六帖詠草

蘆庵の六帖詠草を読み始めたが、
ほんとうにただのただごと歌もたくさん混じっていて、
しかも詞書きが長いのが多く、中にはもう延々と長いのもある。
眠気を催すほどだ。
どれをというのではないが、

> うづまさにあるほど、夕つかた風吹き荒れて、高き木の枝折れ、瓦も散りて、いとすさまじき暮れ

> 瓦さへ 木の葉と散りて ふる寺の 野分けの風に またや荒れなむ

あるいは

> 太秦に住む頃、ほととぎすのひねもす鳴くをりから、京より文おこせたるかへりごとに

> ほととぎす 声の袋に 入れられば けふの使ひの つてにやらまし

あるいは

> 岡崎に移りてのち、隣に人の笑ふを聞きて

> 何事を 笑ふと我は 知らねども 泣く声よりは 聞き良かりけり

どれもこれも、ああ、そうですね、としか言いようがないわな。

あやめ

五月五日は菖蒲湯に入るわけだが、旧暦だと、ちょうどあやめの花が盛りの頃なわけで、
花の咲いたあやめを湯に入れていたのだろう。
今は葉だけだが。
華やかさが全然違うわな。
鯉のぼりにしても、今の六月中旬の、梅雨入り前にあげるとまた全然違う印象だろうなと思う。
季節感がかなり違ってくるよな。
端午の節句というものの意味がかつてと今では微妙に、いやまるで違うってことだろ。

落合直文他

> 緋縅の鎧を著けて太刀佩きて見ばやとぞ思ふ山ざくら花

これが、革新の歌なのか。
ただ勇ましいだけで、大したことはない。五月人形的な幼稚さしか感じられない。
というか、幕末維新の志士の歌と同工異曲というか。
愛国百人一首にでも載せればよかろう。

与謝野鉄幹。

> いたづらに何をかいはむことはただこの太刀にありただこの太刀に

> 高どのは柳のすゑにほの見えてけぶりに似たる春雨ぞ降る

正岡子規は鉄幹に影響受けたんだろうなあ。
高崎正風が

> 近き頃、雑誌にも新聞にも、歌の事論ずる者うるさきまでなれど、
その論の良きにも似ず、その人の詠める歌に感ずべきが見えぬこそあやしけれ

と言ったそうだが、まったく同感だ。彼はきっと、
たまたま幕末に桂園派を学び、維新に遭遇し、明治天皇の親任を受けて御歌所長となっただけの人で、
純朴な人だったと思うよ。
そもそも特別な歌論など持ってはいなかっただろう。
ある意味かわいそうな人だな。
明治天皇とほぼ同じ時期に、少しだけ早く亡くなっている。

桂園派

熊谷直好。「桂門1000人中の筆頭」とか。
どうだろうかこの大げさな言い方。
木下幸文。「桂門下の俊秀」とか。
菅沼斐雄。「桂門十哲の一人に数えられ、熊谷直好・高橋残夢・木下幸文と共に桂園門下の四天王と称される」とか。
「歌壇に君臨」とか。

思うに、確かに、香川景樹は偉かったかもしれんが、
香川家は地下とは言え歌道の家系で景樹はそれなりに毛並みも良く(養子だが)、
堂上の歌会にも出席し、公家にもひいきがあり、
また、当時としては京都の歌壇にあっては堂上だの伝授だのとうるさくなくて、
特に京都に遊学していた下級武士らには親しみやすかったのだろう。
それでまたたくまににわか門閥をなし、弟子どうしで
「桂門十哲」「桂門千人中の筆頭」「桂門四天王」などと言うようなことを言い出した。
歌風がどうこうというのは、二の次だったのじゃないか。
一種の流行、一種のバブル、ただそれだけなのではないか。
あまりにも影響力が大きくなりすぎて煙たがられたのに違いない。
門閥をなし、徒党を組んだことの弊害も大きかっただろう。
しかしそれは必ずしも景樹のせいではない。

景樹が没した時期にも関係があるかもしれない。
1843年に死んで、そのころには京都には景樹の弟子が相当いたとして、
すぐに幕末の動乱となり、
全国から武士や浪士が上京してきた。
そのとき歌を習ったのは桂園派だっただろう。
維新がなって国に帰った志士たちは日本全国に桂園派を広めた。
薩摩藩の高崎正風もその一人だっただろう。
彼は御歌所長を勤め、明治天皇の歌の師ともなった。
つまり、桂園派は、なりゆき上、明治政府の主流派の歌風となったのであり、
それでますます正岡子規やら斎藤茂吉やらにけむたがられる結果となったのに違いない。

そういう時代背景の上で、子規の歌詠みに与ふる書が書かれたのだから、つまりこれは、
桂園派の歌人たちに対する批判書だったということになる。

> 貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。その貫之や古今集を崇拝するは誠に気の知れぬことなどと申すものの、実はかく申す生も数年前までは古今集崇拝の一人にて候ひしかば、今日世人が古今集を崇拝する気味合はよく存申候。崇拝してゐる間は誠に歌といふものは優美にて古今集はことにその粋を抜きたる者とのみ存候ひしも、三年の恋一朝にさめて見れば、あんな意気地のない女に今までばかされてをつた事かと、くやしくも腹立たしく相成候。

確かに子規も二十代の頃はへたくそな「意気地のない女」のような古今調の歌を詠んでいたわけだが、ちょうど東京に出て勉学をしていた頃だ。東京は当時、京都から天皇を連れてきた張本人たちが作った街なわけだから、周りはみんな桂園派の歌人だらけだっただろう。
なので子規も最初は桂園派の歌を詠み始めたが、やっててあまりのひどさに我ながら気づいて、
で、俳句なぞを始めたのに違いない。
「貫之や古今集を崇拝」するというのは当時の桂園派の門人たちの風習であろうかと思われるが、
景樹本人が「貫之や古今集を崇拝」していたとはとても信じられぬ。
景樹は蘆庵や宣長や秋成らとつきあいがあったのだから、
そんなへんくつな人間であったはずがない。

景樹の歌論というのは、実は良く知らないのだが、方法論として、
「貫之や古今集を崇拝」すれば良いというのではあまりに粗雑すぎる。
それを真に受けて子規が歌を学んだとすれば、まともな歌が詠めるわけがない。
蘆庵の歌論は、かなりまともだが、他人がまねるのは難しいだろう。
宣長の歌論は、かなりきっちりしているが、窮屈だ。

景樹の歌論というものを、私なりに推察するに、
蘆庵や江戸の狂歌師らが開拓した、率直で近代的な感性や現代風の言葉遣いを、
古今調のしらべにのせて、今風に歌えばよいということだろう。
景樹が苦心したのはそこで、
江戸時代の口語や俗語、風俗、感性を古今調のなめらかな韻律にのせて、
古今ではないのに古今のようなしらべを実現する、ということ。
古今集のよみびとしらずの歌のような、何の抵抗もない、すっきりすなおな歌というのが、
まずは理想としてあって、そこに今日の複雑怪奇な風俗をどうやって盛り込むかというのが、
景樹という歌詠みには当面の課題としてあっただろうと思う。
万葉調を現代風にアレンジするのはかなり難しいし、
新古今やそれ以後の二条派風の歌風は、景樹には新鮮みに欠けると思われたに違いない。
私としても、古今集時代に完成した古典文法と韻律に完全に則って、
現代の実情をいかに詠むのかということが一番の課題であるといえるし、
和歌というメディアはそういう形態が一番適していると思う。

ここちこそせね

データベースで調べてみると古くからけっこうあるのに驚いた。

> 恋しきにきえかへりつつあさつゆのけさはおきゐん心地こそせね 在原行平

> 風吹けば川辺涼しく寄る波の立ち返るべき心地こそせね

> 夜とともに恋ひつつ過ぐる年月は変はれど変はる心地こそせね

> 頼めたる人はなけれど秋の夜は月見て寝べき心地こそせね 和泉式部

確かに便利な文句ではある。
特に「立ち返るべき心地こそせね」「旅寝の心地こそせね」などが多いようだ。
試しに

> 夏まだき 春の日かずを 人はいさ 我れはのどけき 心地こそせね

連休もいよいよ終わり、夏までまだだいぶあるしな(笑)。

> ものいりのなにかとおほきこのごろはたくはへのあるここちこそせね

> いとまあるここちこそせねとしつきをふるともなれぬわがなりはひに

なんだこの愚痴。
しかし「ぬ」はやっかいだわな。
四句目の「経るとも馴れぬ」はここだけみると「馴れた」とも「馴れない」とも解釈できてしまう。
四句切れだと意味が通らないから結句につながる「ず」の連体形と判断できるのだが。
そういう例は多いよ。

> いとまあるここちこそせねとしつきをへてもなれざるわがなりはひに

「ぬ」の代わり「ざる」を使えば良いんだがね。

> 行く春の なごり惜しみて うたげする 人にともしき ここちこそせね