字余り

以前書いたことの繰り返しになるが、
「なぜ宣長は『源氏物語』が読めるようになったのか」という問いに対して、
「人妻への片思いがあったからだ」「熱烈な恋愛を経験したからだ」などという答えを用意することには、反対だ。
そういう論法に従えば「なぜ宣長は和歌を理解できたのか」「なぜ宣長は古事記を読めたのか」という問いに対しても、
「若き日の大恋愛と失恋があったからだ」などというへんてこりんな答えを導き出さねばならぬ。
やはり、宣長は天才であったから、和歌の本質を理解し、『古事記』も『源氏物語』も読めた、といった方がすんなりくる。

字余りについて最初に明確に指摘をしたのは、やはり宣長であった。
彼は千載・新古今から破格の字余りが用いられるようになり、特に西行に顕著であるとみているが、非常に鋭い観察だ。

千載和歌集の選者は藤原俊成、新古今は後鳥羽院である。
特に後鳥羽院は西行の天才を愛しており、そのため西行の歌を積極的に採り、かつ自分も「まねてみた」のであろう。

たとえば千載集では、西行の歌で露骨に字余りなのは

もの思へども かからぬ人も あるものを あはれなりける 身のちぎりかな

くらいしか見当たらないのが、これはまた変な歌だ。「もの思へども」でなく「もの思へど」でも同じだし、
その方が字余りにならない(「ものおもへど」でも六字のようだが、母音が連続する部分は一音とみなすから、五字相当である)。
わざと字余りにしている。京極為兼の歌のようだ。

俊成は勅撰集の選者として一つの先例を残した、という意味でのちの後鳥羽院を勇気づけるには十分だった。
新古今では

岩間とぢし 氷も今朝は とけそめて 苔の下見ず みち求むらむ

あはれいかに 草葉の露の こほるらむ 秋風たちぬ 宮城野の原

小倉山 ふもとの里に 木の葉散れば 梢にはるる 月を見るかな

君去なば 月待つとても 眺めやらむ あづまのかたの 夕暮れの空

世の中を いとふまでこそ かたからめ かりのやどりをも をしむ君かな

思ひおく 人の心に したはれて 露分くる袖の かへりぬるかな

棄つとならば うきよをいとふ しるしあらむ 我が身は雲る 秋の夜の月

風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方も知らぬ 我が心かな

月の行く 山に心を 送り入れて 闇なるあとの 身をいかにせむ

いかがすべき 世にあらばやは 世をも捨てて あな憂の世やと さらに思はむ

と、数多くある。
思うにこれは、後鳥羽院が自ら選んだからこんな大胆なことができたのである。
普通、字余りの歌というのは、臣下の身では遠慮があってなかなか採りにくいだろう。
しかし、好き嫌いのはっきりした後鳥羽院はじゃんじゃん採った。
そして自らも詠んだ。

秋の露や たもとにいたく むすぶらむ 長き夜あかす 宿る月かな

つゆはそでに ものおもふころは さぞな置く かならず秋の ならひならねど

そでのつゆも あらぬ色にぞ 消えかへる 移ればかはる 嘆きせしまに

などがある。いわば自薦の歌だ。後鳥羽院自身は、西行のような歌を、世の中にはやらせたかったのに違いない。

新古今には、まだ多様性があった。
万葉時代の古歌や、古今時代の歌人の歌などもふんだんに採られ、
題のない、題詠ではない歌が大半であり、歌物語ほどの長さの詞書もある。後世の勅撰集や私家集にはあまり見られない特徴だ。
歌物語の書き手がこの時代にようやく枯渇してきたしるしだ。

同時に定家や式子内親王などの同時代の歌も混ざる。
西行と後鳥羽院は新古今の代表的歌人ではあるが、代表的な歌とはいいがたい。
一方定家・式子内親王の方は後の二条派に直結する正当派である。
おそらく新古今的という形容は、定家や式子内親王やそれに類する歌に対するものであり、
西行・後鳥羽院の破格の歌をいうものではない。

時代が下ると、二条派の歌が主流となって、それ以外の「雑多」な歌は排除されるようになった。
西行・後鳥羽院的な歌風は忘れ去られようとしていたのだが、
それをむりやり復活させようとしたのが京極為兼であったろう。
つまり、為兼は、西行が始めたスタイルの方向へ和歌を急旋回させようとしたのだ。
それは為兼自身が二条派の本流に反発したためでもあったかもしれない。
和歌を政治の道具にしたとも言えるかもしれない。
同時に二条派が西行や後鳥羽院らの歌を積極的に好んではいなかった証拠なのではないか。

以前、字余りは京極派、為兼が最初にオーソライズしたのだと書いたことがあったが、それは誤りだった。
最初にオーソライズしたのは俊成で(だが、よく考えると、俊成が西行を好きだった可能性は低く、どこかから強い入選の圧力があったのかもしれない)、
それを後鳥羽院が発展させた。
しかし、定家はそちらへふくらませることを拒んだ。逆にしぼりこもうとした。
そこから後世の二条派の形というものが作られていったのであろう。
定家のやったことは一種の矮小化であったから、そこからはみ出そうという動きはいくらでもあった。
為兼はそれをわざとむきになってやったのに過ぎない。

江戸時代に入ると、もう人々は自分の創意工夫で和歌を詠む能力を失った。
ルールと作法が完全に確立してしまったのである。
だれもが定家以後のしっかりした二条派歌論に基づく歌を詠むようになった。
西行・後鳥羽院・為兼の歌は、歌論になじまない。
逸脱したものを愛好するからだ。
宣長が嫌った理由もそこではなかろうか。
宣長はしかし西行や後鳥羽院の歌をどう感じたのであろうか。

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