オマル・ハイヤーム

何冊か借りてきたのだが、どれもこれも収録されている詩がずいぶん違う。
これはつまり千夜一夜物語のようなもので、いわゆるよみ人しらずがかなり混ざっているのではないか。
そもそもオマル・ハイヤームは生前、詩人としてはまったく無名だったというが、そんなことは普通に考えてあり得ない。
真作もあるのかもしれんが、後世付け足されたものや、他の無名詩人のものなどが多いのに違いない。

オマル・ハイヤームは1048年生まれとあるが、
セルジューク朝の成立は 1038年、建国直後だ。ホラーサーン州のニーシャプールが首都で、オマルもここの出身。
君主は、トゥグリル・ベグ。
トルコ系遊牧民族のセルジュークの孫。
セルジュークの一族がイスラームに改宗したのは、建国100年前くらいに過ぎないようだ。
ニーシャプールはイランの北東。セルジューク族は、元はずっと北方のシル川より北のカザフスタン辺りにいたらしい。

うーんと。イランで最初にできたトルコ系の王朝は、ガズナ朝だが、これは奴隷(マムルーク)王朝だった。
このころすでに北方からトルコ人の民族移動が始まっており、最初は宮廷に奴隷として仕えていたが、
セルジュークの頃からアラブ人やペルシャ人を排除して自分たちの国を建てたということか。
それから遅れて今度はモンゴル人がやってくる。
モンゴル族の勃興とトルコ人のイラン領への南下には、やはり関係あるのかなあ。
モンゴル人に圧迫されたというのと、アッバース朝などの繁栄・膨張が、周辺民族を刺戟して、覚醒を促したのかもしれん。
日本だと平安王朝後期、中国だと北宋時代だわな。

1055年、アッバース朝のバグダードにトゥグリル・ベク入城、正式にスルタンの称号を受ける。
ウマル・ハイヤーム、7才。
当時のハリーファはカーイム。

トゥグリル・ベクはシリアやアルメニアを支配下に入れ、メッカ巡礼を口実にイラクに侵入し、バグダードへの入城を要請した。
当時イラクはブワイフ朝の支配だった。
トルコ人もブワイフ気も反対したが、トゥグリルは平和的にバグダードに入った。

二代目のスルターンはアルプ・アルスラーン。1064年即位。

宰相(ワズィール)は小守役(アタベク)のペルシャ人・ニザームルムルク。もとはガズナ朝に仕えた官僚(?)。ホラサーン州の地主の子。

1068年、東ローマ帝国と交戦。皇帝はロマノフ四世ディオゲネス。
ロマノフは親征、緒戦で勝利し、セルジューク軍はキリキアからユーフラテス川の手前まで進撃。
シリア方面にいたアルスラーンは和睦を求めるが、アナトリア地方からトルコ人を追い出すため拒否。
1071年、マラーズギルドで会戦。ロマノフは捕虜となる。

* アルスラーン : 「もし捕虜となったのが逆に私の方だったならば、貴方はどうするだろう?」
* ロマヌス : 「きっと貴方を処刑するか、コンスタンティノープルの街中で晒し者にするだろう。」
* アルスラーン : 「私の下す刑はそれよりも重い。私は貴方を赦免して自由にするのだから。」

ロマヌスは、北方から侵略してきたロシア人やノルマン人と講和し、彼らを傭兵としてトルコ人に対抗。
帝国軍は数では優勢だったが傭兵だらけで弱かった。
皇后は皇帝が捕虜になると息子を即位させた。
生きて帰った皇帝は復位を求めて抵抗したが、とらえらて、盲目にされて追放され、失意の中に死去。あらあら。
以後、アナトリア(今のトルコ共和国)はトルコ人の支配下に入る。

第三代スルターンはマリク・シャー。1072年即位。
ニザームルムルクは引き続き宰相。
首都をエスファハーンに移す。
エスファハーンはイランのほぼ中央部。
即位と同時に26才のオマル・ハイヤームを任用(?)。
もっと前から仕官していたのではなかろうか。

1073年、首都に天文台を設置。オマル・ハイヤームら八名の天文学者に太陽暦・ジャラーリー暦を作らせる。
1079年に採用。
天文台は首都のエスファハーンでなく、メルブにあったという説もある。
ニザームルムルクは1092年に暗殺される。同年、マリク・シャーは38才で死去。
マリクの二人の息子の間で相続争いが起きる。
ファーティマ朝が支配していたエルサレムをトルコ人が侵略していると通報と、東ローマ皇帝によるアナトリア奪還の要請によって、1096年に第一次十字軍結成。
1099年に十字軍がシリアに到着し、エルサレムを攻略。
以後、次第にスルターンの権威は落ち、セルジューク朝は分裂を繰り返していく。

うーむ。
オマル・ハイヤームが生きていた時代だけでもずいぶんいろんなことが起きているんだなあ。

Visited 5 times, 1 visit(s) today

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA