倒騎

面白いのでさらに調べてみた。
倒騎は反坐ともいう。
馬の曲乗りにはもっといろんな用語がある。
側騎とか。

李白は騾(ラバ)に倒騎し、
老子は青牛に倒騎し、
また張果という唐時代の仙人は毛驢(毛の長いロバ?)
に後ろ向きに乗ったという。
[果老倒騎白驢](http://www.backpackers.com.tw/forum/showthread.php?t=653225&page=2)
というのが当にそれである。

トルコでは
[ナスッレッディン・ホジャ](http://wasures1.sakura.ne.jp/turkey/turkey5.html)
という人がロバに逆さに乗っている。

馬術にも手離しで後ろ向きに乗馬する、という技があるようだ。

血圧

昨日おとといと非常に体調が悪かったのだが、
今日は案外普通だ。
別に動き回れないわけではない。
とにかく何かが変な具合で、ずっと寝ていたくなるのだ。

おとといは起きて立ちくらみがしたり、
ものを食べたあとなんか急にがくっと血圧がさがるような気がしたので、
いわゆる加齢による(あるいは処方されている心臓の薬の副作用による)低血圧かと思ったが、
測ってみるとぎゃくに高血圧であった。

どうも私は起きたばかりは高血圧になるらしく、
ずっと昔からそうだったらしい。
昼過ぎには正常になるから、あまり関係なさそうだ。

人は食事をすると血圧が下がるから自然に血管が収縮して血圧を上げるそうである。
寝ているときは低血圧なので、朝起きるときはやはり体が逆に血圧を上げようとするらしい。
寝ても立ち上がっても、運動しても風呂に入っても血圧は常に変動するから、
体が血圧を一定に保とうとする。
その機能がどうもおかしな感じである。

実は酒を飲んだ翌朝は気持ち悪いとか夕方になると酒が飲みたくなってしかたないと思っていたが、
単に朝体調が悪くて夕方回復しているだけなんじゃないか。
今までは酒を飲んだ翌朝だけそれが自覚されたのが、
最近は酒を飲まなくても顕著に現れるようになったのではないか。

体にガタがきているのは間違いない。
30代の頃は多少無茶しても体の調整機能でどうにかなっていただけだったのだ。

立ちくらみを感じ始めたのは薬を飲み始めたあとなので、
薬をやめれば血圧調整はまともになるかもしれん。
だがどの薬をやめてよいかはよくわからんし、
やめて心臓に負担がかかり心不全になって不整脈がでるようではどうしようもない。
たぶん瞬間的に心臓が頑張らなくちゃならないときにも、薬がそれを押さえているから、
がくっと膝が落ちそうになるんじゃなかろうか。
不整脈とは違うような気がする。
私の知る限り不整脈には前もって自覚症状はない。
来るな来るなと思ってくるのではない。
前触れなしにいきなりブラックアウトするだけだ。
ともかく朝の立ちくらみは我慢するしかない。

古典

以前にも書いたことがあるのだが、
ある人のブログを読んでいてふと書きたくなったのだが、
私が高校生まで影響を受けたのは、
祖父、内村鑑三、小室直樹、中島敦。大学生になってからは明治天皇御製。
これらの人々にはあまり関連性はないように思える。
しかしさらにそこからいろいろ勉強してみると、
私が好きなことの源泉は、どうやら頼山陽と本居宣長にたどり着くらしい、ということがわかった。
私は山陽や宣長の二次創作を見たり読んだりして彼らを「既に知っていた」らしいのだ。

戦前の人はほぼ間違いなく頼山陽や本居宣長の教育を受けている。
そういう人たちから私は間接的に江戸期の文人の影響を受けた。
戦後民主主義教育というものがその中心部分を隠蔽していたが、
私はその周辺に広がるコロナやオーラを観測して、
日教組や全共闘の大人たちが懸命に毒息を吐いて隠そうとしている本尊の存在を直観していたのだ。
プラトンのイデア論に似ているかもしれないが、
私にとってのイデアは実在していた。
古文や漢文で書かれているから直接子供には理解できないが大人になればそれほど難しくはない。

たどり着いてみればそこには私が求めるものが100%ピュアな形で存在していた。
今の子供たちも案外そうかもしれない。
いろんな二次創作や派生作品を見ているうちに、初代ガンダムとか、あるいは、
三国志演義や水滸伝にたどり着いたりするわけだ。

夏目漱石を読んだことがなくても、
漱石の文体は現代日本人の全員に影響を与えている。
そういう文章の中で育てばいつのまにかイデアとしての漱石が自分の中に蓄積されるだろう。
ある日漱石の原作を読んだときに、
忽然として悟るのだ、ああまさしくこれが私にとってのイデアであると。
それは自分自身であるから否定することはできないのだ。
漱石はイギリスの小話を江戸っ子の話し言葉に翻案してみせた。
それが現代日本語の核心になっていった。
イギリス人の皮肉とかユーモアが江戸っ子と相性が良かったのかもしれない。
江戸弁を標準語として国民教育していく過程で一番都合がよかったかもしれない。
尾崎紅葉や森鴎外ではちと不都合だし、
山東京伝や為永春水ではよけいだめだ。

古典はもともと素晴らしかったわけではない。
たくさんの人によって読まれることによって素晴らしくなったのである。
源氏物語ですらそうだと思う。
源氏物語によって古典ができ、規範ができたのだから、
その規範に照らして源氏物語が完璧なのは当たり前のことだ(多くの歴史的現象は逆に考えるとたいていうまく説明がつく)。
だから何人も源氏物語を否定することはできない。
むろん源氏物語も先行する(おそらく今は伝わらない)無数の物語を規範として書かれたわけだが。

東大五月祭

DSC_0005

2011年ころに「帝都春暦」という小説をどこかの新人賞に応募してそのままにしているのだが、
これは関東大震災直後の主に東大本郷キャンパスを描いたものだった。


> そんな四方山話を交えながら、僕は例によって、昼二時過ぎには中座して、遅い昼食をとりに学食に向かった。島村先生も宮内さんもお弁当持参なので、僕だけ学食を利用している。この学食もまた、校庭の空き地に建てられた、震災後のバラックだ。新しい学食は、今建設中の、安田講堂という建物の地階にできる予定だ。他にも続々と新築の校舎が建てられてる。

> 本郷キャンパスの校舎は地震による倒壊、またその後の出火でほとんど壊滅した。僕も地震の時は島村先生と一目散に三四郎池に、それから不忍池方面に避難した。翌日戻ってみると、本郷は完全な廃墟になっていた。それで東大は代々木の練兵場へ移転が計画されたりもしたのだが、結局本郷に残ることになった。

とか

> 順天堂病院前の電停から外堀線に乗って東京駅へ向かう。路面電車はまず、神田川に架かる鉄骨トラス造りのお茶の水橋を渡り、明治大学や日本大学などが建ち並び、ニコライ堂がそびえ立つ駿河台界隈を抜ける。ギリシャ正教建築の尖塔とドームが見事だったニコライ堂は、その煉瓦造りの尖塔が倒壊してドームを破壊してしまって、未だに修復中である。

> 震災復興事業として、ニコライ堂と湯島聖堂の間に新たに橋を架けて、上野から神田橋を通り丸の内まで大通りを通すことになった。帝都の大動脈となる予定である。この橋の名前は公募で「聖橋」と決まったのだが、それは儒教とギリシャ正教の聖堂が両岸にあるからなのだった。

とか

> 東大本郷キャンパスもやはり、化学薬品室から出火して、図書館を類焼してしまったのだよ。

などといろいろ調べて書いたのだが、
その図書館の玄関が今発掘工事されていて、非常に感慨深かった。
このままだとちとアレだがお蔵入りにするのももったいない気がするので、
そのうち使いまわすかもしれない。
大正時代というのは割合面白い素材なのでもっと書きたいのだが。
いろいろアイディアだけはあるのだが、
歴史小説はお膳立てが非常に大変で。
下手なことは書けないからなあ。

>「宮内さん、やはり、あなたは本を読むのが好きで、近視になってしまったのでしょうね。」

>「ええそうね。私、尋常小学校に上がるときの身体検査で、いきなりひっかかってしまったの。親は慌てて眼科に連れて行き、さっそく眼鏡をこしらえて、それからはずっと眼鏡っ子。「メガネザル」とみんなによく馬鹿にされたわ。みんなが外の明るいところで遊んでいるとき、暗い屋内で、かまわず本を読んでいたのがいけなかったのね。

> でも、私はずっと、師範学校の頃も本の虫でした。お茶の水に居たころも、東京大学図書館には七十六万冊の蔵書があるというので、学校に届け出して、本郷によく通ったものです。ところが本郷の図書館も、震災で一万冊を残して焼けてしまいました。明大・日大・中央大・専修大・お茶大・東大などの大学の学生街として発展してきた神保町の古書店街も全焼して、何百万冊という本が、文字通り灰燼に帰してしまいました。実にもったいないことでした。

> 今仮に設営されている大学図書館には、日本中の図書館から蔵書を分けてもらったり、新たに購入したりして、もう十万冊まで増えましたけど。なにしろ建物がバラックなので、もうこれ以上は入りません。

> ところが、今建造が予定されていて、三年後に完成する新図書館棟は、地下一階、地上三階、中央部は五階建て。鉄骨鉄筋コンクリート造り。世界三十カ国以上から図書の寄贈を受けて、一挙に五十五万冊にまで、蔵書が回復するんですって。さらに百万冊くらいは余裕で収蔵可能だそうですよ。なんだかわくわくしてくるわね。」

いやはや。
久しぶりに読むと懐かしい。

DSC_0011

銀杏並木も安田講堂と一緒に植えられ、整備されたものらしい。
この切り株は福武ホールというものを建てるため、並木の一部を伐採した残りのようであるが、
それから新芽が出ていて、
感慨深い。
これまた震災の記憶なのだ。

しかしこの夏至の季節が近づくと日差しが強くて写真を撮るのが楽しいよね。


道元 永平広録 巻十 偈頌

chogetsu2
chogetsu

最近このブログで山居がよく読まれているようだが、これは、tanaka0903と名乗る前から書いていたWeb日記に載せた記事で、2001年のものであるから、かなり古い。どんな人がどういう具合でこのページにたどり着くのだろうか。興味ぶかい。

最初に書いたのは釣月耕雲慕古風というものなのだが、1996年、このころからWebに日記を書いていたという人は、そうざらにはいないはずである。いわゆる日記猿人の時代だ。

あとで耕雲鉤月などを書いた。2001年と2011年。

それで久しぶりにじいさんの掛け軸を取り出して眺めてみたのだが、今見るとけっこう面白い。こうして写真に撮ってみると余計にわかりやすい。うまい字というより、面白い字だ。全体のバランスがなんか微妙。メリハリがあるというより、気負って勢い余ってる感じだよなあ。当時58才だったはずだ。装丁もかなり本格的でこれはけっこう金かかったはず。

「釣月耕雲」を画像検索するとけっこう出てくる。禅宗、というか茶道ではわりと有名な掛け軸の題材なのだろう。

でまあネットも日々便利になりつつあるので改めて検索してみるといろんなことがわかる。山居の詩は「永平広録」もしくは「永平道元和尚広録」の巻十に収録されている125首の偈頌のうちの一つだという。永平広録、読みたい。アマゾンでも売っているがかなり高い。たぶん曹洞宗系の仏教大学の図書館にでも行けば読めるのだろうが、なんともめんどくさい。

さて他にもいろいろ調べているうちに、「濟顛禪師自畫像 – 神子贊」というものがあるらしいことがわかった。済顛という禅僧の自画像につけた画賛。

遠看不是、近看不像、費盡許多功夫、畫出這般模樣。
兩隻帚眉、但能掃愁;
一張大口、只貪吃酒。
不怕冷、常作赤脚;
未曾老、漸漸白頭。
有色無心、有染無著。
睡眠不管江海波、渾身襤褸害風魔。
桃花柳葉無心恋、月白風清笑與歌。
有一日倒騎驢子歸天嶺、釣月耕雲自琢磨。

適当に訳してみると、

左右の眉は跳ね上がり、口は大きく、大酒飲み。
寒くてもいつも裸足。
年は取ってないのに白髪。
無頓着。
何事にも気にせず波の上に眠り、粗末な服を着て、風雨に身をさらしている。
桃の花や柳の葉は無心、月は白く風は清く、笑いは歌を与える。
後ろ向きにロバに乗り山に帰った日には、月を釣り、雲を耕し、自ら修行に励む。

「帚眉」だが、人相の用語らしく、いろんな眉の形の一つらしい。検索してみると、図があった。能面。まだまだ知らないことがたくさんあるんだなあと思う。たぶん箒のように開いた眉毛という意味だ。「兩隻」もわかりにくい言葉で、「隻眼」と言えば片目のこと。屏風に「右隻」「左隻」「両隻」などという言葉があるようだ。いずれにしても、人相や絵などを表現するための用語で、左右一対の両方、という意味だろう。「倒騎」。これも画像検索してみるとわかるが、後ろ向きに馬やロバに乗ることを言う。

さてこの済顛、済公あるいは道済とは、1148年に生まれ、1209年に死んだ伝説的な僧で、
日本で言えば一休のような瘋癲の破戒僧であったようだ。道元が南宋に渡ったのは1223年のことなので、済顛の詩句を、自分の詩に取り入れた、ということになる。確かに「釣月耕雲」だけ人から借りてきた禅問答風なにおいがする。後は読めばわかる平易な句だ。「釣月耕雲」と「慕古風」のアンバランスな組み合わせから奇妙な抒情が生まれている、と言えるか。そこが味なのか。

済顛は肉も食い、酒も飲んだので、「釣月」とはやはり月の光の下で釣りをすることを本来は意味したかもしれない。道元が魚釣りをして食べたかどうかまではわからん。臨済にしてもそうだが、禅僧にはおかしなやつがたくさんいる。道元ももしかするとその同輩であったかもしれんよ。

ははあ。菅茶山に「宿釣月楼」という詩がある。

湖樓月淨夜無蚊

忘却山行困暑氛

宿鷺不驚人對語

跳魚有響水生紋

湖のほとりの「釣月楼」は月が浄らかで夜の蚊もいない。
山登りで暑さに苦しんだのも忘れてしまう。
棲み着いたサギは人が話しても驚かず、
魚がはねる音が響き、水紋が生じる。

なかなか良い詩だな。「氛」がわかりにくいが「雰」とだいたい同じ。「蚊」や「紋」と韻を踏むためにわざと使われているのだろう。「雰」でも韻は踏める。平仄は完璧と言って良いのではないか。さすが菅茶山。