残暑

はっきり言ってどうでもよいことなのだが、立秋というのは、太陽の運行によって決まるから、旧暦でも新暦でも関係がない。
江戸時代でも現代日本でも、だいたい今の暑さの頃合いに立秋というものが来る。
なぜこうなるのか。
ということを調べてみると要するに、夏至と冬至、春分と秋分が先に決まって、それを春夏秋冬に切り分けていくと、
太陽暦で言う八月上旬が秋のはじめ、つまりは立秋になるというわけらしい。
つまり、夏至を夏の真ん中だと決めてしまうことに問題がある罠。夏至は六月下旬。
初夏ではあるが、真夏ではない、断じて。

それで、年賀というのは、昔は正月に人のうちを訪問することだったのに違いないが、
直接訪問できないので代わりに年賀状というものを出すようになり、
それが明治以来の郵便制度によってまるで国民全員の年中行事のようになってしまった。
日本人は盆と正月に家族で集まったり物を贈ったりするから、
おそらく暑中見舞いのルーツはお盆に親類縁者を訪問することだったのだろう。
で、年賀状との類比で暑中見舞いというものが始まった。
ところが、立秋を過ぎると秋だというのでなんか具合が悪いから、残暑見舞いというものを出すようになった、のではないか。
江戸や明治の頃から続く伝統であるはずがない。
も少し疑問に思ったほうが良いとおもうよ。

しかし、八月中旬以降が残暑だというのはおかしい。
この頃がまさに暑さの盛りであり、九月に入ったころにときどき夏の暑さが戻ったような日を残暑というべきではないか。

ていうか、江戸時代に完成した太陰太陽暦と明治以降の西洋暦、それから、いろいろな慣習や流行によって、
ぐちゃぐちゃになってしまった今日の日本の季節感というものを、一度きちんと直さなきゃならんのではないか、と思っているのは私だけではあるまい。

平八郎と山陽

見延典子『頼山陽』によれば、山陽が大塩平八郎に初めて会ったのは、
文政7(1824)年3月6日、平八郎の八幡町にある役宅を訪れる。同じ年、9月5日にも再び大阪へ行き、
先に平八郎に見せられた「霜渚蘆雁図」という掛け軸を所望して、もらっている。
1827年9月20日、大阪で菅茶山の杖を盗難にあった山陽は町奉行所に平八郎を尋ねる。
京都に帰って数日後、平八郎は杖を探しだして山陽に届ける。
1830年9月下旬、平八郎は与力を辞職。尾張へ向かう途上京都の山陽を訪ね、刀を贈る。
1832年4月、大阪で平八郎と会う。

およそ直接会ったのはこのくらいしかないようだ。

水西荘

頼山陽が香川景樹といつ知り合い、どのように交際をしていたか、いまいちわからない。
香川景樹は1768年生まれ、頼山陽は1781年生まれだから、景樹のほうが13歳も年上である。
しかも、景樹は山陽の母・梅颸の和歌の師匠であるから、山陽と景樹は、文人どうしの親友というよりも、
景樹のほうが山陽から敬われていたか、
あるいは、
山陽が景樹から可愛がられていた、と考えたほうがあたっているに違いない。
対等の付き合いというのではないと思う。

景樹は1830年に『桂園一枝』を出版したときにはすでに一門をなしており、
山陽が世間に認められたのは、『日本外史』が刊行された1829年以後のはず。
どちらも当時すでに京都文壇の有名人だった。

文政2(1819)年8月24日、梅颸は初めて京都に来て、山陽の手配により、山陽自宅で師・景樹と対面する。
広島に住む梅颸と京都に住む景樹とは、師弟の関係といえど、直接会うのはこのときが初めてである。
山陽が京都に住むのは、寛政12(1800)9月、脱藩上洛した一時期と、
文化8(1811)年以後である。
1811年から1819年までの間に、すでに山陽と景樹が出会っている可能性もなくはないのだが、
今のところ私はそのような記述を探しだすことができない。
母を師匠に会わせるため初めて景樹と接触を持ち、それから親しく交際するようになったというのも不自然ではない。

文政7年(1824) 8月16日、
「頼襄が三本木の水楼につどひて、かたらひ更かしてしてよめる」と詞書があって、景樹が詠んだ歌二首

すむ月に水のこころもかよふらし高くなりゆく波の音かな
白雲にわが山陰はうづもれぬかへるさ送れ秋のよの月

山陽が京都で初めて住んだ借家は新町通丸太町上ル春日町。
それから車屋町御池上ル西側、二条高倉東入ル北側(古香書院)、木屋町二条下ル(山紫水明処、柴屋長次郎方川座敷)、両替町押小路上ル東側春木町(薔薇園)。
ずいぶん頻繁に引越ししている。引越しが好きだったのだろう。
それから東三本木の水西荘。文政5(1822)年に転居。この最後の家は土地は借り物で家だけを購入、死ぬまで住んだ。
三本木というのは、今の京都御所の南隣でかつては山陽もよく通う歓楽街だったらしい。
しかし東三本木というのは、御所の東で、今の京都大学の鴨川挟んで対岸あたり。
ちなみに景樹の家は白河にあったという。よくわからんが、祇園の奥、東山、鹿ヶ谷あたりか。

水西荘に移り住んで、文政3年正月に作った「新居」と題する詩がある。

新居逢元日 新居元旦に逢ふ
推戸晴㬢明 戸を推せば晴㬢(せいぎ)明らかなり
階下浅水流 階下に浅水流れ
涓涓已春声 涓涓として已に春声
臨流洗我研 流れに臨んで我が研(すずり)を洗えば
研紫映山青 研の紫、山の青に映ゆ
地僻少賀客 地は僻にして、賀客少なく
自喜省送迎 自ら送迎を省くを喜ぶ
棲息有如此 棲息此の如き有り
足以愜素情 以て素情に愜(かな)ふに足る
所恨唯一母 恨む所は唯一母
迎養志未成 迎へ養ふ志、未だ成らず
安得共此酒 いずくんぞこの酒を共にし
慈顔一咲傾 慈顔一咲して傾くるを得ん
磨墨作郷書 墨を磨(けず)りて郷書を作れば
酔字易縦横 酔字、縦横なり易し

※晴㬢 「㬢」は太陽の色、日の光。
※酔字易縦横 酔っぱらっているので、字がふらつくの意。

頼山陽は新居で毎朝、鴨川から硯の水を取り、また、夕方には鴨川の流れで硯を洗い、弟子たちにもそれを勧めたそうだ。
土地は143坪。現代の普通の都会の宅地の5倍くらいはあるな。
ここに書生部屋などを増築したという。
「地僻少賀客」とあるが、当時は京都の町外れだったのかもしれん。

喀血歌

見延典子『頼山陽』を読んでいると、天保元(1830)年、

> 正月早々香川景樹から届いた薩摩の牛肉を食べると、

などと書かれていて、これははて、書簡や日記などにそのような記録が残っているということだろうか。
同じ年、7月、広島に帰省していた間に京都で地震があり、「郵便得京報」うんぬんという長い詩を作っている。
この「郵便」という単語は、日本国語大辞典によれば、どうもこれが初出らしい。
明治になって、山陽の詩を知る人が post の翻訳に採用したのだろうか。
郵便制度を創始したのは前島密とあるが。

同じ頃、山陽は体調を崩し、広島藩の医者、中村元亮に労咳の疑いがあると、診断されている。
満49歳。

同じ頃、大塩平八郎は、大阪町奉行を辞職、遠縁の格之助(塾生の一人だったらしい)を養子として迎え、
跡継ぎとし。
尾張の先祖に報告の墓参に行く途上、山陽をもとを訪れる。
平八郎は山陽に刀を贈り、山陽は「吾書三十余万字 博得君家両尺鉄」うんぬんという詩をのこしている。
「君家」とあるから、家宝だったのだろう。
ところで、両尺、九寸というから、脇差ではなくいわゆる本差、武士が携帯する本物の刀かとも思うが、
見延典子の記述によれば「脇差し刀」であるという。
九寸未満の刀を長脇差と言って博徒などの武士以外の人間が差していたはずである。
九寸あったのかどうか、微妙なところだ。
また「大塩子起の尾張へ適くを送るの序」というものを書いて平八郎に贈っている。

また、平八郎には本妻はなくて、「妻同様のつきあいの妾ゆう」が居たと書いている。
妾であれば嫡子がなくて養子をもらってもおかしくない。
また平八郎は与力を辞職した後の、いわゆる大塩平八郎の乱(1837)に先立って、ゆうを離縁したのではなく、
与力として弓削新右衛門事件などに当たるときにすでに離縁していたという。
また、弓削事件のとき、ゆうは薙髪しただけだという記述もあるようだ。
いずれにせよ、なぜ普通に結婚しなかったのか不思議なところだ。

天保3(1832)年4月、
詩集出版のために大阪へ。このとき大塩平八郎と会い、
平八郎の著作『古本大学刮目』『洗心堂箚記』などを読む。

同年6月12日に初めて喀血、16日まで続く。
すでに禁煙していたが、禁酒を命じられる。
27日、再び喀血。
7月下旬、「結核を患い、戯れに歌を作る」と題する詩を作る。

吾有一腔血 吾に一腔の血有り
其色正赤其性熱 その色は正に赤く、その性は熱し
不能瀝之明主前 これを明主の前に瀝(そそ)ぎ
赤光凛向廟堂徹 赤光凛として廟堂に向かひ徹するあたはず
亦不能濺之国家難 またこれを国家の難に濺(そそ)ぎ
留痕大地碧弗滅 大地に痕を留めて碧、滅せざるあたはず
鬱積徒成磊塊凝 鬱積し、徒に磊塊の凝るをなす
欲吐不吐中逾熱 吐かんとして吐かず、中いよいよ熱し
一旦喀出学李賀 一旦喀出して李賀を学びても
難収糝地紅玉屑 糝地の紅玉屑は収め難し
或曰先生閲史遭姦雄逭天罰 或る人曰く、先生史を閲し姦雄の天罰を逭(のが)るるに遭へば、
睢陽之歯輒嚼齧 睢陽の歯、すなはち嚼齧(しゃくげつ)し
渠無寸傷己自残 渠(かれ)に寸も傷無く、おのれ自ら残(そこな)ひ
憤懣遂致肺肝裂 憤懣遂に肺肝の裂くるに到る
或曰先生殺人手無銕 或る人曰く、先生人を殺すに手に銕(てつ)無く、
発奸擿伏由筆舌 奸を発(あば)き、伏を擿(あば)くに筆舌に由(よ)り、
以心誅心人不知 心を以て心を誅し、人知らず、
霊台冥冥瀦陰血 霊台は冥冥として、陰血瀦(たま)る
吾聞此語両未頷 吾れ此の語を聞けど、両つともに未だ頷かず
童子進曰走意別 童子進みて曰く、走意は別
先生肉中本無血 先生肉中本(もと)血無し
腹中奇字僅可剟 腹中の奇字、わずかに剟(けづ)るべし
賺得杜康争戴酒 杜康を賺(だま)し得て、争ひて酒を戴き
剣菱如剣岳雪雪 剣菱は剣の如く、岳雪は雪、
大福蔵府受不起 大福の蔵府、受けて起たず
溢為赤漦戒饕餮 溢れて赤漦をなし、饕餮(とうてつ)を戒しむ
咄哉此意愼勿説 咄かな、此の意、愼んで説くなかれ

※霊台 魂のある所。心。
※杜康 中国神話の酒の神。転じて杜氏。
※赤漦 赤い体液
※饕餮 なんでも食べる中国神話の猛獣。転じて暴飲暴食。

剣菱の杜氏に、もう酒が飲めなくなったと贈った詩であるという。
弟子が言う、
「遭姦雄逭天罰 嚼齧 己自残 憤懣遂致肺肝裂」とは、歴史書に悪人が天罰を受けない箇所を読むと歯がみして自ら傷つけ、
その憤懣で遂に肺や肝臓が裂けてしまった」のだろうと。
また、「発奸擿伏由筆舌 以心誅心人不知 霊台冥冥瀦陰血」とは、
歴史上の悪事を筆舌によって曝いているうちに、知らず知らずに胸に血が貯まってしまった」のだろうと。

8月18日、大量の喀血、23日、同じく喀血。
9月23日(1832年10月16日)死去。
平八郎曰く、

> その秋、山陽の血を吐き、而して、病きわまれるを聞き、われ洛に入りて以てその家に到れば即ちその日すでに易簀(えきさく、賢人が死ぬこと)せり。大哭して帰り、夢の如く幻の如く、往時を追思す。先に山陽の余を訪れ、觴酒せし際、その情の繾綣(けんけん、ねんごろ、つきまとってはなれないこと)たりしこと、それ永訣の兆しなりしか。嗚呼、痛ましきかな。悲しきかな。今、山陽をして命を延きてあらしめ、而して箚記両巻を尽くさしめなば、即ち彼に益するのみならず、必ず吾にも益せんもの。蓋し、亦少なからざらん。おもふにこれ余が一生涯の遺憾たるのみ。

[幸田成友『大塩平八郎』](http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/koda1-18.htm)に、大塩平八郎の業績の六番目として、

> 頼山陽が紛失した菅茶山手沢の杖を数十日内に捜出し、山陽の其術を問ふや階前は万里なり、阪府の所管僅に方数拾里、其内在る所の物は繊芥の微と雖もわが眼底を逃れずと答へた

とある。

裏柳生口伝

小池一夫原作の漫画「子連れ狼」(1970-1976)には主人公・拝一刀の

> 仏に逢うては仏を殺し、父母に逢うてはこれを殺し、祖に逢うては祖を殺し、
しかして、何の感情も抱かぬ、無字の境地に至れぬものか!

というセリフがある。
[こちらのサイト](http://d.hatena.ne.jp/terasawa_hawk/20140326/p1)
にはその英訳も掲載されている。

> Meet the Buddha, kill the Buddha. Meet your parents, kill your parents.
Meet your ancestors, kill your ancestors.

などと訳されているのがわかる。
映画「子連れ狼」(1972-1974)にも同様のセリフが出る
[いくらおにぎりブログ](http://blog.goo.ne.jp/langberg/e/4e9d5f60ed92ce18d1d6821a912e2a63)。

> 阿弥陀如来に申し上げる。我ら親子、六道四生順逆の境に立つもの。父母に会うては父母を殺し、仏に会うては仏を殺す。喝!

深作欣二監督の映画『柳生一族の陰謀』(1978年)では、柳生宗矩役の萬屋錦之介が

> 親に会うては親を殺し、仏に会うては仏を殺す。

と言い、同年テレビドラマ版『柳生一族の陰謀』では、柳生十兵衛役千葉真一の冒頭のナレーションで、

> 裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。
人としての情けを断ちて、
神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、
然る後、初めて極意を得ん。
斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、
豈に遅れを取る可けんや。

とある。
テレビドラマで「親に会うては親を殺し」は刺激が強すぎるのかもしれん。
「神に逢うては神を斬り」はこれが初出か。
いかにも日本的な言い回しではある。

『魔界転生』(1981年)では

> 神に会うては神を斬り、魔物に会うては魔物を斬る。

という言い回しがあり、『キル・ビル』ではやはり千葉真一がハットリハンゾウ役で

> 自惚れではなく、これは私の最高傑作。
旅の途上で、神が立ちはだかれば、神をも斬れるであろう。

などと言っている。これの源流は、臨済宗の祖、臨済の言葉を記した『臨済録』の中に出てくる以下のくだりであると思われる。

> 爾、如法の見解を得んと欲せば、但、人惑を受くること莫れ。
裏に向かい、外に向かひて、逢著せば、便(すなは)ち殺せ。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、
父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん・親族)に逢うては親眷を殺して、
始めて解脱を得ん。物と拘わらず、透脱自在なり。

[道流、爾欲得如法見解、但莫受人惑。向裏向外、逢著便殺。逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。](http://ja.wikiquote.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B8%88%E7%BE%A9%E7%8E%84)

臨済という人はずいぶん過激な人だったようだが、禅宗由来と言われればたしかにそんな気がしてくる。

> 戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。

ここは深作欣二のオリジナルらしいが、孫子の兵法[形篇](http://kanbun.info/shibu02/sonshi04.html)

> 勝兵先勝而後求戦、敗兵先戦而後求勝。

「勝兵は先づ勝ちて而る後に戦ひを求め、敗兵は先づ戦ひて而る後に勝ちを求む」
が出どころであろう。

ところで頼山陽には「兵児の謡」という詩があって、前後に分かれているが、その前半は

> 衣至骭 袖至腕

腰間秋水鉄可断

人触斬人 馬触斬馬

十八結交健児社

北客能来何以酬

弾丸硝薬是膳羞

客猶不属饜 好以宝刀加渠頭

> 衣は骭(すね)に至り 袖腕に至る

腰間の秋水 鉄断つ可し

人触るれば人を斬り 馬触るれば馬を斬る

十八交を結ぶ健児の社

北客能く来らば何を以って酬いん

弾丸硝薬是れ膳羞

客猶ほ属饜(しょくえん)せずんば 好(かう)するに宝刀を以て渠(かれ)が頭に加えん

※秋水 よく切れる剣。日本刀の美称

※健児の社 薩摩藩が青年藩士のために設けた教育機関。

※膳羞 ごちそう

※属饜 飽きる

薩摩男子は、裾は脛まで、袖は腕までの短い粗末な服装だが、
腰に差した剣は鉄も切れるほどに鋭利である。
立ち向かってくるものがあれば、人だろうと馬だろうと何でもかまわず斬る。
十八歳になると健児の社に加わって同志と交わる。
薩摩の北から客が訪れれば、何をもって応対しようか。
弾丸や硝薬、これごちそう。
客がそれでも飽き足りないときには、頭に宝刀を加えて引き出物としよう。

ここで、人でも馬でも斬る、という形になっている。もともと薩摩の民謡を漢詩に翻案したもので、そのオリジナルは

> 裾は脛まで 袖は腕 腰の剣は鉄も断つ

人が触れば 人を斬り 馬が触れば 馬を斬る

若さを誓ふ 兵児仲間

> 肥後の加藤が来るならば 煙硝(えんしょう)肴に弾丸(たま)会釈

それでお客に足らぬなら 首に刀の引き出物

というようなものであったらしい。

「兵児の謡」の後半は、しかし、

> 蕉衫如雪不愛塵

長袖緩帯学都人

怪来健児語音好

一操南音官長瞋

蜂黄落 蝶粉褪

倡優巧 鉄剣鈍

以馬換妾髀生肉

眉斧解剖壮士腹

> 蕉衫雪の如く塵をとどめず

長袖緩帯都人を学ぶ

怪しみ来る健児語音の好きを

一たび南音を操れば官長瞋る

蜂黄落ち蝶粉褪す

倡優巧みにして鉄剣鈍し

馬を以て妾に換え髀肉を生ず

眉斧解剖す壮士の腹

※蕉衫 芭蕉布の服

※蜂黄落蝶粉褪 蜂の黄色い色は落ち、蝶の粉は色褪せてしまった。女色に退廃したようす。

※倡優 芸能

※眉斧 美人

衣服は真っ白で一点のちりも無く、
袖は長く、帯は緩く、都人の流行を真似ている。
健児らの言葉遣いも都びていて、
薩摩弁で話しかけると官長が怒り出すしまつ。
女色に溺れ、芸事は旨くなったが鉄剣は鈍い。
馬を妾に換えて股に贅肉が付く。
美人が壮士の腹を割いてしまった。

頼山陽は1818年、37歳頃に九州各地を漫遊している。
長崎から雲仙、熊本、薩摩と移動したようだ。
諸国を観察して、詩を作ったり、それを揮毫して小遣い稼ぎしたり、歴史を学んだりしたかったのだろう。
「肥後の加藤」とは清正のことだろうから、
秀吉の時代の歌であったのが、山陽が薩摩を訪れた江戸半ばすぎには、
島津家中の武士ですら、贅沢に馴れていた、というふうに鑑賞すべきである。

時に薩摩藩は島津重豪の時代で、開明的だが浪費家で、死後大赤字を残したことで有名だ。[鎌倉宮の謎](/?p=2323)参照。

小説も書いてます。
是非お読みください。
[人斬り鉤月斎](http://ncode.syosetu.com/n1097ch/1/)