった。ましかし、「いにしへのしづのを」というのがつまり「昔おまえとつきあってたこの身分の低い男がよぉ」というへりくだった意味も含むのだろう。となるとかなり滑稽な雰囲気の歌となる。 古今集雑題しらずよみひとしらずに … 続きを読む »

宣長の辞世の歌

山室の山の上に墓どころを定めて、かねてしるしを立ておくとて山むろに 千とせの春の 宿しめて 風に知られぬ 春をこそ見め今よりは はかなき身とは 嘆かじよ 千代のすみかを 求め得つれば 宣長は遺言で葬式のやり方をことこまかに指示し、かつ自分の墓所も自分で決めた。 そのときに詠んだ歌で、自分の墓で千とせの春の花を眺めていたい、 みたいな、何か無邪気な歌であり、特に学問とか思想が込められたものではない。 黄泉の国 思へばなどか 憂しとても あたらこの世を 厭ひ捨つべき 死後の世界はとても気持ちの悪いものだから、 もったいなくて簡単にこの世を嫌って逃れることはできない、という意味。 死ねばみな 黄泉に行くとは 知らずして ほとけの国を ねがふおろかさ 「死ねば」でなく「死なば」でないかと思うのだが・・・。 宣長は古事記に書かれたように人はみな死ねばけがれた、暗い黄泉の国に行くと信じていた。 極楽浄土に往生するという仏教の教えを信じてはおらず、そういうものを願うのは愚かだと考えていた。 聖人は しこのしこ人 いつはりて 良き人さびす しこのしこ人 聖人というのは嘘をついて良い人をけなす醜い人だ、と言っている。 「さびす」はやや訳しにくい。 聖人と 人は言へども 聖人の たぐひならめ や孔子はよき人 孔子は聖人と言われているが聖人のたぐいではなく、良い人だ、と言っている。 つまり、儒教や仏教な… 続きを読む »

勅撰和歌集

なぜ勅撰和歌集は江戸時代には無くなってしまったのだろうか。 なるほど、応仁の乱で途絶えたわけか。 しかしまあ、「室町時代は政治が貧困で文化が栄えた」的な言い方をすれば、 勅撰和歌集が途絶えたのは文化的には衰退なんじゃないのか。ねえ。和歌を詠む伝統は無くならなかったが、勅撰和歌集というものだけが消えてしまったのだろうか。あるいは宮中の歌合などもか。