メガス・バスィレウス

『エウメネス』の一番初期の草稿を読んでみたのだが、まず、タイトルが『エウメネス』ではなく『メガス・バスィレウス(大王)』になっていて、一人称ではなく三人称になっていて、エウメネスではなくて、アテナイ出身の貴族ニコクラテスという人が主人公になっている。いやそもそもこのニコクラテスなる人物は主人公というほどでもなく、王の次くらいに主要な登場人物というにすぎない。 アマストリーもまだ出てこない。 拙い、5000字足らずの草稿のようなものだが、『エウメネス』のエッセンスはとりあえず最初からここにそろってる。沙漠の話しかしてない。アッリアノスの『東征記』を読んで一番面白かった箇所を抜き出して小説風に脚色しただけ。これを多少膨らまして中編小説としてどこかの新人賞に応募したが、何の反応もなかった。

※追記: 今は全6巻、文字数は、1巻平均10万字として、50万字は軽く超えてるだろう。よくまあ書いたものだ。もはや自分でも読もうと思っても読めないくらい長い。

以下にその最初期の草稿全文を公開する。

メガス・バスィレウス

田中久三

アフガンの山岳地帯を抜け、ペルセポリスへ向かう途中に、ペルシャ高原でも一番に過酷な砂漠が横たわっている。その東半分は塩の平原。太古の昔、カスピ海やアラル海のような、閉ざされた塩辛い海が広がっていたのだろう。さらに西へ進めば、砂の砂漠。塩と砂の他には、不毛の岩山がそびえているだけ。あとは何もない。

「ところどころにオアシスくらいあるだろう。砂漠というところは、要するに、飛び石のように点在するオアシスをたどってゆけば越せるはずだ。」

王は砂漠の案内人らに尋ねた。

「この砂漠には、十日もの間一つの水場もない箇所があります。越えることはできません。」

「なんだ、たったの十日間か。キュロス王であればこの砂漠を越えただろう。」

案内人の一人が遠慮がちに答えた。

「我がペルシャ帝国建国の祖キュロス王とて同じです。」

「ではダレイオス大王ならば越えたであろうか。」

「いいえ。この砂漠は誰一人として生きては返しません。この砂漠を越えられぬことを、我がダレイオス大王自らが立証したのです。」

「ほう。おまえたち、どう思う。」

幕下に参集した指揮官たちは、一様にうつろな眼をしていた。打たれ強い、というよりは、あまりに打たれすぎて惚けてしまったようだ。 ニコクラテスという男がたまらず口を挟んだ。彼はマケドニア人ではない。アテナイ人である。彼はたびたび王に諫言をなした。王もそれを許した。

「おお、我らが王よ、バスィレウスよ!沙漠行は確かに我ら自らが望んだことでありました。一日も早く故郷に西帰するために。しかし今一度お考え直しください。」

かつて王は聖なる川ガンガーの岸辺でマケドニアの将兵らを集めて言った、

「ヘタイロイたちよ。我ら全員が乗れるほどの船を調達し、この川を下ってそのまま東の海へ出でて、アジアの海を一巡りして、カスピ海に戻ってこよう。船旅もまた面白そうではないか」、と。

いつも従順なマケドニア兵たちも、このときばかりは抵抗した、首に縄を付けられ、岐路で嫌いなほうへと導かれる散歩途中の飼い犬のように、身をくねらせ足を踏ん張って。

王は考えた。ニネヴェのアッシュールバニパル図書館で見た世界地図によれば、ガンジス川の河口からシナの海とカスピ海はつながっていた。シナもアフリカの奥地もカザフ平原もきわめて矮小に描かれていた。我らは苦も無くそれら全世界を経巡ることができる、と。しかし、兵卒らの本能は察知していた、「世界がそんなに小さいわけはない。海や大陸はどこまで続いているかもしれない。生きてマケドニアまで戻れる保証はない。」

王は言った。 「よろしい。ではアジアの海を航海するのと、ペルシャの沙漠をよぎって帰還するのでは、どちらがよいか。おまえ達が好きな方を選べ」と。

「我らは皆、東の海よりは西の沙漠の方がましです、後生ですから、沙漠に行かせてください。」

王はニコクラテスに向き直り、栗色の縮れ毛の下に光る、その黒い瞳をみつめて言った。

「私はペルシャのキュロス大王よりも偉大だろうか。」

ニコクラテスは答えた、

「もちろんでございます。王より偉大な王はこの世界にはおりません。」

「では我らマケドニア人がはじめてこの砂漠を越えてみせようではないか。キュロス王やダレイオス大王よりも、我らが偉大で強いことを後世に伝えるために。」

ニコクラテスはめまいがした。王はまったくひるまない。むしろ闘志を燃やしていた。

「ペルセポリスはまさしくこちらの方角か。」

「王よ。その通りです。しかし交易路はずっと北を迂回しております。まっすぐに砂漠を抜けることはできません。」

ニコクラテスの父はアテナイの貴族で書記官だった。王の父フィリッポスはアテナイやテーバイからなるギリシャ連合軍をカイロネイアの戦いでうちやぶり、マケドニアが全ギリシャの盟主となった。アテナイはマケドニアの要請に応じて、ニコクラテスを王の旅団に派遣した。以来彼は、いつ果てるともしれぬその大遠征 に従い、王の記録係を司っていた。立場上、王の相談役となることもあった。しかし、彼の意見が取り入れられることはなかった。王は何事も自ら即決するの だった。この王ほど参謀を必要としない王はあるまい。

王はもちろん気が狂っている、と彼は思う。

「四の五の話していても埒があかぬ。そろそろ行こうではないか。」

王は常々、インド人が乗る象ほども巨大な、スィリア産の白馬プケパラスに乗馬していた。しかし今、みずから鞍を外して荷駄を載せ、自分は徒歩で、プケパラス の手綱を引いて塩の海へと歩みだした。全軍が魔法にかかったように、すっくと立ち上がり、王の後について歩き出す。ニコクラテスはもはや驚かない。ただ、 王だけではない、マケドニア人はみな気が狂っている、そう思った。

分厚い岩塩の下には、ときおりコールタールのように真っ黒で腐った水がたまっていた。馬やらくだが塩を踏み抜いておぼれてはたいへんだ。案内役は注意深く、全軍を安全なルートに導く。

「次のオアシスまで、あと5日の行程です。」

日の出とともに進み、日の入りとともに野営する。それを3回繰り返したら、涸れた塩の湖がついに尽きて、標高が1スタディオンもあるかという、砂丘が現れ た。足が熱砂に膝まで埋もれた。一つ砂丘を上るとそのいただきから次の砂丘が見える。その砂丘に上ってもただまた次の砂丘が見えるだけだ。

「今日の野営地はここだ。」

皆は砂丘の斜面をベッドに寝た。王もまた兵士らとどうように直に砂の上に寝た。

王はバクトリアで敵将オクシュアルテスの娘ロクサナを娶った。王の両脇にロクサナとオクシュアルテスが添い寝する。

「ロクサナ。なんとやわらかな砂地だろう。ペルシャ王宮の絨毯や、フラミンゴの羽布団よりも、この砂漠の寝床の方がここちよいではないか。」

ロクサナは飼い猫がそうするように、無言でじろりと主を見ると、あきれかえって眼をそらした。

「叔父上よ。なんと見事な夜空ではないか。まるで星が鼻の先で光っているようではないか。手でつかめそうだ。地平線まで雲一つなく、空気がどこまでも透き通っている。」

王は水もなく飛ぶ鳥さえない死の沙漠のただ中にいて、恐れるどころか、むしろ楽しんでいる。オクシュアルテスは戦慄した。王は艱難辛苦がお好きなのだ。艱難辛苦によって得られる名声や富ではなく、艱難辛苦そのものがお好きなのだ。炎暑の沙漠に焼かれ、酷寒の雪原に凍え、断崖絶壁をよじり大河を渡河する、そういうこと自体がお好きなのだ。

翌朝また出立し、いくつかの砂丘を越えると、眼下に青々とした、小さな湖が見えた。

「オアシスだ。」

兵卒らは砂丘をわれ先に滑り降り、服を脱ぐのももどかしげに、湖の中に飛び込んだ。後から後から兵士らが飛び込み、多くの家畜らも後を追ったものだから、水面に浮かび上がることができず、少なからぬ兵がおぼれしんだ。また、余りにも一度に大量の水を飲んだために、急死するものまで出た。

「なんというざまだ。」

王は死者を砂に埋めて葬った。王は案内役に言った。

「これからはオアシスに着くより20スタディア手前で宿営することにする。これ以上部下を死なすわけにはいかぬ。」

一行は次第に深い砂漠に沈んでいった。日にちの感覚が失せていき、永遠に砂漠の中を彷徨するのではないか、という錯覚に陥る。

「恐れながら王よ。一つだけお聞かせ願えませんでしょうか。私が常々抱いております疑問について。」

「なんだ、オクシュアルテス。申せ。」

「王は何故に、困難なことと簡単なことの二つを選ぶときに、必ず困難な方を選ぼうとなさるのでしょうか。王都に安住せず、危険な世界を経巡ろうとなさる。ひとときも心休まるときはありますまい。」

「ははは。私はそなたたちとものの考え方が違っているからこのように世界の王になれたのである。極めて自然なことだ。そなたたちに困難と思えることが私にはむしろ簡単であり、簡単と思えることが逆に困難なのだ。楽しいと思えることが私には耐えがたい苦痛であるし、苦痛はむしろ快楽なのだ。

叔父貴よ。これは、そなただけに打ち明けることであるから、他言は無用であるが、私がマケドニアかバビロンの宮廷に戻れば、臣下らは、みな喜び安堵するであろう。しかし、この私にとって宮廷ほど危険なところはない。

今我らは世界征伐の途上にあって、我が旅団も生きるか死ぬかという緊張状態にある。私が真の意味に必要とされている場所は戦場なのだ。私が、このアレクサンドロスが宮廷にいれば、逆に誰も私を必要としなくなってしまう。我が父フィリッポスもまた同じであった。父は戦場で死んだのではない。宮廷の祝宴のさなかに死んだのだ。だから、私もまた祝宴も、宮廷も好きではない。戦場こそが私の安住の地なのだ。我が兵ら、ヘタイロイらもまた、危難の中にあればあるほど私に従順である。宿営地に集めておれば全軍を即座に掌握できる。もし我が故郷へ帰ってめいめいの家の中に入ってしまえば、私の目は届かず、何を企んでいるかもしれないではないか。」

王はそこまで話すとオクシュアルテスの返事を待たずに立ち上がり、尻や腕の砂を払うと、ロクサナの手を取り、砂の中から起こし立たせた。王は娘をバビロンに連れていき、そこで正式に挙式して、王の妃に立てるという。王がそう言うのであるからそうするのであろう。そしてまたどこかの戦場へ旅立つだろう。それまで私も王の軍にいるしかないのである。

王は沙漠の民を案内人として、水場から水場へと行軍した。日の出とともに行軍を開始し、日の入りとともに野営した。翌日も、また翌日も、同じように進軍した。

或いは駱駝や馬を屠ってその生き血をすすり、或いは奴隷のはらわたを割いてのどを潤さねばならぬ。すくなくともロバや羊は沙漠を出る前にみな食われてしまうだろう。

岩陰には夜露がたまっていることがある。夜中のうちに岩に当たって冷えた空気が結露して、わずかな雫が窪地に集まって、人ののどを潤すほどの量になることがある。兵卒らはあらそってそれらの水をすすり岩をなめた。

ある兵士が洞穴を見付け、兜一杯分の水をくんできて、それを王に献上しようとした。

「これだけか。」

「はい。」

「私もまた、マケドニアのヘタイロイの一人にすぎぬ。皆が渇きに苦しんでいるときに、私だけがこれを飲むわけにはいかぬ。おまえが見付けたのだから、おまえが飲めば良い。」

「それはご勘弁ください。」

「我が軍全員の分がないのに私だけ飲んでも意味が無い。捨てるとしよう。」

そう言って、全軍注視の中、兜一杯の水を砂地に撒いた。水はたちまち沙に吸い込まれ、太陽がたちまち乾かしてしまった。兵士らは無言でその信じられない光景を見ていた。まるで、砂が一杯の水を飲み込んだように、全軍が等しく一杯の水を飲んだかのような感覚を共有しつつ。

兜の持ち主は、王の手から空の兜を受け取り、元のようにそれをかぶった。

オクシュアルテスは言った、「ニコクラテス。おまえは、王があの水を飲まなかったことが、きわめて立派なことのように思っていよう。しかしそれは違うのだ。王は用心していたのだ。王は素性の知れない水は飲まぬ。奉られた食べ物も食べぬ。兵士らが食らっている食い物を分けて食い、兵士らが飲んでいる水を分けて飲む。王は自分のヘタイロイの一人に過ぎぬというつもりでそうしているのではない。毒を盛られるのを怖れているのだ。

また、仮に、兵士に悪意なくして、水を献上したとしてもだ。砂漠の案内人が飲んで良いと言った水しか飲まぬのだ。岩山の洞窟にたまっていた水など、得体の知れないものを飲んで腹を壊してはならぬ。遠征途中で病気になってもいかぬ。だから飲まなかっただけなのだ。」

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