桂園派

熊谷直好。「桂門1000人中の筆頭」とか。
どうだろうかこの大げさな言い方。
木下幸文。「桂門下の俊秀」とか。
菅沼斐雄。「桂門十哲の一人に数えられ、熊谷直好・高橋残夢・木下幸文と共に桂園門下の四天王と称される」とか。
「歌壇に君臨」とか。

思うに、確かに、香川景樹は偉かったかもしれんが、
香川家は地下とは言え歌道の家系で景樹はそれなりに毛並みも良く(養子だが)、
堂上の歌会にも出席し、公家にもひいきがあり、
また、当時としては京都の歌壇にあっては堂上だの伝授だのとうるさくなくて、
特に京都に遊学していた下級武士らには親しみやすかったのだろう。
それでまたたくまににわか門閥をなし、弟子どうしで
「桂門十哲」「桂門千人中の筆頭」「桂門四天王」などと言うようなことを言い出した。
歌風がどうこうというのは、二の次だったのじゃないか。
一種の流行、一種のバブル、ただそれだけなのではないか。
あまりにも影響力が大きくなりすぎて煙たがられたのに違いない。
門閥をなし、徒党を組んだことの弊害も大きかっただろう。
しかしそれは必ずしも景樹のせいではない。

景樹が没した時期にも関係があるかもしれない。
1843年に死んで、そのころには京都には景樹の弟子が相当いたとして、
すぐに幕末の動乱となり、
全国から武士や浪士が上京してきた。
そのとき歌を習ったのは桂園派だっただろう。
維新がなって国に帰った志士たちは日本全国に桂園派を広めた。
薩摩藩の高崎正風もその一人だっただろう。
彼は御歌所長を勤め、明治天皇の歌の師ともなった。
つまり、桂園派は、なりゆき上、明治政府の主流派の歌風となったのであり、
それでますます正岡子規やら斎藤茂吉やらにけむたがられる結果となったのに違いない。

そういう時代背景の上で、子規の歌詠みに与ふる書が書かれたのだから、つまりこれは、
桂園派の歌人たちに対する批判書だったということになる。

> 貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。その貫之や古今集を崇拝するは誠に気の知れぬことなどと申すものの、実はかく申す生も数年前までは古今集崇拝の一人にて候ひしかば、今日世人が古今集を崇拝する気味合はよく存申候。崇拝してゐる間は誠に歌といふものは優美にて古今集はことにその粋を抜きたる者とのみ存候ひしも、三年の恋一朝にさめて見れば、あんな意気地のない女に今までばかされてをつた事かと、くやしくも腹立たしく相成候。

確かに子規も二十代の頃はへたくそな「意気地のない女」のような古今調の歌を詠んでいたわけだが、ちょうど東京に出て勉学をしていた頃だ。東京は当時、京都から天皇を連れてきた張本人たちが作った街なわけだから、周りはみんな桂園派の歌人だらけだっただろう。
なので子規も最初は桂園派の歌を詠み始めたが、やっててあまりのひどさに我ながら気づいて、
で、俳句なぞを始めたのに違いない。
「貫之や古今集を崇拝」するというのは当時の桂園派の門人たちの風習であろうかと思われるが、
景樹本人が「貫之や古今集を崇拝」していたとはとても信じられぬ。
景樹は蘆庵や宣長や秋成らとつきあいがあったのだから、
そんなへんくつな人間であったはずがない。

景樹の歌論というのは、実は良く知らないのだが、方法論として、
「貫之や古今集を崇拝」すれば良いというのではあまりに粗雑すぎる。
それを真に受けて子規が歌を学んだとすれば、まともな歌が詠めるわけがない。
蘆庵の歌論は、かなりまともだが、他人がまねるのは難しいだろう。
宣長の歌論は、かなりきっちりしているが、窮屈だ。

景樹の歌論というものを、私なりに推察するに、
蘆庵や江戸の狂歌師らが開拓した、率直で近代的な感性や現代風の言葉遣いを、
古今調のしらべにのせて、今風に歌えばよいということだろう。
景樹が苦心したのはそこで、
江戸時代の口語や俗語、風俗、感性を古今調のなめらかな韻律にのせて、
古今ではないのに古今のようなしらべを実現する、ということ。
古今集のよみびとしらずの歌のような、何の抵抗もない、すっきりすなおな歌というのが、
まずは理想としてあって、そこに今日の複雑怪奇な風俗をどうやって盛り込むかというのが、
景樹という歌詠みには当面の課題としてあっただろうと思う。
万葉調を現代風にアレンジするのはかなり難しいし、
新古今やそれ以後の二条派風の歌風は、景樹には新鮮みに欠けると思われたに違いない。
私としても、古今集時代に完成した古典文法と韻律に完全に則って、
現代の実情をいかに詠むのかということが一番の課題であるといえるし、
和歌というメディアはそういう形態が一番適していると思う。

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