民族精神

新渡戸稲造は「武士道」の中で「武士」ではなく「平民」の「民族精神(フォルクスガイスト)」として、
本居宣長の歌

> 敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

を紹介している。さらに西洋の薔薇と日本の桜を対比させて、
薔薇は「複雑」「甘美の下に刺を隠せる」「生命に執着すること強靱」で、花が枝に残ったまましおれるので
「あたかも死を嫌ひ恐るるが如く」であるのに対して、
「我が桜花」は「その美の下に刃をも毒をも潜めず」「自然の召しのままにいつなりとも生を棄て」
「色は華麗ならず」「その香は淡くして人を飽かしめない」とする。

少なくとも宣長にとって「自然の召しのままにいつなりとも生を棄て」るのが桜の美徳ではなかっただろう。
この日本銀行券に肖像が乗るくらいの人がすでにこのような誤解をしていたということは、
日本人共通の観念があって無意識に宣長の歌を誤読し、一人歩きしていったと解釈することもできよう。
そこには平安歌人(紀友則とか)や西行(もとは中世仏教的な無常観)や歌舞伎の忠臣蔵(花は桜木、人は武士、うんぬん)、
滝沢馬琴(椿説弓張月)、
幕末の平田篤胤、吉田松陰らの複合的な影響があったのだろう。

安永四年

宣長

> もののふのたけき心も咲く花の色にやはらぐ春の木のもと

武士の猛き心と桜の花は違うと言っている。

> 春の日の長きを花の心にて散ること知らぬ桜ともがな

> 待ちえても心にまかす花ならで見る日すくなき山桜かな

花は心のままにならないと言っている。

> 春の日を長きものとは山桜花見ぬ人の言ひやそめけむ

> 我が背子は来ても見てしか花ぐはし庭の桜は今盛りなり

> 桜咲く片山岸のとこ岩のつねにもがもな花の盛りは

> みよし野のこれもうきよの色ながらえもいとはれぬ山桜かな

> 憂しつらし雨よ嵐よいくほどもあらぬさくらの花の盛りに

> 白雪のふりぬる身にも春の来て心は花に若返りつつ

> 日暮らしに折りてかざして遊べども飽かぬは花の色香なりけり

> 世の人はあだなりとこそ思ふらめ花に染めたる我が心をも

> 咲きしより日ごとにかれず見てもなほ花には飽かぬ我が心かな

> さくら花めづる心の色はなほ盛り過ぎてもさかりなりけり

> いかにせむ花にうかるるこの頃の心のはてよ嵐吹きなば

> 山桜花はあだなる色ながらめづる心ぞいつもかはらぬ

> 吹く風もしづかなる世に思ふことなくて花見る春のもろ人

願はくは花のもとにて

西行

> 願はくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月の頃

宣長

> 願はくは花のもとにて千代も経むそのきさらぎの盛りながらに

特徴出てるなあ。
西行の方がはるかに厭世的で破滅的。
宣長はあくまでも現世肯定的だし、花の盛りが永遠に続けば良いというところなどは相当ファンタジー入ってる。

いまだにうだうだ考えているが「大和心」というものを掘り返したのは宣長で、
「敷島の大和心」などという言い回しを使い始めたのも宣長で、
しかも「敷島の大和心」という言い回しを宣長は他の歌には使ってない。
従ってこのフレーズを宣長がずばりどういう意味で使ったかという確証がなかなか得られない。

外国との対比で使っている可能性は高く、また

> めずらしきこまもろこしの花よりも飽かぬ色香は桜なりけり

> さくらなきこまもろこしの国人は春とて何に心やるらむ

これらの歌から推測すれば、

> 敷島のやまとごころを人とはば朝日に匂ふ山桜花

> 桜を好むのが日本人の性格なのだ

などという解釈も成り立つわな。

春の妄念。

外飲みしながら

> のどけくもうつろひやすき春の空明日はふたたび雨とやはならむ

天気予報士でなくてもこのくらいの歌は詠んでもよかろう(笑)

> うすぐもり春のゆふべに道を行く人をながめて酒を飲むかな

> 暮れぬまにはやともしびをともしけり道のむかひにあきなふ飲み屋

> 我は知る我は歌詠みなりはひの歎きと酒を歌ふ歌詠み

> おのづから歌の出で来る時もあり町の飲み屋にひじをつきゐて

> 我が町に酒飲む人は多けれど我と同じき人はあらめや

> 歎かじな飲みたき時に酒を飲み食ひたきときにものを食ふ身は

> 串焼きを日頃は塩で食べぬれど今日はたれにて食べにけるかも

> 春の風いささかながら冷えぬれば明日は冷たき雨とやならむ

なぜか、論語。「学而時習之不亦説乎」ということ

> 思ふどちともに学びてをりをりにつどひ習へば楽しかるらむ

帰農と言うこと

> 山がつが山田たがやす暮らしこそあだし世の中人はうらやめ

ふと

> しづかなる春雨の夜に寝覚めして思ひはてなき武蔵野の原

> ひさかたのあたら月日を敷島のよしなき道に迷ひけるかな

> 我がよはひあといくばくか残るらむ未だ迷へるひむがしの国

> いまさらになどか迷へるにはかにも思ひそめにしことならなくに

永井豪

いまさらながら、ハレンチ学園やあばしり一家やデビルマンを小学生の頃読んだ世代にしてみれば、
ああいうものが規制されなかったほうがおかしいと、改めて思う。
ただ単に、役人も、世間一般も無知だっただけだろう。
規制されるべきかどうかの議論にはあえて言及したくないが。

今の漫画もアニメも私たちが子供の頃の純朴だったときとは明らかに違う。
エヴァなど見れば性的にどうこう言う以前に精神的に病んでいる。
それで良いのかと思う。

ビデオゲームにしてもやはり昔のものはえげつない。
その反省なしに先には進めまい。

こういうことは言えると思う。わずか20年なり、40年なり前は、何を見てはいけないか、
何を見てもよいかという基準を国家権力が決めるのは、危険だった。
だから、どちらかといえば、何もしない方が安全だった(昔の方が今よりずっと規制は多かったがコンテンツ自体が圧倒的に少なかった。というよりコンテンツが少なかったから選別して規制出来たと言える)。
しかし、情報にあふれる今、逆に言えば、年少者がアクセスできる情報は国家がコントロールした方が良いのではないかと。
今と20年前とどれほど情報量が増えていようか。

漫画家やゲーム開発会社が自由に創作活動するのは良い。しかし子供はどうか。