民族精神

新渡戸稲造は「武士道」の中で「武士」ではなく「平民」の「民族精神(フォルクスガイスト)」として、
本居宣長の歌

> 敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

を紹介している。さらに西洋の薔薇と日本の桜を対比させて、
薔薇は「複雑」「甘美の下に刺を隠せる」「生命に執着すること強靱」で、花が枝に残ったまましおれるので
「あたかも死を嫌ひ恐るるが如く」であるのに対して、
「我が桜花」は「その美の下に刃をも毒をも潜めず」「自然の召しのままにいつなりとも生を棄て」
「色は華麗ならず」「その香は淡くして人を飽かしめない」とする。

少なくとも宣長にとって「自然の召しのままにいつなりとも生を棄て」るのが桜の美徳ではなかっただろう。
この日本銀行券に肖像が乗るくらいの人がすでにこのような誤解をしていたということは、
日本人共通の観念があって無意識に宣長の歌を誤読し、一人歩きしていったと解釈することもできよう。
そこには平安歌人(紀友則とか)や西行(もとは中世仏教的な無常観)や歌舞伎の忠臣蔵(花は桜木、人は武士、うんぬん)、
滝沢馬琴(椿説弓張月)、
幕末の平田篤胤、吉田松陰らの複合的な影響があったのだろう。

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