水西荘

頼山陽が香川景樹といつ知り合い、どのように交際をしていたか、いまいちわからない。
香川景樹は1768年生まれ、頼山陽は1781年生まれだから、景樹のほうが13歳も年上である。
しかも、景樹は山陽の母・梅颸の和歌の師匠であるから、山陽と景樹は、文人どうしの親友というよりも、
景樹のほうが山陽から敬われていたか、
あるいは、
山陽が景樹から可愛がられていた、と考えたほうがあたっているに違いない。
対等の付き合いというのではないと思う。

景樹は1830年に『桂園一枝』を出版したときにはすでに一門をなしており、
山陽が世間に認められたのは、『日本外史』が刊行された1829年以後のはず。
どちらも当時すでに京都文壇の有名人だった。

文政2(1819)年8月24日、梅颸は初めて京都に来て、山陽の手配により、山陽自宅で師・景樹と対面する。
広島に住む梅颸と京都に住む景樹とは、師弟の関係といえど、直接会うのはこのときが初めてである。
山陽が京都に住むのは、寛政12(1800)9月、脱藩上洛した一時期と、
文化8(1811)年以後である。
1811年から1819年までの間に、すでに山陽と景樹が出会っている可能性もなくはないのだが、
今のところ私はそのような記述を探しだすことができない。
母を師匠に会わせるため初めて景樹と接触を持ち、それから親しく交際するようになったというのも不自然ではない。

文政7年(1824) 8月16日、
「頼襄が三本木の水楼につどひて、かたらひ更かしてしてよめる」と詞書があって、景樹が詠んだ歌二首

すむ月に水のこころもかよふらし高くなりゆく波の音かな
白雲にわが山陰はうづもれぬかへるさ送れ秋のよの月

山陽が京都で初めて住んだ借家は新町通丸太町上ル春日町。
それから車屋町御池上ル西側、二条高倉東入ル北側(古香書院)、木屋町二条下ル(山紫水明処、柴屋長次郎方川座敷)、両替町押小路上ル東側春木町(薔薇園)。
ずいぶん頻繁に引越ししている。引越しが好きだったのだろう。
それから東三本木の水西荘。文政5(1822)年に転居。この最後の家は土地は借り物で家だけを購入、死ぬまで住んだ。
三本木というのは、今の京都御所の南隣でかつては山陽もよく通う歓楽街だったらしい。
しかし東三本木というのは、御所の東で、今の京都大学の鴨川挟んで対岸あたり。
ちなみに景樹の家は白河にあったという。よくわからんが、祇園の奥、東山、鹿ヶ谷あたりか。

水西荘に移り住んで、文政3年正月に作った「新居」と題する詩がある。

新居逢元日 新居元旦に逢ふ
推戸晴㬢明 戸を推せば晴㬢(せいぎ)明らかなり
階下浅水流 階下に浅水流れ
涓涓已春声 涓涓として已に春声
臨流洗我研 流れに臨んで我が研(すずり)を洗えば
研紫映山青 研の紫、山の青に映ゆ
地僻少賀客 地は僻にして、賀客少なく
自喜省送迎 自ら送迎を省くを喜ぶ
棲息有如此 棲息此の如き有り
足以愜素情 以て素情に愜(かな)ふに足る
所恨唯一母 恨む所は唯一母
迎養志未成 迎へ養ふ志、未だ成らず
安得共此酒 いずくんぞこの酒を共にし
慈顔一咲傾 慈顔一咲して傾くるを得ん
磨墨作郷書 墨を磨(けず)りて郷書を作れば
酔字易縦横 酔字、縦横なり易し

※晴㬢 「㬢」は太陽の色、日の光。
※酔字易縦横 酔っぱらっているので、字がふらつくの意。

頼山陽は新居で毎朝、鴨川から硯の水を取り、また、夕方には鴨川の流れで硯を洗い、弟子たちにもそれを勧めたそうだ。
土地は143坪。現代の普通の都会の宅地の5倍くらいはあるな。
ここに書生部屋などを増築したという。
「地僻少賀客」とあるが、当時は京都の町外れだったのかもしれん。

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