小池一夫原作の漫画「子連れ狼」(1970-1976)には主人公・拝一刀の
> 仏に逢うては仏を殺し、父母に逢うてはこれを殺し、祖に逢うては祖を殺し、
しかして、何の感情も抱かぬ、無字の境地に至れぬものか!
というセリフがある。
[こちらのサイト](http://d.hatena.ne.jp/terasawa_hawk/20140326/p1)
にはその英訳も掲載されている。
> Meet the Buddha, kill the Buddha. Meet your parents, kill your parents.
Meet your ancestors, kill your ancestors.
などと訳されているのがわかる。
映画「子連れ狼」(1972-1974)にも同様のセリフが出る
[いくらおにぎりブログ](http://blog.goo.ne.jp/langberg/e/4e9d5f60ed92ce18d1d6821a912e2a63)。
> 阿弥陀如来に申し上げる。我ら親子、六道四生順逆の境に立つもの。父母に会うては父母を殺し、仏に会うては仏を殺す。喝!
深作欣二監督の映画『柳生一族の陰謀』(1978年)では、柳生宗矩役の萬屋錦之介が
> 親に会うては親を殺し、仏に会うては仏を殺す。
と言い、同年テレビドラマ版『柳生一族の陰謀』では、柳生十兵衛役千葉真一の冒頭のナレーションで、
> 裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。
人としての情けを断ちて、
神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、
然る後、初めて極意を得ん。
斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、
豈に遅れを取る可けんや。
とある。
テレビドラマで「親に会うては親を殺し」は刺激が強すぎるのかもしれん。
「神に逢うては神を斬り」はこれが初出か。
いかにも日本的な言い回しではある。
『魔界転生』(1981年)では
> 神に会うては神を斬り、魔物に会うては魔物を斬る。
という言い回しがあり、『キル・ビル』ではやはり千葉真一がハットリハンゾウ役で
> 自惚れではなく、これは私の最高傑作。
旅の途上で、神が立ちはだかれば、神をも斬れるであろう。
などと言っている。これの源流は、臨済宗の祖、臨済の言葉を記した『臨済録』の中に出てくる以下のくだりであると思われる。
> 爾、如法の見解を得んと欲せば、但、人惑を受くること莫れ。
裏に向かい、外に向かひて、逢著せば、便(すなは)ち殺せ。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、
父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん・親族)に逢うては親眷を殺して、
始めて解脱を得ん。物と拘わらず、透脱自在なり。
[道流、爾欲得如法見解、但莫受人惑。向裏向外、逢著便殺。逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。](http://ja.wikiquote.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B8%88%E7%BE%A9%E7%8E%84)
臨済という人はずいぶん過激な人だったようだが、禅宗由来と言われればたしかにそんな気がしてくる。
> 戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。
ここは深作欣二のオリジナルらしいが、孫子の兵法[形篇](http://kanbun.info/shibu02/sonshi04.html)
> 勝兵先勝而後求戦、敗兵先戦而後求勝。
「勝兵は先づ勝ちて而る後に戦ひを求め、敗兵は先づ戦ひて而る後に勝ちを求む」
が出どころであろう。
ところで頼山陽には「兵児の謡」という詩があって、前後に分かれているが、その前半は
> 衣至骭 袖至腕
腰間秋水鉄可断
人触斬人 馬触斬馬
十八結交健児社
北客能来何以酬
弾丸硝薬是膳羞
客猶不属饜 好以宝刀加渠頭
> 衣は骭(すね)に至り 袖腕に至る
腰間の秋水 鉄断つ可し
人触るれば人を斬り 馬触るれば馬を斬る
十八交を結ぶ健児の社
北客能く来らば何を以って酬いん
弾丸硝薬是れ膳羞
客猶ほ属饜(しょくえん)せずんば 好(かう)するに宝刀を以て渠(かれ)が頭に加えん
※秋水 よく切れる剣。日本刀の美称
※健児の社 薩摩藩が青年藩士のために設けた教育機関。
※膳羞 ごちそう
※属饜 飽きる
薩摩男子は、裾は脛まで、袖は腕までの短い粗末な服装だが、
腰に差した剣は鉄も切れるほどに鋭利である。
立ち向かってくるものがあれば、人だろうと馬だろうと何でもかまわず斬る。
十八歳になると健児の社に加わって同志と交わる。
薩摩の北から客が訪れれば、何をもって応対しようか。
弾丸や硝薬、これごちそう。
客がそれでも飽き足りないときには、頭に宝刀を加えて引き出物としよう。
ここで、人でも馬でも斬る、という形になっている。もともと薩摩の民謡を漢詩に翻案したもので、そのオリジナルは
> 裾は脛まで 袖は腕 腰の剣は鉄も断つ
人が触れば 人を斬り 馬が触れば 馬を斬る
若さを誓ふ 兵児仲間
> 肥後の加藤が来るならば 煙硝(えんしょう)肴に弾丸(たま)会釈
それでお客に足らぬなら 首に刀の引き出物
というようなものであったらしい。
「兵児の謡」の後半は、しかし、
> 蕉衫如雪不愛塵
長袖緩帯学都人
怪来健児語音好
一操南音官長瞋
蜂黄落 蝶粉褪
倡優巧 鉄剣鈍
以馬換妾髀生肉
眉斧解剖壮士腹
> 蕉衫雪の如く塵をとどめず
長袖緩帯都人を学ぶ
怪しみ来る健児語音の好きを
一たび南音を操れば官長瞋る
蜂黄落ち蝶粉褪す
倡優巧みにして鉄剣鈍し
馬を以て妾に換え髀肉を生ず
眉斧解剖す壮士の腹
※蕉衫 芭蕉布の服
※蜂黄落蝶粉褪 蜂の黄色い色は落ち、蝶の粉は色褪せてしまった。女色に退廃したようす。
※倡優 芸能
※眉斧 美人
衣服は真っ白で一点のちりも無く、
袖は長く、帯は緩く、都人の流行を真似ている。
健児らの言葉遣いも都びていて、
薩摩弁で話しかけると官長が怒り出すしまつ。
女色に溺れ、芸事は旨くなったが鉄剣は鈍い。
馬を妾に換えて股に贅肉が付く。
美人が壮士の腹を割いてしまった。
頼山陽は1818年、37歳頃に九州各地を漫遊している。
長崎から雲仙、熊本、薩摩と移動したようだ。
諸国を観察して、詩を作ったり、それを揮毫して小遣い稼ぎしたり、歴史を学んだりしたかったのだろう。
「肥後の加藤」とは清正のことだろうから、
秀吉の時代の歌であったのが、山陽が薩摩を訪れた江戸半ばすぎには、
島津家中の武士ですら、贅沢に馴れていた、というふうに鑑賞すべきである。
時に薩摩藩は島津重豪の時代で、開明的だが浪費家で、死後大赤字を残したことで有名だ。[鎌倉宮の謎](/?p=2323)参照。
小説も書いてます。
是非お読みください。
[人斬り鉤月斎](http://ncode.syosetu.com/n1097ch/1/)