本朝覇史

見延典子著頼山陽によれば、最初山陽は「本朝覇史」という名前にしようとしていたが、
叔父の春風の提案で「日本外史」としたのだという(上巻第二部第八章)。
また、水戸藩が編纂していた「大日本史」を模倣して尊皇論風に書かれているが、
その主題は、徳川氏に対する政治批判であると(下巻第十部第四十二章)。
文章力によって幕府批判に見えないように擬装してある。
また、林子平「海国兵談」が版木を没収され蟄居を命じられた例を挙げて、
そのような尊皇思想や、あるいは朱子学的・陽明学的な政治批判は当時の文人らの間でも珍しくなく、
頼山陽はそのような江戸後期の儒者の一人にすぎない、
後世に甚大な影響を与えたのはその文章力と名調子にある、
というのがおおよその解釈だろうと思う。

また、漢文の著書に対して松平定信が題辞をやまとことばで記述したのは、
真意をごまかしはぐらかすためだと言っている。
ほんとうだろうか。
幕府の忌避にふれかねないとは思ったが、
作品としてはおもしろかったので、世の中に埋もれさせるのは惜しいと思ったのだろうか。

Wikipediaの新井白石の読史余論など読んでみると、
大まかな組み立ては日本外史と大差ないことがわかる。
微妙な尊皇風味と陽明学っぽさが加わっているだけにも思えてくる。

Unofficial History of Japan

日本外史は英語にも訳されたというので、
絶版になった本はgoogle様がオンライン化している可能性があるので、
検索してみたのだが、
なかなかみつからない。
ただ、日本外史は英語で
Unofficial History of Japan
というらしく、
また、外史氏曰くは、
The Unofficial Historian says:
となるらしい。
なるほどうまく訳したなあと思った。

アーネスト・サトウが1872年頃に日本外史の最初の四巻を英訳して出版したらしい。
後半は抄訳したらしい。
手に入らんのかな。
最初の四巻とはつまり平氏、源氏、北条氏のところだな。

見延典子 頼山陽

山陽の妻となる梨影が山陽の字を「飛び跳ねる」ような「怒っているような」字だと言っている。
確かに、くせ毛がピンピン跳ねているような、一種独特の書体だなと思う。

大阪の商家というところは、日本の中でもほとんど唯一、自由で人生を楽しむという雰囲気のところだったのかもしれない。
自分の才覚で金を儲けて自分の甲斐性の中で遊び楽しむ。
農村や武家には、そんな発想は生まれて来るまい。
今の大阪の漫才師の芸風に見られるような、日本人離れした軽さというのは江戸時代から由来しているのかもしれん。
父親が京都私塾の儒者で、母親は大阪の儒医師の家の娘、それがたまたま広島藩に召し抱えられて窮屈な武士の嫡男となった、
という境遇が、武士であるのに自由奔放な性格を作り出したのだろうし、
特に歴史の編纂も試みた父親と、歌人でもあった母親の影響がどれほど強かったかしれん。

頼山陽 日本外史

安藤英男著「頼山陽 日本外史」を読む。
これはなかなか愉快な本である。
頼山陽自筆の原稿の写真など掲載されている。
なるほどこんな筆跡だったのかなどと思う。

頼山陽の没年が1832年だというので、
没後150年の1982年にこの本は出版されている。
この本の大部分を占めるのは、日本外史の中から特に序論と論賛の部分だけを抜き出し、
現代語訳し、その原文の写真を掲載しているというもので、また著者の意見を解題として載せている。
その解題の言っていることは、ようするに、
岩波文庫「日本外史」や中村真一郎「頼山陽とその時代」などで書かれていた解釈とは真反対の、
いわゆる戦後の価値観では「危険思想」とみなされていることなどである。

山本五十六が日本外史をどう読んでいたかなど引用されていて興味深い。

山陽の壮烈なる、区々たる身命を惜しむにあらずと雖も、直書、憚る所なければ、
其身、罪を得るに止まらずして、外史、亦後世に伝ふべからざるを慮りしがためなり。
嗚呼、徳川氏、圧世の甚だしき、遂に山陽をして、其の筆権を曲しむるに至りしは、実に慨嘆に堪へざるなり。
然りと雖も、山陽の健筆、忌諱に触れずして、能く正義を鼓舞し、
赤誠塁積、徳川の僭越を風刺して、人心の迷夢を醒まし・・・
此書をひもとく者、誰か一読憤慨し、志を惹起せざるものあらんや。
彼が精忠、能く鬼神を泣かしめ、気概、山嶽を抜き、唯、尽忠報国の責務あるを知って、
身命あるを知らず。遂に維新の偉挙を築き、文明の端緒を開きたる明治の元勲をして、
蓋世の士気を激励したる、此書、与って力あると言ふべし。

などと書いているのだが、
まあ、山本五十六は学者ではないので、
「当時の有為の青年」らが一般的にそのように解釈していたことはわかるのだが、
徳川氏を直接攻撃することなしに、暗喩によって、島津・毛利・鍋島などの雄藩をそそのかし倒幕に向かわせたとか、
その辺りが山陽の真意だったとは、後付けの理屈のように思える。
また、よほどの空想家でないかぎり、古代の天皇親政・国民皆兵が理想の政治形態だと言いたいのだとは思えないし、
ではどうすれば良いかとの何か建設的な提案があるのでもない。
自分の時代に都合の良い解釈をするのは戦後民主主義の連中のやってることと同じで感心できない。

また、「外史というのは、既成の熟語ではない」などと言っているが、
すでに「儒林外史」などの前例がある。
「正史」に対して個人が勝手に編纂した歴史、もしくは個人的な史論という意味だろう。

中公バックス日本の名著28頼山陽(1984年発行)の付録に中村真一郎が寄稿しているが、
「ところが、この数年、またもや化政天保の頃、京都で生を愉しんでいた文雅な一文筆家を、もう一度、
超人的な政治的慷慨家たらしめようという、私などには辟易する傾向が再燃しはじめている」
などと書いていて、これはあきらかに安藤英男の著作に対して言っているのだろうと思われる。

ついでに見延典子の「すっぽらぽんのぽん」(2000年)「頼山陽」(2007年)も読み始めている。

また、菊池寛「新日本外史」もちらと読んだ。あまり面白くなさそうだった。