古事記の読み下しというのはいったいだれがどうやってきめたのか、よくわからんのだが、
「作御歌」は「みうたよみしたまふ」と訓じているようである。
思うのだが、「御」を頭に付けて敬う用法は漢語にはなくて、
本来は「統御」「還御」などのように、
動詞の後に付けて天子の行いであることを示したもののようである。
だから、「作御歌」を「御歌ヲ作ル」と訓むのはおそらく間違いで、
「歌ヲ作御ス」すなわち「歌を詠みたまふ」と訓むべきではなかろうか。
万葉集にも動詞を伴わず「御歌」とあるところもあるが、
これは「歌を御す」つまり「歌をよみたまふ」と訓じるべきではないか。
それが和語の「みうた」とか「おほみうた」などと混同されて、
「御」に「み」とか「おほみ」とか転じて「おん」「お」などの訓に使われたのではなかろうか。
中国人はトイレで「御婦人」という文字を見て「婦人を御す」のかとびっくりするそうだ。
「御名御璽」も漢語では意味が通らない。
「作」もややこしい語であり、「つくる」とも「なす」とも「なる」とも読む。
従って「作歌」を「うたをよむ」と訓じてもおかしくない。
そもそも古今集の時代には歌を作るという言い方はなかった。
かならず、歌を詠むと言った。
奈良時代もそうだったと考えるのが自然だ。
ちなみに「詠」は「永い」「言」と書くように、
漢語の本来の意味は、声を長く引っ張って言うことをいう。
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