歌詞

今様というのは、艶歌や軍歌や歌謡曲とほとんど同じなのだ。
都々逸や短歌も長くつなげるとやはり同じになってしまう。
ためしに知ったような歌のメロディで歌うと簡単に歌えてしまう。

都々逸や和歌をもとの長さで歌えばそれからはややまぬかれるが、今様はまるで駄目だ。
文語定型詩というものにはそういう手垢がついてしまっている。
口語の定型詩はなおさらだ。
そういうものを、つまり歌謡曲や艶歌の歌詞を書きたいわけでは、まったくないのだ。
だから口語自由詩というものが、出てきたのだろうと思う。

それはそうと、ここ三ヶ月くらいで、5、6本の小説を立て続けに書いてみて、わかったのだが、
そのすべてが、主人公が歌人、詩人、もしくはアーティストなのだ。
ほとんどの場合は歌物語だが、歌が出てこなくとも主人公は画家だったりする。
書いてみて初めてわかったことなのだが。
そのアーティストもしくはエンジニアの視点でどろどろとした政治の話を書いたり、恋愛話を書いたり、商売の話を書いたりする。
そうかそうか私はそういうものが書きたかったのか、と今更気付いた次第だ。
なぜあのときアレを書いたのかというのがだんだん自分なりにわかってきた。

たとえば頼朝は歌人であって政治家でもあり、恋愛沙汰もいろいろあって、書きやすい人物だ。
後白河法皇も今様狂いなので書きやすい。
だが清盛はただの政治家で、主人公にはしにくい。
実朝は主人公にしやすいが頼家はしにくい、など。

そうすると次に題材とすべきは、典型的な例としては、李白とかオマル・ハイヤームとかゲーテなどだろう。
或いは、北斎やレンブラントなどでも良いかもしれん。
或いは、学者でも良いかもしれん。
そうやって書いていくと、ネタは無尽蔵にある。

しかしそこで敢えてアートや科学となんの関係もない小説ももしかして書けないものかと、考えてみたくもある。

ルバイーイ

ルバイーイは AABA の末尾の韻を踏むらしい。絶句に近いと言える。たとえば、
Edward Fitzgerald によれば、

Dreaming when Dawn’s Left Hand was in the Sky
I heard a Voice within the Tavern cry,
“Awake, my Little ones, and fill the Cup
Before Life’s Liquor in its Cup be dry.”

または AAAA とすべてに韻を踏む場合もあるらしい。たとえば、

If I myself upon a looser Creed
Have loosely strung the Jewel of Good deed,
Let this one thing for my Atonement plead:
That One for Two I never did misread.

結構むずいな。

後は長短の組み合わせ。
一句目は「長長長」か「長長短短」。
二句目は「長長長」か「長長短短」か「長短長短」。
三句目は「長長長」か「長長短短」。
四句目は「長」。
完全に再現するのはかなりむずいな。
小川亮作氏の解説のように短歌二つ分、くらいがちょうど良い長さかもしれん。
都々逸二つだとちと短い。
今様二つだと少し長い。

オマル・ハイヤーム

何冊か借りてきたのだが、どれもこれも収録されている詩がずいぶん違う。
これはつまり千夜一夜物語のようなもので、いわゆるよみ人しらずがかなり混ざっているのではないか。
そもそもオマル・ハイヤームは生前、詩人としてはまったく無名だったというが、そんなことは普通に考えてあり得ない。
真作もあるのかもしれんが、後世付け足されたものや、他の無名詩人のものなどが多いのに違いない。

オマル・ハイヤームは1048年生まれとあるが、
セルジューク朝の成立は 1038年、建国直後だ。ホラーサーン州のニーシャプールが首都で、オマルもここの出身。
君主は、トゥグリル・ベグ。
トルコ系遊牧民族のセルジュークの孫。
セルジュークの一族がイスラームに改宗したのは、建国100年前くらいに過ぎないようだ。
ニーシャプールはイランの北東。セルジューク族は、元はずっと北方のシル川より北のカザフスタン辺りにいたらしい。

うーんと。イランで最初にできたトルコ系の王朝は、ガズナ朝だが、これは奴隷(マムルーク)王朝だった。
このころすでに北方からトルコ人の民族移動が始まっており、最初は宮廷に奴隷として仕えていたが、
セルジュークの頃からアラブ人やペルシャ人を排除して自分たちの国を建てたということか。
それから遅れて今度はモンゴル人がやってくる。
モンゴル族の勃興とトルコ人のイラン領への南下には、やはり関係あるのかなあ。
モンゴル人に圧迫されたというのと、アッバース朝などの繁栄・膨張が、周辺民族を刺戟して、覚醒を促したのかもしれん。
日本だと平安王朝後期、中国だと北宋時代だわな。

1055年、アッバース朝のバグダードにトゥグリル・ベク入城、正式にスルタンの称号を受ける。
ウマル・ハイヤーム、7才。
当時のハリーファはカーイム。

トゥグリル・ベクはシリアやアルメニアを支配下に入れ、メッカ巡礼を口実にイラクに侵入し、バグダードへの入城を要請した。
当時イラクはブワイフ朝の支配だった。
トルコ人もブワイフ気も反対したが、トゥグリルは平和的にバグダードに入った。

二代目のスルターンはアルプ・アルスラーン。1064年即位。

宰相(ワズィール)は小守役(アタベク)のペルシャ人・ニザームルムルク。もとはガズナ朝に仕えた官僚(?)。ホラサーン州の地主の子。

1068年、東ローマ帝国と交戦。皇帝はロマノフ四世ディオゲネス。
ロマノフは親征、緒戦で勝利し、セルジューク軍はキリキアからユーフラテス川の手前まで進撃。
シリア方面にいたアルスラーンは和睦を求めるが、アナトリア地方からトルコ人を追い出すため拒否。
1071年、マラーズギルドで会戦。ロマノフは捕虜となる。

* アルスラーン : 「もし捕虜となったのが逆に私の方だったならば、貴方はどうするだろう?」
* ロマヌス : 「きっと貴方を処刑するか、コンスタンティノープルの街中で晒し者にするだろう。」
* アルスラーン : 「私の下す刑はそれよりも重い。私は貴方を赦免して自由にするのだから。」

ロマヌスは、北方から侵略してきたロシア人やノルマン人と講和し、彼らを傭兵としてトルコ人に対抗。
帝国軍は数では優勢だったが傭兵だらけで弱かった。
皇后は皇帝が捕虜になると息子を即位させた。
生きて帰った皇帝は復位を求めて抵抗したが、とらえらて、盲目にされて追放され、失意の中に死去。あらあら。
以後、アナトリア(今のトルコ共和国)はトルコ人の支配下に入る。

第三代スルターンはマリク・シャー。1072年即位。
ニザームルムルクは引き続き宰相。
首都をエスファハーンに移す。
エスファハーンはイランのほぼ中央部。
即位と同時に26才のオマル・ハイヤームを任用(?)。
もっと前から仕官していたのではなかろうか。

1073年、首都に天文台を設置。オマル・ハイヤームら八名の天文学者に太陽暦・ジャラーリー暦を作らせる。
1079年に採用。
天文台は首都のエスファハーンでなく、メルブにあったという説もある。
ニザームルムルクは1092年に暗殺される。同年、マリク・シャーは38才で死去。
マリクの二人の息子の間で相続争いが起きる。
ファーティマ朝が支配していたエルサレムをトルコ人が侵略していると通報と、東ローマ皇帝によるアナトリア奪還の要請によって、1096年に第一次十字軍結成。
1099年に十字軍がシリアに到着し、エルサレムを攻略。
以後、次第にスルターンの権威は落ち、セルジューク朝は分裂を繰り返していく。

うーむ。
オマル・ハイヤームが生きていた時代だけでもずいぶんいろんなことが起きているんだなあ。

四行詩

オマル・ハイヤームの[ルバイヤート](http://www.aozora.gr.jp/cards/000288/files/1760_23850.html)。
岩波書店の。
著作権切れなのな。

[Rubaiyat of Omar Khayyam rendered into English Verse by Edward Fitzgerald](http://www.holyebooks.org/islam/rubayyat_of_omar_khayyam.html)

Wikipedia には

神よ、そなたは我が酒杯を砕き、
愉しみの扉を閉ざして、
紅の酒を地にこぼした、
酔っているのか、おお神よ。

などというのが載っているが、これはどれに該当するのか。さっぱりわからん。
できるだけ原文に忠実なのが欲しい。

酒が無くては 生きてはをれぬ
赤くかもせる えびかづら
ゑひてこよひの よとぎをめせば
いまひとつきと さしいだす

都々逸を二つつなげて四行詩にしてみた。どうよ。
ちなみに「えびかづら」は葡萄を意味する大和言葉。

神はいますか たふとき神は
うつつならぬぞ うらめしき
あるかあらぬか しりえぬかたが
酒と恋路を いましむる

いまいちか。でもこんな感じだろ。

けふこそ春は 巡りくれ
酒を飲むこそ 楽しけれ
とがむなたとひ にがくとも
にがからむこそ いのちなれ

今樣風。けっこう楽しいな。
絶句風に韻も踏んでみたし。
元ネタは小川亮作訳、

> 今日こそわが青春はめぐって来た! / 酒をのもうよ、それがこの身の幸だ。 / たとえ苦くても、君、とがめるな。 /
苦いのが道理、それが自分の命だ。

なげくとて のがれらるべき さだめかは
けふは生くとも あしたには われもよみぢを たどるべし
さればわらひて はなをめで
うまざけにゑひ こひにおぼれむ

長歌風。
元ネタは、

> さあ酒を酌み交わそう / 運命の車輪は我々の背骨を踏みしだいて回る / 嘆いても笑っても同じなら / せめて花を愛で美酒に酔い恋に溺れよう。

はて、これは誰の訳だ。

ふーむ。だいたいわかってきたぞ。
七五調定型詩を書くとき、いわゆるルバイーイを表すには、
都々逸×2でも今様でも、少々短すぎる。
しかし長歌にすると調べに長短ができて歌いにくい。
どうしたらよかろうか。