室町時代の勅撰集を、滅び行く王朝文化の最後の残照、などと表現することがある。
応仁の乱で、勅撰集とともに王朝文化は途絶した、王朝文化とともに寿命を終えたと。
いくら延命措置を施しても無駄だ。
これは丸谷才一的解釈。
正岡子規は、だいたい同じだが、和歌は家元制度の伝統芸能みたいになってしまって、
過去の負の遺産をひきずっているだけだと。
新しく改革しなきゃいけないと。
新しい明治の和歌を創らないと。
名前も短歌と変えよう(伝統芸能の家元制度がダメなら歌舞伎や能や落語や生け花やお茶はどうなってしまうのだろうか。
問題の本質はそこではないと思うのだが)。
ま、だいたい、新古今よりあとの勅撰集はこんなふうにおおざっぱに語られることがおおい。
そうではないと最近思い始めた。
室町時代の勅撰集というのは、それより前の勅撰集とはまったく性質も性格も違うものだった。
それは、将軍家と天皇家と公家が運命共同体となり、三位一体となり、ある意味では三すくみとなって、
日本を統治していくという儀礼に化したのであり、従ってその内容や歌のできばえなどというものは、
ほとんど顧みられなくなったのである。
逆にほんとに芸術肌の人にしか歌が詠めないようだと、それは儀礼としては都合が悪い。
足利氏が天皇に執奏し、天皇が公家に綸旨を下し、公家が企画編集し、最後に三者が一同に介して歌集の完成を祝う。
それを武家、公家、天皇家で回覧する。
実に良くできたシステムだ。
なんでもかんでも足利幕府の真似をした徳川幕府も、勅撰集だけは真似しなかった。
実に不思議だが、おそらくそれは徳川氏の都合というよりも、天皇家や公家が嫌がったためだろう。
足利氏ならともかく徳川氏に和歌をいじくり回されるのは嫌だ、と。
これは宮中行事の一種であり、公家マターだから、武家は来るな、と。
足利氏のときはそんな拒絶反応はなかったのだが。何しろ足利はかなり正統な源氏だから。
徳川も源氏だと言ってるがそれ嘘だから。
だから勅撰集は途絶してしまった。
ただそれだけのことなのだ。
京極為兼あたりまで、和歌は、沈滞すると改革者が現れるなどして、常に自助努力で再生してきた。
しかし室町時代になるとそれが政治システムの三位一体にがっちり組み込まれてしまったために自己再生能力を失った。
王朝文化が死んだというのとはちと違うと思うのだ。
そして、足利幕府がなくなるや、武家や町人商人らが勝手に和歌を詠むようになり、
逆に江戸時代末期には和歌の一定の隆盛を見た、それが明治年間における和歌の復興の直接のエネルギーになった、
と私は思う。
大正以後衰退したのは、江戸期の原資を使い果たした上にそれに変わるものを生み出せなかったからだ(むしろ過去の遺物としてやたらと粗末に扱った)。
だから、私は、万葉、古今、新古今に並んで、江戸後期をもう少し和歌の流行期として評価すべきだと思うのだ。