勅撰和歌集

なぜ勅撰和歌集は江戸時代には無くなってしまったのだろうか。

なるほど、応仁の乱で途絶えたわけか。

しかしまあ、「室町時代は政治が貧困で文化が栄えた」的な言い方をすれば、 勅撰和歌集が途絶えたのは文化的には衰退なんじゃないのか。ねえ。和歌を詠む伝統は無くならなかったが、勅撰和歌集というものだけが消えてしまったのだろうか。あるいは宮中の歌合などもか。

日本で一番偉いのは天皇なのか将軍なのか?

わろた。

難しいよな、そりゃ。

説明しにくい。少なくとも一言では。

たとえば、後白河法皇と平清盛はどちらが偉いかとか簡単に説明できるか。できないだろ。

ま、しかし今上天皇と小沢一郎という意味ではあまりにも明らかだとは思うのだが。そうでもないのか。

同時受戒

平清盛と後白河上皇はほぼ同時期に出家して受戒している。
清盛が病気になってまず出家し、そのあと後白河が出家し、
その後同時に受戒している。

康治元年(1142年)、鳥羽法皇と藤原忠実も同時受戒したと言う。

清盛が出家したのは病気療養のためであり、後白河上皇は清盛平癒祈願のために同時に出家したとも考えられる。

で、出家と受戒の違いはなんだろうかな、と思うに、
出家と言うのはなんとなく剃髪するとか屋敷を移るとか俗名をやめて僧侶の名前(戒名ではない?)を通り名にすることを言うような気がする。
姿形や名前を俗人とは変えてしまうことか。
受戒とはどこかの寺院で戒律を守りますよ的な儀式を受けて、以後肉食など止めることを言うのかもしれない。
僧侶になるにはどちらも必要な気がするのだが、微妙に違ってるよな。
よくわからんな。
つまり、出家は個人で出きるが、受戒にはある特定の教団ないし寺院ないし主催する僧正を必要とするということか。
また受戒というのはしばしば盛大な儀式になるのでまとめてやった方が便利なのかもしれん。

ましかし、やはり、清盛のために後白河も出家したと考えてほぼ間違いないようだ。

平氏にあらざれば人にあらず

「平氏にあらざれば人にあらず」あるいは
「平氏にあらずんば人にあらず」という言い方が世間で一般的なようだが、
平家物語には「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」と表現されている。
源平盛衰記でも「此一門にあらぬ者は、男も女も尼法師も、人非人とぞ被申ける」としか書いてない。
しかるに日本外史には「平族にあらざる者は人にあらざるなり」と出てくる。
なので、「平氏にあらざれば人にあらず」という言い方はもしかすると日本外史に由来(というか日本外史の訓み下しの一例)なのかもしれない。

中にはこのせりふを言ったのが平清盛だと思っている人がいる。
正確には平時忠である。

また重盛が「忠ならんと欲すれば孝ならず孝ならんと欲すれば忠ならず」というのももともとは平家物語だが、
このフレーズは日本外史の訓み下し文そのものである。
もともとはもっとくどい言い回しの和文だが、それを頼山陽がすっきりとした漢文調の文句にしたのである。原文(『平家物語』「烽火」)

> 悲しきかな君の御為に奉公の忠を致さんとすれば迷盧八万の頂よりなほ高き父の恩忽ちに忘れんとす。痛ましきかな不孝の罪を遁れんとすれば君の御為には不忠の逆臣となりぬべし。

このように実は日本外史に由来するかもしれない言い回しというのはものすごくたくさんあるんじゃないかと思う。