デーテ 11. 叔父の帰郷

 ドムレシュクの人たちは、父さんが、ナポリではガリバルディの赤シャツ隊の切り込み隊長だったとか、シチリアでは悪虐非道の限りを尽くしたとか、私的な喧嘩で人を殴り殺したりとか、そのために軍隊を脱走したりとか、さんざん噂したのだけど、話には尾ひれがつくもので、実際には、そんなむちゃくちゃな行状はなかったのじゃないかなあ。何しろ父さんは工兵だったから、もっぱら後方支援に当たっていたのだと思うし。

 僕の生まれた年は、イタリア統一がなって3年後くらいだから、父さんが軍役を解かれて、まだナポリに滞在していた頃に僕は生まれたはずだ。でも、僕にはナポリの記憶がない。

 ナポリで経営がうまくいかなくなってから、僕たち親子は、イタリアのいろんなところをさまよった。父さんは、傭兵時代に知り合った、ピエモンテやロンバルディアの仲間たちをあちこち頼ったらしい。広い畑の中の町だったり、海のそばだったりした。でもいつも、僕がその土地に慣れるより前に引っ越してしまう。最後に大きな町、ミラノだと思うんだが、そこに着いたとき、「母さんはどうしてもスイスには帰りたくないという。だから母さんを残して二人でスイスに帰ろう、」などと父さんは言い出した。僕は、母さんと別れたくないと泣いて頼んだ。「母さん、父さんと一緒にスイスに行こうよ」僕は母さんにお願いした。そしたら母さんは「私と一緒にナポリに帰りましょう、トビアス。父さんは、どうしてもスイスに帰りたいというのだけど、私はイタリアを離れたくないの。」という。

 「母さん、僕と母さん二人きりでどうやって食べていくの。」そう聞くと、「スイスに帰ったって事情は同じよ。食うや食わずの生活をしなきゃならないんなら、スイスにいるよりイタリアにいるほうがずっとましだわ。」

 父さんは、とてもいらいらし始めて、「俺と一緒にスイスに来るか、母さんとイタリアに残るか、どちらか選べ」と言う。僕にはどちらも選べなかった。「ねえ、僕もすぐに大きくなって父さんの仕事を手伝えるようになるよ。僕が働けるようになるまでしんぼうして、ずっと三人で暮らそうよ。」僕はそういった。でも、父さんも母さんも、とても困った顔をして、黙りこくってしまった。

 その夜、母さんは、眠っている僕を起こして、「さあトビアス、服を着なさい、そして私と一緒に逃げよう。そしたら、父さんは一人でスイスに帰るでしょう。あんたが来なきゃ、私一人ででも、ナポリに帰りますよ。」そう言って、僕を連れ出そうとした。母さんは僕と自分の分の荷作りをしてすぐにも夜逃げする気だったんだけど、僕が母さんを引き留めて、母さんもその晩は諦めてしまった。

 結局父さんは母さんを無理矢理説得して、母さんはいやいや、僕たち親子3人は、アルプスをよじ登って、サン・ベルナルディーノ峠を越えて、ドムレシュクに戻ってきた。父さんにとっては2度目の帰郷、最初に故郷を出てから15年も経っていた。

 僕はといえば、初めて見る山国の景色に、僕には毎日が驚きの連続だった。

 スイスでの暮らしはやっぱり全然うまくいかなかった。母さんは子供の頃ずっと父親に糸車で糸を紡ぐ仕事をやらされていたんだけど、スイスに戻ってくるとやっぱりおんなじ仕事を朝から晩まで、来る日も来る日もしなくちゃならなかった。母さんはいつもナポリに帰りたがった。父さんと母さんの関係はギクシャクしていて、母さんは時々家出までして、しばらく家に戻らなかった。父さんはそのたびに癇癪を起こして母さんを殴った。そうしているうちに母さんは重い病気にかかってしまい、長患いした後、回復せず死んでしまったんだ。母さんにはまったく身寄りがなかった。親戚はみんな母さんより先に死んでしまっていたし、幼馴染みの友だちともまったく連絡を取っていなかったし、隣人に頼ったり助け合おうともしない人だった。なぜ母さんがそんな人だったのか、僕には良くわからない。ちょっと変わった性格の人だったことは確かだ。

 父さんはすっかり母さんに愛想を尽かしてしまっていて、母さんが勝手に病気にかかって死んでしまったと腹を立てて、お葬式もせず、お墓に墓標を立てることさえしなかった。まるで無縁仏みたいな扱いをされたんだ。

 母さんが死んで、みんなは父さんのせいで母さんが早死にしてしまったって父さんを責めた。そうなのかもしれない。でも僕には、父さんも母さんもどっちもどっちに見えた。母さんも父さんも意固地で聞き分けがなかった。父さんは人の忠告を聞かない人だけど、それは母さんも同じだ。実際、父さんは確かに癇癪持ちで厳しく、酔っ払うと暴れたけど、僕自身父さんから虐待を受けたとは思ってない。母さんは僕を嫌ってはいなかったが、僕をどう扱って良いかわからず、誰にも頼ることもできず、半ば育児放棄か、育児ノイローゼみたいになっていたと思う。僕は父さんも母さんも好きだ。二人がうまくやっていけなかったのはほんとうに不幸だったと思う。

 父さんもやはり1人で僕を育てることができず、途方に暮れて、ドムレシュクの親戚たちを頼った。ドムレシュクの人たちはみんな、父さんがいきなり目の前に現れて、まるで疫病神か亡霊を見るようで、若い人たちはもう父さんを知りもしない。年寄りばかりが知り合いだった。父さんは、浮浪者かと見紛うおちぶれようで、そのうえ、

 「この子が自分で働いて食っていけるようになるまで、しばらく預かってくれないか?今は俺も、このとおり落ちぶれて見る影もないが、そのうち何年かかろうと、金を稼いで、きっとお礼はする。」

と僕を親戚の誰かに預けて、自分はしばらく実入りの多い出稼ぎ仕事でもしようとしたのだけど、みんな父さんとこれ以上関わり合いになって面倒を被りたくなかったんだ。どこの家でも、ひどく冷たい仕打ちを受けたよ。父さんは

 「畜生、こんな田舎、もう二度と足を踏み入れてやるものか!」

とかんかんに腹を立てて、僕を連れて、さらに山を下って、グラウビュンデンのどんづまり、デルフリに住み着いたというわけだ。デルフリには僕や父さんの世話をしてくれる親戚もいなくはなかったし、父さんは、ヤギを飼ったり、ヤギの乳でチーズを作ったり、家具をこさえて売ったりしながら、村のはずれの掘立小屋で、自給自足に近い暮らしを始めて、僕を育ててくれた。父さんもデルフリを第二の生まれ故郷のように思って、それなりに気に入っているように見えた。

 それから何年かして、ようやく国民学校を卒業し、兵役にとられる年になると、僕はそのまんま傭兵にさせられてしまうところだった。父さんは、僕がただで手に職をつけるため、自分と同じように工兵にしたかったらしい。だけどスイスは連邦政府ができて、もう傭兵はやめようという流れになってきたし、僕はアーデルハイトとつきあいだしていたから臆病風に吹かれてしまい、彼女も父さんの話を聞くともう怖気をふるって、僕が戦争に行くのを嫌がったものだ。僕は結局、父さんや親戚、それからアーデルハイトの親に学費を前借りして、そのうち返すという約束で、メールスで徒弟になったんだ。

**

 とまあ、こんな具合に、トビアスは私に、おじさんが傭兵だった頃の話やヨーロッパの国際情勢のことやら、身の上話などを、たびたび話して聞かせたものだったわ。

 

 

 こいつは驚いた。身の上話から政治のことまで、よくまあ次から次へと、べらべら良くしゃべるスイス女だな、口から生まれたとはまさに彼女のことだと、俺はあきれたが、俺は、その話の腰を折ることもなく、辛抱強く、身内ネタばかりでわかりにくい彼女の物語りに耳を傾け、うんうんと頷きながら聞いてやった。

 なるほど、ソルフェリーノの戦いのことは俺も聞いたことがある。ちょうど俺が生まれて間もない、今から30年ほど前にイタリアであった戦争で、スイス傭兵という「血の輸出」禁止のきっかけともなり、またスイス人アンリ・デュナンによる赤十字運動の発端ともなった戦争だ。皇帝ナポレオンと諸大国の間で戦われたライプツィヒの戦いに次ぐ規模の、歴史的大会戦だ。

 トビアスという男、つまりこの女の義理の兄は、イタリア統一戦争の後に生まれたことになるから、今まだ生きていれば、やはり俺と同じくらい、30台半ばの年になっているはずだ。

デーテ 10. ガエータの戦い

 シチリア独立派たちは、王を擁立して、あくまでも北イタリア政府に抵抗するかまえを崩さない。彼らはシチリアやナポリの山岳地帯に竄匿(ざんとく)した。王フランチェスコと王妃マリア・ゾフィーが、ナポリを脱出して、ローマの南に位置するティレニア海に面した港町ガエータへ海路入ったと知ると、多くの戦士たちがガエータ要塞に集結した。

 王妃マリアの姉エリーザベトはフランツ・ヨーゼフの妻、つまりオーストリア皇后だった(エリーザベトとマリアは、いずれもバイエルン王家の傍系であるバイエルン公マクシミリアン・ヨーゼフと、バイエルン王女ルドヴィカの間の子)。マリアはしきりにオーストリアに救援を請うたが、フランツ・ヨーゼフは北イタリアの敗北に懲りて、動こうとはしない。マリアは要塞の中でみずから傷病兵を看護し、食料を分け与えて、ブルボン家を護る「戦う王妃」としてけなげに献身した。

 ガエータ要塞は海に突き出した地峡の先の岩山に作られた頑丈な砦で、当時欧州随一の難攻不落の城塞として名高かった。ティレニア海に洗われそそり立つ断崖に取り囲まれており、ピエモンテ艦隊の海からの砲撃では、ほとんど損傷を与えられない。チャルディーニ・ガリバルディ連合軍によって地峡側から激しい爆撃が加えられたが、四ヶ月間落とすことができなかった。爆裂弾の砲撃によって火薬庫が爆発するなどして、多くの死傷者が出た。何度も休戦や講和交渉が行われたが、しかし、籠城兵の戦意がゆるぐことはなかった。最終的に、フランス皇后ウージェニーから王妃マリア宛に送られた書簡によって、王と妃は王国退去を決意し、降伏することになった。

 こうして両シチリア王国はガリバルディがマルサラに密航してから10ヶ月、ナポリが落ちてから5ヶ月、とうとう滅亡した。王党派の残党が立て籠もったチヴィテッラ要塞も、王国滅亡の1ヶ月後には陥落した。

 サヴォイア公兼ピエモンテ公兼サルディーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世はイタリア王に即位。首都はピエモンテのトリノとした。ヴェネツィアやローマ教皇領などが漏れたが、ともかくもここにイタリアの統一がなった。これらの一連の戦役は現在では第2次イタリア統一戦争と呼ばれる。最大の功労者カヴールは、激務のため、戦役中からずっと不眠症に悩まされていたが、統一後わずか3ヶ月で、マラリアとおぼしき病に罹った。功成り名を遂げやっと50歳になったばかりで急逝した。

 ガエータ攻略に功績があったチャルディーニ将軍はなんとガエータの領主、つまりガエータ公(Duca di Gaeta)に叙せられ、ナポリに進駐して、政情不安な南イタリアの治安維持にあたった。今や事実上、10万人にもふくれあがったイタリア国軍の主力はここナポリ駐屯軍なのである。

 ナポリやシチリアの山岳地帯にはギャングかマフィアまがいの残党がなおも立てこもっていた。俺はそれからもずっとチャルディーニ将軍のもとで傭兵を続けていくこともできたのかもしれんが、将軍による民衆の弾圧は凄惨を極めた。我々はかつて入れ替わり立ち替わり住民を搾取した両シチリア王国歴代君主と何ら違わない。南イタリアのナポリやブリンディシまで北から鉄道が延びても、産業革命やブルジョア革命の恩恵にナポリ人やシチリア人は無縁で、北イタリアの大資本が南イタリア人民を搾取する構図は変わらなかった。

 俺は、かつて両シチリア王国でブルボン家の王の親衛隊をしていたスイス人らと、今ガエータ公チャルディーニの下で傭兵として働いている自分の境遇がまったく同じものであることに、絶望した。我々は貧乏なスイスという国から金で雇われてこの貧乏な南イタリアに来て、俺たち同様貧乏な現地住民らを弾圧する手先になっているのだ。それが我々スイス人の宿業なのか。これからも未来永劫そんなことを繰り返すのか。なんともやりきれない。俺は、自らの意思で除隊することにした。

 その後の戦争は、俺には直接関係ないわけだが、ガリバルディはローマ、ヴェネツィアを回復する戦いをあきらめず、再びシチリアに私兵を募った。あの、テアーノの和解とはいったいなんだったんだろうね。ガリバルディは、王の前で、中世の騎士みたいな気分になってしまっただけなんじゃないかなあ。それで後で、ほんとうにやりたいことはこんなことじゃあなかったのに、と悔やんだのかもしれない。

 ガエータ公チャルディーニはガリバルディとカラーブリアのアスプロモンテで衝突し、ガリバルディは敗れ負傷する。ガリバルディは懲りないやつでその後何度もローマに進軍しようとした。ガリバルディを支持する愛国者もたくさんいたのだ。彼をイタリア民族主義の体現者であったと言うのはたやすいだろうがね。実体はマフィアの親分、秘密結社の棟梁みたいなやつだったんだろうよ。カヴール閣下亡き後イタリア王国の首相は頻繁に交代し、共和派や南イタリアの独立派の動きも活発だった。閣下の僚友でもあったナポレオン三世も大いにイタリアの先行きを危惧したのだったが、結局ローマもヴェネツィアもその後「自然と」イタリア王国に編入され、イタリア統一戦争は収束していった。

 アルプスの山の中で育った俺には、ナポリは日差しに溢れた南国、温暖で、傭兵の報酬としてもらった金がたっぷりあったから、当面暮らしに困らなかった。しかし俺は、失踪した弟のことを思い出した。俺はやはりドムレシュクに戻り、農園を再興しなきゃならん。そうしたら弟も戻ってきて、また元通り、昔のように仲良くやっていけるだろうと思った。

 それで俺は、サン・ベルナール峠を越えて生まれ故郷に戻った。そんなとき、町の盛り場で出会ったのがフローニ、そう、おまえの母さんだ。

 俺はフローニに、ナポリの話を面白おかしく聞かせた。もともと俺はお調子者で、その頃の俺は羽振りも良かったし、フローニはたちまち俺の話に夢中になった。フローニはスイスを嫌っていて、海外に憧れていて、俺と結婚すればスイスを離れてアメリカに行けると思い込んだ。

 フローニは俺にアメリカに連れて行ってくれとせがんだ。俺は、弟のことが気がかりでいったんは断った。しかしフローニはしつこく俺に迫った。「そんな家を見捨てて飛び出した弟のことなんかほっときなさい、あなたはあなたでやりたいようにやれば良いのよ、」と。フローニに説得され、だんだんと俺も新天地に渡るのは悪くないと思い始めた。

 それで俺は彼女の望みを叶えてやることにした。彼女と結婚し、ドムレシュクの地所などすべて処分し、ナポリに移り住んだ。俺は軍隊にいたとき工兵だったから、大工の技術はあった。俺は船大工になろうと考えた。この大航海時代、ここナポリで造船の仕事をすれば大儲けできると思ったからだ。それで店をかまえて、弟子や使用人も雇い、手持ちの金を元手に工場の経営を始めた。そうしていよいよ資金が十分に貯まったらアメリカに渡ろうと考えていたのだが、ナポリというところは、人間の気性が北イタリアやスイスとはずいぶん違っていてなあ。どうにも商売がうまく行かないし、使用人もいうことをきかない。いつの間にか借金だけが増えていき、お前や妻を養うこともできないくらいに落ちぶれてしまった。

***

デーテ 9. 両シチリア王国

 スペインのハプスブルク家は後嗣が無く途絶し、継承戦争によってフランスのブルボン家がスペインの君主となった。これがスペイン・ブルボン家。シチリア王国とナポリ王国もスペイン・ハプスブルク家の所領であったが、どうようにスペイン・ブルボン家の分家に領主が代わる。

 ピエモンテを含む欧州の多くの国は、憲法を持つ議会制民主主義の国家に移行しつつあった。大衆万能の時代が到来しつつあった。フランス革命によって生み出された人民軍の強さがそれを実証した。君主は主権者たる国民の上に君臨する存在としてのみ、存在を許されるようになってきた。

 ブルボン家の分家のまた分家、若きシチリア王フランチェスコは、バイエルン公の娘マリア・ゾフィーと結婚し、その直後に父フェルディナンドが崩御したために王位を継いで、まだ1年も経っていなかった。若干23歳。王妃マリアは5歳年下で、まだ18歳。

 フランチェスコは英邁な君主であった。彼にも自分の置かれた立場が、自分の国の命運が、見えていた。ブルボン家の本家がフランス革命で断絶したさまも、まざまざと目にしていた。しかし、歴史の渦中にいるものは皆、過去にあったことはよく見えても、未来はぼんやりとぼやけて見えないものである。その半透明のスクリーンに自分に都合の良い幻影を投映したがるものである。

 彼はまだ若く、治世の実績もなく、国難に対処するのは最初から不可能だった。正直な話、もうしばらく妻と新婚気分に浸っていたかったに違いない。彼に適確且つ果断な政治判断を期待するのは酷というものだ。国内には秘密結社がはびこり、反乱や暴動が頻発していた。町も村も治安は最悪。対外的にはイギリスとロシアの板挟みになり、北から南へ向かって、イタリアでは革命が進行しつつある。王は、破産寸前の会社を相続した世間知らずの若旦那のような立場に立たされていた。イタリアは今や、古い体制が自然崩壊し、フランスの影響を間近に受けて一足先に民主化と産業革命が進展したピエモンテを盟主として、新しい時代へ移行しようと急いでいるかのようだった。

 かたや両シチリア王国は、時代の流れに乗って国民国家となるにはあまりにも君臣の距離が隔絶していた。立憲君主制や議会制民主主義が成立するにはブルジョアジーが不可欠である。産業革命が生み出す新興勢力が必要である。富裕な市民を欠く革命は王政を根こそぎ倒してしまう。国民は躊躇無く王を捨て、自分たちの共和国を作ってしまうだろう。

 王フランチェスコにとってピエモンテとの同盟は、彼を、王国を救い得る最善にして最後の提案であったろう。しかし彼は、それに手を伸ばすことをためらった。フランチェスコにせよ、ヴィットーレ・エマヌエーレにせよ、君主らにとってカミッロ・ベンゾという男は苦い薬だった。

 ナポリやシチリアというところは、めまぐるしく領主が交替する。古代にはギリシャの植民都市があった。ナポリという町の名も、ギリシャ語のネアポリス(新しい町、という意味)が語源である。その後、一部がカルタゴ領になり、古代ローマ共和国の属州となり、ゲルマン民族移動によって東ゴート王国となり、アラブ領となり、東ローマ領となり、ノルマン人によって征服され、その後もハプスブルク家やブルボン家などの異邦の王族に支配されてきた。シチリア人やナポリ人といった現地住民による国が建てられることはなかった。ピエモンテやスイスとはまったく異なる国柄である、と言える。

 住民の気質はギリシャ人、コルシカ人、サルディーニャ人、或いはチュニジアのアラブ人らと近く、個人主義的、享楽的。その上土地は痩せ、大した産業もなく、人民は貧しく、地縁も血縁もない君主にとって、かわいげがなく、旨味も少ない領地である。勢い、専制的な搾取・収奪・そして弾圧が常態化していた。

 飼い犬や飼い猫を愛さない人がいないように、領民や領国を愛さない領主もいない。しかし、次第に馴れ、思い通りにならず、期待に応えてくれないと、愛情は憎しみに変わっていく。飼い犬に手を噛まれた飼い主が、自分に忠実な犬に折檻を与えてしまうように。

 自然とイタリア諸国の中でピエモンテは開明的なイギリス・フランスに接近し、両シチリア王国はスペインやオーストリア、ローマ教皇など、どちらかと言えば古臭い後進国に親近感を持ち、特に当時世界最大の専制君主国であるロシア帝国に接近しようとする。これが世界帝国イギリスの逆鱗に触れた。

 ロシアは、黒海からエーゲ海を経て地中海へ、ジブラルタル海峡を経て大西洋、或いはスエズ運河を経てインド・アジアへと進出しようとしていた。オスマン帝国の弱体化に伴ってロシアが地中海に進出し、シチリアがロシアの寄港地になるようなことは、ジブラルタルやスエズを押さえるイギリスにとって決して容認できない。そこで、ロシアの地中海進出を徹底的に阻止しようとしたイギリスとの間で、クリミア戦争が勃発したのである。

 イギリスからみて、両シチリア王国は、煮えきらない、危険な国に見えた。王フランチェスコを見限ったイギリスは、力尽くでシチリアに権益を確保しようとする。特に不満分子が多いシチリアの住民に加担し、イタリアの革命家ジュゼッペ・ガリバルディをシチリア島の最西端マルサラに密航させた。ガリバルディは自らピエモンテで募った義勇軍とともに、オーストリアと戦っていた。それら義勇軍を再編成して、ジェノヴァから二隻の船に乗ってマルサラに上陸したのが、かの有名な赤シャツ隊、あるいは千人隊と呼ばれる部隊だ。それ以前にガリバルディはイタリア統一のための戦いに何度も従軍し、アメリカやイギリスに亡命したこともあり、軍略家、活動家、憂国の士としてすでに世界的に名高く、イギリス高官たちにも高い人気があった。そこでイギリスがシチリアに干渉するためのエージェントとして、彼に白羽の矢が立ったのである。

 シチリアの首府パレルモを落としたガリバルディは、イギリス海軍の支援を受けつつ、イタリア本土を隔てるメッシーナ海峡を渡る。カヴールはガリバルディに海峡を渡らぬよう、強く制止した。彼にしてみればガリバルディの軍事行動はイギリスによるイタリアへの干渉、シチリアの独立派の扇動に他ならないし、そもそもカヴールは未だに両シチリア王国の元首・フランチェスコを救いたい、と考えていた。カヴールは王ヴィットーリオ・エマヌエーレのために南イタリアを征服すべきだとは、考えていなかった。イタリア人民のためにイタリア連邦を作る最良の方法を模索していただけだ。南伊征服の野心を持っていたのはむしろサヴォイア公にしてピエモンテの君主、そしてサルディーニャ王たるヴィットーリオ・エマヌエーレではなかったか。彼はガリバルディに同情的で、彼の行動を黙認した。

 ナポリ王は長年スイス傭兵を親衛隊として雇っていた。スイス人の中には将軍となり、爵位をもらってナポリに永住するものさえいた。1848年にスイス連邦が発足すると、連邦政府は州兵の輸出を制限したため、多くのスイス傭兵が帰国したが、ナポリにはなお多くのスイス傭兵が残っていた。ナポリでは実質的には、現地ナポリやシチリアの貴族や民衆ではなく、スイス人が王の股肱(ここう)と頼む家臣だったのである。

 勤勉なスイス傭兵と、自堕落な地元貴族らは常に対立した。スイス兵にしてみれば、何もしないで特権を享受しているナポリやシチリアの貴族と同等かそれ以上の待遇を王に求めたい。ところがよそ者のスイス兵が重用されることに地元貴族は我慢がならない。当主フランチェスコがスイス人の親衛隊らと待遇改善交渉をしている間に、スイス兵は地元兵に包囲され、銃撃されてしまう。

 この事件の結果、王は親衛隊の維持を諦め、スイス傭兵らを解散し、王国に残るも去るも自由にさせた。一部の傭兵は帰国し、一部は王とともに最後まで運命を共にすることを誓う。

 王の家臣たちは、保守的な独立派と、議会制への移行を望む開明派と、過激なイタリア統一派とに分かれ、激しく対立して、収拾がつかなくなっていた。穏健なリベラル派は、叛徒と歩み寄って、王国の民主化を求めたが、貴族や領主からなる王党派は、断固として、徹底的に戦うべきであると譲らなかった。

  ガリバルディ軍がイタリア本土に足を踏み入れると、ピエモンテ軍もポー川を越えて教皇領に侵攻し、両シチリア王国を目指すことになった。

「諸君。5万のフランス兵は母国に引き揚げていった。今我々は真の意味で、イタリア国軍を創設せねばならぬ。ピエモンテのみならず、ハプスブルク家のくびきにつながれていたトスカーナや、我が故郷モデナからもぞくぞくと志願兵が集まり、見よ今や、6万人の大軍団となった。俺がクリミア戦争で指揮を執ったときにはわずか1000人、いや500人しかいなかったのに、今や6万だよ、6万。その兵士らの身命、家族や同胞らの運命が俺の双肩にかかっているかと思うと、重責に押しつぶされそうだ。

 この俺も父は土木技師。子供の頃から土木を仕込まれたが、土木よりゃちょっとはましな仕事がしたいと医者の学校へ進学した。ところがここががちがちの宣教師どもがやってる学校で俺はとうとう寄宿舎を飛び出してしまったよ。」

 耳にたこができるくらいなんども聞かされたチャルディーニ将軍の身の上話だ。

「だがな諸君。それがゆえにピエモンテは、鉄道を敷いてはるばるフランスから援軍を連れて来れた。大河を自由自在に堰き止め決壊させてオーストリア軍を翻弄した。そしてミラノを取った。この俺がエンジニアだったからできた芸当だ。そうだろう?

 しかしこれから、イタリアが統一され、国軍を持つとなると話は違う。そう思っとるだろう?

 あの土木現場監督に過ぎぬチャルディーニに何ができるとみんな思っとる。思っとるだろう、諸君。ああその通りだ。だがな、イタリアは、オーストリアみたいに、歴代、領主の家に生まれたボンボンが将軍職を継ぐ、そんな国にしちゃあいけない。俺みたいな土木技師がおり、鉄道技師がおり、機械工がおり、なあ見ろ、あのカヴール閣下だって農学者、化学者だ。化学肥料で農業改革を促進した人だ。そういう技術者が身を立て、大臣になり、将軍になる。そういう国にしなきゃならん。そう思うだろ諸君。だから俺は自分の出自に誇りを持っとる。俺が現場のもっこ担ぎ、ドカチンふぜいから国軍の元帥にまで出世したことを誇りに思っとるのだ。

 クリミアで鉄道を海から山の上まで開通させた。この俺がだ。嘘じゃない。イギリスももちろん手伝ったが実働部隊はピエモンテだ。そのピエモンテの工兵を指揮したのが俺だ。それで山の上まで大砲と砲弾を運び、セバストポリ軍港めがけてどっかんどっかんと爆撃した。単線じゃないぞ単線じゃ。複線だぞ。単線じゃトロッコは一度に一台しか使えない。それを上げて下げるだけ。複線なら何台も一度にトロッコで砲弾を運び上げられる。同時に空のトロッコを下ろせる。輸送の速さが桁違いだ。おかげでイギリスはロシアに勝てた。ピエモンテのおかげでロシアに勝てた。俺のおかげでロシアに勝てたのだ。そしてピエモンテも俺のおかげでオーストリアに勝てたのだ。ただ自慢したいだけでこういう話をしておるのじゃないのだ。今の時代どうすれば戦に勝てるか、そのためにはどんな将軍に、どんな国についていけば得をするかって話をしているんだよ。」

 プロイセン王のように、上にピンと跳ね上げた髭を生やし、オールバックにコテコテに固めた、気苦労というものがそんなにありそうにも見えないチャルディーニ将軍は、おおげさな身振り手振りを交えて、全軍を前にそう言った。きっとカエサルの霊が彼に降りてきたのだろう。イタリアでは良くあることらしい。俺はあたりを見渡して、はて、6万人もいるだろうか、ちと盛りすぎではあるまいか、と思ったが、戦争の動員数というのは、そんな具合にいつも大げさなのであろう。

 我々は結局ミンチョ川を渡ることなく南下し、モデナに入り、教皇領のボローニャまで来た。チャルディーニはここで、フィレンツェ・ローマ方面に別働隊を割き、自らはそのままエミリア街道をナポリへと向かった。途中、サンマリノ共和国の手前で、なんの変哲もない小川に架かる橋を渡った。渡った後、一兵卒が、橋のたもとに立っている石像を指さしていった。「こいつはカエサルですよ。今渡った川が、かの有名なルビコン川ですよ、」と。

 全軍がざわついたので、チャルディーニもそれに気付いた。

 「しまった。せっかくイタリアの将軍になったのに、何か気の利いたことを言う絶好のチャンスを逃してしまった。もう一度渡り直すかい?」

 イタリア観光巡りではないのである。行軍中にそんな悠長なことをしてるヒマは無い。

 「ところでカエサルは、この川を渡るとき、何と言ったんだっけ。」

 「たしか、ここがルビコン川だ、踊ってみろ、だったと思います。」

 「いや確か、ダーツは投げられた、ではなかったでしょうか。」

 「ダーツじゃなくて、手袋では。」

などと兵卒らは口々に囁いたが、どれも正解とは思えなかった。

 ピエモンテとガリバルディが教皇領に南北から侵攻すると教皇は世界中のカトリック信者たちに呼びかける。イタリアを救え、と。主にフランス、それからベルギーから義勇兵が集まってきた。

 チャルディーニ軍がアドリア海沿岸の港町アンコーナを接収しようと、その近くの村カステルフィダルドに宿営しているときに、教皇の義勇軍による奇襲を受けた。我らにも少なからぬ犠牲が出たが、チャルディーニは、オーストリア兵にしたような、無慈悲な榴弾爆撃を、彼らの上に降らせるようなことはしなかった。イタリア人の誰一人として、教皇と武力対決しようというものなどいない。戦闘はわずか数時間で終わり、彼らはアンコーナに立て籠もった。我らはアンコーナを放置しナポリに向かうことにした。ローマ市はフランスが守備していたので、我々は敢えて手を出さなかった。他にも教皇領内の敵対する諸都市や砦は、あちらから打って出てこない限り、基本的に無視することにしたのである。教皇はサヴォイア公ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を破門することで対抗したが、王はもはや意に介さなかった。その後イタリア人のほとんど全員が「バチカンの囚人」ピウス9世によって破門された。どうにもしようがなかった。教皇領はフランク王国時代に寄進されて以来、1000年以上続いてきたわけだが、今の国民主権の時代にそぐわないのは明らかであった。実際、教皇の持つ世俗の封建領主としての財力や権力は「歴史的欺瞞であり、政治的詐欺であり、そして宗教的不道徳」と言われても仕方のない状況にあった。

 ガリバルディ軍とチャルディーニ軍はそれぞれナポリ近郊のヴォルトゥルノ、カプアで両シチリア軍を撃破し、とうとう直接対峙した。両軍は激突寸前かと思われた。が、サヴォイア公ビットーリオ・エマヌエーレ2世みずからがナポリの北テアーノという村に御幸して、ガリバルディとの交渉に臨むと、ガリバルディはカヴール軍に降って、南イタリアの占領地をサヴォイア公に献上した。それから、チャルディーニ軍はガリバルディ軍と共同で、両シチリア王国の掃討戦に向かった。

デーテ 8. ヴィッラフランカの和約

 ナポレオン3世は、近代戦争の惨禍を目の当たりにして、つくづく戦争が嫌になった。うんざりした。自ら臨んだ外征における赫々たる戦捷。しかし勝利の美酒に酔うには、支払った代償はあまりにも大きかった。

 彼は、皇帝に即位したとき、フランス国民に向けて、或いは欧州列国に向けて演説した、「帝政とは平和を意味する」と。叔父のナポレオンのような大戦争を始めるのではないか、イギリスやロシアや世界を巻き込んだドンパチを始めるのではないか、と。そんなフランス人民や諸外国の懸念を払拭することに務めたのである。彼はその時の気持ちに返っていた。「フランスが満足しているとき、世界は平和で平穏でいることができる。(※7)」ともあれ、自分が原因で欧州に戦乱の嵐をまき起こすことはもう金輪際やめよう、という気持ちになった。

 すでに彼の頭の中は、フランスの首都パリを、世界のどの国にも負けない、薔薇の花あふれる庭園と、静かで清らかな森、そしてきらびやかな宮殿と整然とした市街を備えた、芸術作品のような都市に作り替えようという夢想で占められていた。彼自身放浪時代に庭師の免許を取得していたくらいだ。彼の叔父とはずいぶん毛並みが違っていたわけだ。

 おお、花の都パリ。美女と美食の街。自分にはそんな文化事業こそ似つかわしい。戎服を着て天幕に野営するなんて、ああ、なんたる野蛮。がらにもないことはするもんじゃあないと。

  パリで摂政となった皇后ウージェニーは、プロイセンが総動員態勢を敷いてフランスとの国境、ラインラントに数十万の兵を集めつつある、早く帰ってきてくれと執拗に催促する。プロイセンは昔からライン川流域に点々と領地を持っていたのだけど、ナポレオン戦争でライン川西岸のラインラントはフランス領となり、東岸のヴェストファーレンはナポレオンの弟が治める衛星国になった。ところがナポレオンが失脚したときにラインラントとヴェストファーレンはまるごと巨大なプロイセンの西の飛び地となり、フランスのエルザス・ロートリンゲン州はプロイセンと直接国境を接するようになってしまった。ベルギー、ルクセンブルク、オランダなどの周辺の小国は、強国プロイセンの前には鎧袖一触。まるごとプロイセンの餌食になってしまうだろう。

  ラインラントこそは、フランスの柔らかい腹部に突きつけられたプロイセンの匕首(あいくち)、パリは指呼の間、なだらかな丘陵と平原が連なり、遮るものとてない。プロイセン騎兵師団ならば国境を越えて数日で走破するだろう。それに比べてロンバルディアは余りに遠い。もしプロイセンが同じドイツ民族のよしみでオーストリア側についてフランスに宣戦布告したら。ウージェニーもパリ市民も気が気ではなかった。

  フランツ・ヨーゼフがいるヴィッラフランカという町はロンバルディア・ヴェローナ県に作られた矩形防衛地帯のほぼ真ん中に位置する。ここに逃げ込まれると、攻めにくい。しかもオーストリア軍は余力を残していた。フランスは、これまで連戦連勝で来ていたが、ここヴェローナで大敗するようなことがあったら、それこそ諸国の干渉を招いてしまうだろう。

  イギリスは、プロイセンとオーストリアとフランスの間で、なし崩し的に大戦が再発することを恐れており、従ってフランスを牽制した。フランス人民に君臨する偶像皇帝。ワーテルローの戦いでは辛くもナポレオンを屈服させたイギリスであるが、未だにその膨大な戦債に苦しめられていた。フランス皇帝ナポレオン、何をしでかすかわからない。パリの宮廷でおとなしく惚けさせておくに限る。

 フランツ・ヨーゼフもまた、戦争を早く終わらせたがっていた。彼はナポレオン三世の奇矯な采配に辟易した。ナポレオンの再来だかなんだか知らないが、こんな得体の知れない、ねじのぶっとんだ奴にこれ以上関わり合うのはごめんだ。もう奴の好きにさせてやろう。彼は、ソルフェリーノの敗戦直後から休戦の可能性を探っていたが、ナポレオン3世の陣営からヴィッラフランカに使者が送られてきて、ピエモンテの頭越しにフランツ・ヨーゼフと勝手に交渉に入る。フランツ・ヨーゼフは、ハンガリー方面軍をまるごとこの戦いに動員したため、いつ背後で叛乱が再燃するか気がかりでならなかった。ハンガリーだけではない。異民族は旧ポーランド領にもボヘミアにもバルカンにもいる。何しろ帝国は広い。1つのことばかりにかかずらってはおれぬ。

 フランツ・ヨーゼフはこの初陣での大敗に懲りて、以後二度と親征軍を率いることがなかった。講和が成るとナポレオン3世とフランス軍はピエモンテ軍を残して戦線を離脱する。ロンバルディアの大半とミラノはピエモンテ領となったが、ヴェネツィアはオーストリア領に残った。

 イギリスもプロイセンもとりあえずフランスとオーストリア間に成立した和議を喜んだ。欧州大国間では休戦の機運で一致していた。しかしこのままでは収まりがつかないのがイタリア人民だ。このヴィッラフランカの和約にイタリアの愛国者たちは激怒した。もとより、独立戦争を完遂するまで、戦いをやめない決意だ。宰相カヴール自身が和議に抗議して辞職した。ピエモンテはプロンビエール条約を無効として破棄。ナポレオン三世も、単独講和がプロンビエール条約違反であることは承知の上だ。

  チャルディーニ軍は、ポー川南岸のハプスブルク領のモデナ公国、トスカーナ大公国へ侵攻した。 トスカーナでは、戦争と並行して革命が起き、治安維持の名目でピエモンテ軍が制圧した。トスカーナ大公はハプスブルク家出身で国外追放されていたが、ヴィッラフランカの和約によってトスカーナに帰ることができるはずだった。しかしピエモンテにとって、フランスとオーストリアの間で勝手に結ばれた条約など知ったこっちゃない。オーストリア、フランスの要求を拒絶してトスカーナを占拠し続ける。住民も旧領主による支配を、もはや望んではいなかった。北イタリア動乱の火種は、まもなく南イタリアにも飛び火することになる。


※7 ブルボン王朝とフランス革命、そしてナポレオン帝政の頃はたしかにフランスがおとなしくしていればヨーロッパは平和だった、と概ね言えるかもしれない。しかしナポレオン3世の時代にはもはやフランスは欧州の中心ではなく、同様のことはオーストリアにも言えた。ナポレオン3世の戦争の仕方をみると非常におっちょこちょいで、常に自分が最前線に突出しようとする。それが初代ナポレオンであれば戦略的に絶大な意味をもったかもしれないが、戦争音痴のナポレオン3世には粗忽・軽率という以外の意味はなかった。オーストリアはナポレオン3世がいきなりそんな奇策に出てきたのでびっくりして負けた。プロイセンのビスマルクはナポレオン3世の戦い方を良く観察したのであろう。普仏戦争のときにはパリから勇んで飛び出してきたナポレオン3世の退路をプロイセン軍が回り込んで遮断、皇帝ともどもフランス全軍をセダン要塞に包囲、皇帝みずからが捕虜となる大失態を演じた。

デーテ 7. ソルフェリーノの戦い

 ピエモンテ・フランス連合軍にとって、ミラノ奪取までは筋書き通りだった。プロンビエールの密約が漏れたことは、戦況の成り行きに大きな影響はなく、若干シナリオを書き換えるだけでよかった。フランスは中立をよそおい、開戦時にピエモンテ領内にいないことにしたのである。

 セージア川の意図的洪水、鉄道の輸送力を駆使した電撃戦、モデナ・トスカーナ方面での陽動策戦、そして何より、フランス・ピエモンテ側の戦意の高さに対して、オーストリア側のへっぴり腰。

 イギリス、プロイセンについで産業革命が興り、民主化が進行し、近代工業力を発揮しつつあるピエモンテと、未だ後進のオーストリアでは、国民の、国家の動員力にも差が出てくる。はっきりと目には見えぬが、歴然たる彼我の形勢の違いを、カヴールは肌で感じていた。おっちょこちょいのナポレオン三世をおだてれば、確実にミラノまでは取れる、という周到な準備、絶対の勝算があって、ピエモンテはオーストリアを挑発したのだった。

 逆にオーストリアは戦力の逐次投入となってじりじりロンバルディア中原まで後退するだろう。しかし、ポー川下流域におけるオーストリアの守りは堅く、首都ヴィーンからは近く、逆にフランスやピエモンテからは遠い。おそらくここで戦線は膠着状態となって、ピエモンテとフランス、オーストリアの三者間で調整がおこなわれて、休戦協定が結ばれるだろう。その結果、ピエモンテは北イタリアの半ばまでを領有し、モデナ・トスカーナまでは自然と手に入る。教皇領の君主たるローマ教皇の立場は微妙だが、ピエモンテが教皇領をその勢力圏に収めることはできるはず。一方で、ティロルを越えてオーストリアまで攻め入るとか、イタリアをピエモンテ一国で統一しようなどという大それたことを、カヴールが開戦時点で考えていたはずがない。なにしろミラノは北イタリア最大の都市、イタリアの商業・農業・工業の一大拠点である。ここを取れば戦争目的はほぼ達成されたとも言える。フランス人やピエモンテ人が浮かれ騒いだのも理由のないことではない。ギュライ更迭の理由もまた、マジェンタの敗北というよりはミラノを損失したことだった。戦いの勢いとはいえ、実にふがいないことだった。ギュライは戦況が不利と見た時点でミラノ籠城戦に切り替えて、挑発に乗らず、辛抱強く本国からの増援を待つべきだった。ミラノを保っていれば最終的に痛み分け程度に終わったに違いない。

 ピエモンテが巨大商圏ミラノを得れば、イタリアの近代化は一気に加速する。つまり、イタリア統一運動も同時に進展せざるを得ない。近代化と民主化と産業革命は三位一体であるからだ。ピエモンテ市民やイタリア統一主義者たちには、もっと勝てるのではないか、いやこの機を利用してもっと勝たねばならない、と欲が出た。しかし、これからがほんとうの正念場だったのである。

 オーストリア軍はロンバルディア平原を東へ、半ばまで退却しつつ、皇帝を迎えて反撃の態勢を整えた。こうして近年稀に見る、親征軍どうしの総力戦に発展した。ピエモンテ軍はロンバルディアの士官や兵卒を編入し、オーストリアもハンガリーやヴィーンから兵隊を連れてきて、双方10万人以上の軍勢だ。両軍、否が応でも、戦意は高揚する。フランツ・ヨーゼフ1世、29歳、即位して11年目。叔父フェルディナント1世が革命により退位、その弟のフランツ・カールが帝位を継ぐのを嫌がったのでその長男のフランツ・ヨーゼフが繰り上がって即位した。オーストリアとしては、フランスが皇帝みずから出てきているんだから、こちらも皇帝を出して、全面対決するよかないと思ったんだろうね。欧州随一の名門貴族ハプスブルク・ロートリンゲン家のプリンスとして育ったフランツ・ヨーゼフにしてみれば、降って湧いたような災難だ。

 一方のナポレオン3世ボナパルトは51歳。王政時代は帰国を許されず、長年異国の地で亡命生活を強いられた、漂泊の中年貴公子。1830年の革命以来、ボナパルティストたちに担ぎ出され、立候補して議員となり、大統領となり、やがてクーデターで皇帝に即位した。本人は自らの皇帝即位に何も関与してはいない。存在も耐えられない軽さ。いわゆる神輿に過ぎない。取り巻き連中も夢想的帝国主義者やら博愛主義者、ブルジョア社会主義者、芸術家崩れなど。地に足がついた連中ではなかった。かつてたたき上げの軍人だった叔父ナポレオンはイタリア戦線で頭角を表した。ナポレオン3世は、いや彼のプロデューサーであるボナパルティストたちは、このナポレオンの甥も、この戦いにおいてフランス人民が心服する形で勝ち、ボナパルティズムを確固たるものとしたいと考えていた。 

  カスティリオーネの丘を知っているかね。ソルフェリーノのすぐ近くさ。オーストリアやプロイセンの敵将たちまでが、戦争の芸術と称え、戦争の詩人と称した天才ナポレオンの、中央突破、各個撃滅戦略が、1796年という、かつてのナポレオン戦争のごく初期の段階の、このカスティリオーネの戦いで初めて、萌芽的に現れた、その記念碑的な丘だ。

  かの有名なソルフェリーノ戦のとき、俺は前線にはいなかった。何しろ俺たち工兵は東西に長く延びた兵站を維持する輜重隊(しちょうたい)にいて忙しかったのだから。そのうえ皇帝ナポレオンは自分で勝手にどんどんロンバルディア平原を東へ進んでしまう。皇帝は例によって軽はずみな性格だから、1日24時間馬車を乗り継いで移動する。フランスの将軍たちはきりきり舞いで後を追いかける。歩兵は歩いてるヒマもない。重い背嚢と銃剣担いでずっと走りっぱなし。過酷なマラソンだ。本隊とピエモンテ軍が皇帝に追いついたかと思うと、もう2日前に発ちました、と言われる、その繰り返し。

 フランス皇帝はプロイセンが介入してくる前に、できるだけ早く決着をつけようと焦ってもいただろう。オーストリアは持久戦に持ち込む腹だろう。

  俺たち後方支援部隊などフランス皇帝の眼中にはない。置いてきぼりさ。おかげで命拾いしたよ。同じスイス傭兵でも歩兵や騎兵になった連中は、すわソルフェリーノで戦端が開かれた、ぐずぐずするな、急げとばかりに、順次最前線に追いつき、投入され、ほとんどが戦闘で死んでしまった。

 オーストリア皇帝軍は、キエーゼ川を西に、ミンチョ川を東に、ガルダ湖を北に、マントヴァ要塞を南に、フランス軍を迎撃するために南北に長く布陣した。アルプス南麓にはマッジョーレ湖やコモ湖、イゼーオ湖など、多くの湖が並んでいるが、これらはポー川へ流れ落ちる氷河が後退した跡にできた堰止め湖で、ガルダ湖もその中の一つ。イタリア最大の湖である。ミンチョ川はガルダ湖から流れ出してマントヴァを経て南のポー川に注ぐ支流。キエーゼ川もまた、アルプスからオーリオ川に合流しポー川へ流れ込む支流の一つである。キエーゼ川とミンチョ川に挟まれた一帯は、カスティリオーネやソルフェリーノの丘などをのぞけば概ね平坦な田園地帯で、北から南へ、サン・マルチーノ、メードレなどの村が並んでいた。

 オーストリア軍は連合軍がまだキエーゼ川の西方、ブレシア辺りにいるものと考え、ガルダ湖南岸まで進出した。一方、連合軍は、オーストリア軍がミンチョ川よりも東にいるものと予測していた。どちらも敵の意表を突こうとして、行軍を速めていたのだ。

 ミンチョ川東岸は、マントヴァ、ヴェローナ、ペスキエーラ、レニャーゴという四つの町が、矩形の要塞群を形成していた。オーストリアはナポレオン戦争の頃からこの四つの都市によって囲まれる矩形地帯をロンバルディアの防衛戦にする。だから、フランスはミンチョ川の西岸へ展開して、敵軍に対峙するつもりだった。

 しかしオーストリア軍は、ミンチョ川よりずっと西へ進出していたのだ。両軍とも偵察が不徹底で、敵の位置を憶測していたにすぎなかった。

 連合軍が先にキエーゼ川を越え、丘の上の村々に至ると、そこはオーストリア軍の宿営地であった。両軍とも作戦不備のまま、不意の遭遇戦となった。まずメードレで、連合軍右翼とオーストリア軍左翼の間に戦端が開かれ、続いてソルフェリーノ、サン・マルチーノなどでも戦闘が発生する。ナポレオン3世の勇猛果敢な陣頭指揮(?)が今回も奏功し、我が連合軍はソルフェリーノを中央突破、 午後から、暴風雨の中の白兵戦となり、前線は大混乱となったが、どちらかと言えば、この悪天候も強気の連合軍に味方した。昼過ぎにはオーストリア軍をカヴリアーナまで押し出す。フランス軍は次々と最前線に到着し、夕刻にヴォルタ・マントヴァーナまで進んだときに、ついにオーストリア軍は総崩れとなって、ミンチョ川の東、ヴィッラフランカまで撤退した。

 ソルフェリーノも、マジェンタの戦いと同様、大量殺人の、胸の悪くなるような嫌な戦いだった。予想外の「近間」の戦闘だったから、砲兵どうしが至近距離で大砲を撃ち合い、狙撃兵が歩兵たちを殺戮しまくり、欧州戦史、いや世界戦史にも希な多数の犠牲者が出た。科学の進歩によって、最新鋭の武器は、より「効率的」かつ「残忍」に兵士たちを殺傷することができるようになった(※6)。

 戦闘というよりは、無秩序な近代戦力のぶつかりあい。まさに地獄だった。当時はまだ衛生兵というものもなければ民間の赤十字組織も看護婦の派遣もなかった。戦いの規模に比べて、負傷兵の収容所は小さすぎた。兵士は、即死すれば良いが、怪我をすれば、身動きもとれず戦場に放置され、衰弱し、傷口から感染症に罹って、死ぬのを待つだけだったのだ。

 ペスキエーラを左に、マントヴァを右に見ながら、ミンチョ河畔にフランス・ピエモンテ軍が会衆したとき、宰相カヴールことカミッロ・ベンゾは珍しく将兵の前に姿を現して、言った。

「諸君。我がイタリア人民の戦いは、まだ半ばに達したに過ぎない。さらなる戦いが、このミンチョ川を越えた先に待っているだろう。

 この機会に諸君に紹介したい一人の男がいる。諸君も良く知っていよう。ピエモンテ議会議員にして我が兄、カヴール候グスタヴォだ。いっしょに前線まで来てもらったのだ。

 今日、わざわざ私が身内を連れてきて諸君に紹介するのには、わけがある。

 兄は我がベンゾ家の当主で、2人の息子がいて、1人はアウグストという名だった。彼はここミンチョ河畔で、ラデツキー軍に敗れて戦死した。1848年、アウグストが20歳の時だ。私は次男坊で、我が領地カヴールを相続することができないから、敢えて妻子を持とうとしなかった。だから私にとって、甥っ子アウグストは本当の自分の子供のようなものだった。諸君らは、今日、やっと兄と私のために、アウグストの仇をとってくれたのだ。どうしても、一言お礼が言いたかったのだ、」と。

 俺は、ただむっつりと、カミッロと並び立つ、ベンゾ家の兄グスタヴォの表情を読み取ろうとした。中年貴族らしい、でっぷり肥満したおしゃれなイタリア男。そのときたまたま私の傍らにいた例の中佐殿が、同僚と噂していた、

「もしかしたら、アウグストはカミッロの実子だったかもしれないな。次男に私生児ができたら、その子を領主の跡継ぎの子として育てるってことは、貴族ではありがちな話だよ、」そんな話をね。ほんとうか嘘か知れない、俺の聞き間違いだったかもしれん、或いは彼自身のことを言っていたのかもしれない、彼も貴族で、長男ではなかったから、中佐になったのだろう。今もその話が耳底に残っていてね。


※6 ソルフェリーノの戦いに比べれば、ナポレオンの革命戦争の頃など、まだまだ牧歌的だったといわねばならない。1849年に銃身にライフリングを施したミニエー銃が発明されることによって、世界は一変した。弾は施条によって旋回し、ジャイロのように直進性能が向上、遠く正確に狙撃することができるようになった。歩兵銃だけでなく大砲にもライフリングは応用された。

 かつて大砲の弾というのは単なる鋳造の金属球だった。いわゆる砲丸投げの砲丸と同じだ。芯まで鉄の塊だから重い。大砲というものは、その重い鉄の塊を火薬で飛ばし目標にぶつけて加害するものだった。たとえば船や砦に打ち込んで破壊したり、隊列の中へ発射して地上を飛び跳ねながらなぎ倒す目的に使われた。

 しかしナポレオン戦争の後で、中空の砲弾の中に火薬を詰めた炸裂弾(グレネード弾、榴弾)が発明される。弾は着弾地点で爆発し、火災を起こす。もしくはパチンコ玉のような鉄球を大量に当たりにまき散らして人を殺傷する。水平射撃で的に直接当てるのでなく、弾道弾によってはるかに遠くの目標も破壊できるようになった。これに加えて砲身の内面に螺旋状の旋条を施した施条砲(ライフル砲)も投入されるようになる。1868年の上野戦争のときに使われたアームストロング砲も施条砲である。

 西欧が、産業革命の産物の一つとして近代兵器を生み出す前は、西欧は世界に対して絶対的な軍事的優位に立っていたわけではない。この頃西欧が植民地にしていたのはアメリカやアフリカなどの未開な地域だけである。中国、インド、トルコ、ペルシャなどのアジアの先進諸国と対等に戦う力はまだなかった。

 1840年の阿片戦争の時でさえ、イギリス軍と清軍の軍事力にはさほどの差はなかったはずだ。阿片戦争でイギリス軍が勝てたのは、戦艦に大砲を積んでいて、海上を神出鬼没に移動でき、敵の手薄な場所へ艦砲射撃して上陸拠点を確保できたためと、清国政府が沿岸都市部の被害を恐れたためだろう。

 しかし、1853年のペリー艦隊の来航、1857年のセポイの反乱、1858年以降のロシアの極東進出、1877年の露土戦争の頃になると西欧の絶対優位性はほぼ確立しており、従って後発のイタリアやドイツなども近代兵器をひっさげて植民地経営に乗り出していったというわけである。

 ソルフェリーノ戦はしたがって近代科学戦争の始まり、或いは近代兵器の実験場と言っても良く、西欧における近代兵器の見本市のような役割を果たした。

デーテ 6. イタリア統一戦争

 そもそもなぜイタリアで戦争が起きたかを説明しておこうか。

 近世、北イタリアの大半はオーストリアの支配下にあった。ミラノはスペイン継承戦争の頃からオーストリア領。そのまた東のロンバルディアやヴェネツィアもヴィーン会議によってオーストリア・ハンガリー帝国の一部に編入された。オーストリアはナポレオン戦争における最大の勝者だった。オーストリアが主宰国となり、踊っても進まぬ、と揶揄されたヴィーン会議は、ナポレオンのエルバ島脱出で一旦妥結され、ナポレオンが完全に失脚した後にヴィーン体制として確立する。

 トスカーナやモデナも元はといえばハプスブルク家の所領ではなかったのだが、欧州の王侯貴族はみな親戚で、カール大帝のフランク王国の時代から、いや、古代ゲルマンの部族制の頃から、王や公や伯らの継承権というのは土地の相続権なのであって、相続権さえあれば複数の領地や国を統治してもよい。つまり一般人が地主になるのと王が国を継承するのは同じ理屈なのだ。特にハプスブルク家は「戦争は他家に任せよ。幸せなオーストリアよ、汝は結婚せよ!軍神マルスが他家に土地を与え、しかるのちに女神ヴィーナスがそれを汝に手渡すだろう」などと言われるように、戦争よりも政略結婚が大好きで、しかも他家に所領をとられないように、いとこどうしの近親結婚が盛んだった。そうこうしているうちにヨーロッパの小さな共和国や辺境伯国などがいつのまにやらハプスブルク領になっていて、オーストリアは南ドイツのザルツブルクやティロル、北イタリアだけでなく、中欧のチェコ、バルカン半島やポーランドの一部など、ヨーロッパの諸民族を抱え込んだ大帝国に発展し、オーストリア大公は皇帝を称する。

 ヴィーン体制の下、オーストリアはその全盛期を迎えていた。オーストリアが旧神聖ローマ帝国領の諸国の盟主となり、プロイセン、バイエルン、ザクセン、ハノーファーなどを従えて、大ドイツ連邦を作ろう、などと言っていたのはこの頃のことだ。

 発端は1848年の欧州革命だった。パリでは復古王政が倒れ第2共和政となる。ヴィーンではハンガリーの叛乱がもとでヴィーン体制の主役・オーストリア宰相メッテルニヒが失脚する。30年間続いたヴィーン体制の崩壊だ。

 これは、それまでの中産階級や知識人が起こした革命ではなくて、歴史上初めての、無産階級による赤色革命だった。マルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』が出たのもこの年だ。産業革命が労働者階級を生み出し、国民の多数勢力となった彼らが、諸侯や領主たちによって形成された古き良きヨーロッパ社会を揺さぶった。

 欧州の諸侯・領主たちは相変わらず、陣取り合戦のような小競り合いを繰り返していた。しかしナポレオン戦争以来、民族主義に目覚めた民衆は、欧州が一部の王族の恣意によって支配されるという構図に我慢ができなくなり、各地で憲法制定や国民議会の開催を要望する革命が起きる。君主や貴族らは危険を避けるため、一時的に避難・亡命したりした。

 ロンバルディアの市民はオーストリアの支配から脱すべく、フランスやドイツに起きた革命に乗じて蜂起し、オーストリア軍を追い払った。このためロンバルディアの西隣に位置するピエモンテも否応無しに戦乱に巻き込まれる。この国は古くはピエモンテ公国と呼ばれていたが、サヴォイア公が隣接するピエモンテとジェノヴァ、地中海のサルディーニャ王国をも支配するようになり、公国と王国では王国の方が格上なので、サルディーニャ王国と総称されることが多いが、領主は昔ながらにサヴォイア公と呼ばれることが多く、しかも王国の中心地は首都トリノがあるピエモンテである。ニースもサヴォイア公が領有していたわけだ。ややこしいな(※5)。

 サヴォイア公カルロ・アルベルトはミラノとヴェネツィアに蜂起した叛乱軍に呼応してオーストリアに宣戦布告、ミラノに入る。ヴェネツィアは再びヴェネト共和国として独立を宣言した。南イタリアの両シチリア王国でも新憲法が制定され王フェルディナンド2世は革命勢力に譲歩する。人民らは、この機に乗じて、イタリア半島におけるハプスブルク家による支配を払拭しようとした。

  しかしながらイタリアの、いやヨーロッパの宗教的中心ローマでは、教皇ピウス九世自身が封建領主の一員であって、イタリアに民族主義に基づく統一国家が出現するよりも、従来通り、欧州諸侯の力の均衡の上に自己の存続を望む。

 当時のイタリアというのは、真ん中が教皇領、パルマと南イタリアがブルボン家、北イタリアをハプスブルク家とサヴォイア家が領有していた。ハプスブルク家はヴィーンから教皇領の北隣まで地続きにつながっていた。ブルボン家はもとはフランスが本場だったのだが、本家は途絶えて、その代わりにスペインや南イタリア、シチリアなどで繁栄していた。教皇はそうした王族らによるイタリア支配を支持したため、ローマ市民もまた蜂起し、教皇は一時ローマを脱出しローマには共和国政府が作られる。

 イタリアというところは、特に南イタリアでは昔から、秘密結社が盛んなところで、マフィアとかコーザ・ノストラなどと呼ばれるが、それが政治運動と結びついて「カルボナリ党」や「青年イタリア党」などとなる。それらと、ピエモンテ軍や両シチリア王軍、ヴェネト共和国軍などのイタリア人民連合は、しかし、オーストリア帝国ラデツキー元帥によって各個撃破された。その盟主たるべきカルロ・アルベルトが共和派らとの共闘を嫌ったためとも言われている。カルロ・アルベルトはミラノを脱出し、トリノに退却した。態勢を立て直して挑んだノヴァーラの戦いでも完敗し、一挙に失望感が広がる。 フランスも教皇支持に回る。両シチリア王国では王が議会や革新勢力を弾圧して、教皇をガエータ要塞に保護する。ヴェネト共和国も頓挫する。サヴォイア公カルロ・アルベルトは完全にハシゴを外された形になる。

  ちなみに、当時すでにオーストリア軍の中将だったギュライはヴェネト方面でイタリア連合軍防衛に当たっていた。彼にめだった戦果はない。ハンガリーに代々続く軍人の家系の出のため、昇進は早かったが、元来地味で慎重な性格なのだろう。

  カルロ・アルベルトは王位を長男のヴィットーリオ・エマヌエーレに譲って、亡命先のポルトガルでまもなく死ぬ。敗戦に塗れたピエモンテもまた共和国になる瀬戸際だったが、ヴィットーリオ・エマヌエーレはその危難に耐える。ヴィーン体制は崩壊したが、オーストリアは依然として精強だった。

 戦後、ピエモンテ議会の長老議員たちは一人の聡明な青年貴族を宰相に推挙する。カヴールの領主ベンゾ家の次男カミッロ、若干42歳。プロイセン王国の鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクと並び称されることとなるカヴール伯カミッロ・ベンゾがいきなり歴史の表舞台に引っ張り出されたのはこのときだ。

 伝統的に欧州貴族は長男が家督を継ぐ。次男以降は軍人や教師、僧侶などになる。カミッロもまた、将来軍人となるべくトリノの士官学校に入れられる。しかし彼は戦争よりも学問、特に数学が好きだった。士官学校では自由に学問に励むことが禁じられていた。読んでもよい書物も限られていた。そのためカミッロは処罰を受けたこともある。彼は技術にたけていたので、工兵部隊に入れられた。

 サヴォイア公カルロ・アルベルトもその先代のカルロ・フェリーチェも、お世辞にも開明的な君主とはいえなかった。敬虔なカトリック信者で、青年イタリア党も弾圧された。カミッロは堅苦しいカトリックの教義と窮屈な軍隊生活を嫌い職を辞す。その後欧州各地を転々とし、イタリアの領主としては初めて化学肥料を使ったり、ピエモンテ農学会を設立したりした。彼はまた蒸気機関の普及にも貢献する。

 カミッロはまた、1847年トリノで「リソルジメント( Il resorgimento; 復活)」という日刊紙を発行する。リソルジメント編集長のカミッロはカルロ・アルベルトに対し憲法の制定を呼びかけ、また、革命中の選挙でカミッロはピエモンテ議員に当選する。議会が解散すると彼は一旦議席を失うが、ノヴァーラの敗戦後行われた選挙で再びカミッロが議会に戻ってくると、彼は農政さらに財務大臣に抜擢される。彼は国力を増強するのに科学技術が不可欠であると確信していた。彼がこれらの大臣を歴任した時代にピエモンテの鉄道網は急速に発達する。

 ヴィットーリオ・エマヌエーレは、カミッロを嫌った。リベラルすぎる。王党派でも教皇派でもない。近代科学を過信し、伝統や宗教を軽んじていると。

 しかし長老らは言った。

 我々にはもはやピエモンテ議会をたばねていく力がありません。新しい時代は、新しい世代の手にゆだねねばならないのです。

 カミッロはリベラルとはいえ貴族です。今この国歩艱難のときに、国内の保守・革新両勢力をまとめられるのは彼しかいません、貴族の中に彼ほど広い見識を持ち、指導力をそなえた政治家はおりません。王よ、今こそ、イタリアでも、フランスで既に起きたような近代化や民主化が進行するものと覚悟をお決めにならねばなりません。時流に積極的に身を投じて、ピエモンテが常にそのイニシアティブを取って、イタリアの盟主となってこそ、王としての地位を保てるとお考えください。ピエモンテをイタリアで最も進歩的な国とし、王はイタリアで最も目の開けた君主にならねばなりません。ピエモンテは中世的封建国家から近代的中央集権国家に脱皮しなくてはならないときにきております。その任務に耐える宰相たり得るのはカミッロしかおりません、と。

 王はしぶしぶカミッロを宰相に任命した。いわずとしれたカヴール閣下、イタリア統一のために神が地上に遣わした男、である。「リソルジメント」はそのままイタリア統一運動を指す言葉となる。

 宰相カヴールは、ピエモンテだけでオーストリアを撃退することはできないし、イタリア伝統の秘密結社を政治的に組織して武装蜂起させても役には立たない、と考えていた。

 カヴールは、ともかくも、イギリスとフランス、この二つの先進大国の協力と賛同が得られねばならない、それ以外にイタリア統一は成らない、王ヴィットーリオ・エマヌエーレの意見を容れて、積極的にそう考えるようになった。もともとカヴールは、イタリアのことはイタリア人だけで解決したかった。わざわざイギリスやフランスなどの列強の干渉を招きたくない。リスクの大きな、外科手術のようなものだ。イギリスはロシアを討ち、トルコを救うために欧州諸国に参戦を呼びかける。ピエモンテでこれに応じたのは、カヴールではなく王であった。

 イギリスには、クリミア戦争に参戦することで恩を売った。日の沈まぬ世界帝国イギリスにしてみれば、小国ピエモンテに加勢されたからといって、大してありがたくはなかったろう。が、ピエモンテ軍は思いの外、善戦する。少なくとも足手まといにはならなかった。積極的な支援は望めないかもしれないが、一応味方にはついてくれそうだ。

 一方フランスだが、革命後神輿に担がれて政権を握ったナポレオンの甥ルイ・ナポレオンがローマに進駐してイタリアの統一運動を潰す。王政であろうと共和政であろうとフランスは伝統的にカトリック大国であり、教皇派なのだ。ルイ・ナポレオンはついに帝位についてナポレオン3世となった。ボナパルティズムの復活、フランス第2帝政だ。皇帝ナポレオン3世は叔父の時代にピエモンテから奪って、奪い返された失地ニース、サヴォイアを回復したがった。

 ナポレオン3世がパリで主催したクリミア戦争の講和会議以降、カヴールはナポレオン3世と秘密の駆け引きを繰り広げる。プロイセンのラインラント州に隣接するフランス東部ロレーヌ州(後に普仏戦争でプロイセンに割譲され、ロートリンゲン州となる)にある湯治場プロンビエールで行われた密約もその一つであった。

 ピエモンテはフランスにニースとサヴォイアを割譲する。その代わり、フランスは、ピエモンテがロンバルディアとヴェネツィアからオーストリアを追い出す戦争に協力する。ピエモンテがオーストリアを挑発し、オーストリアが誘いに乗ってピエモンテに侵入したら、フランスも参戦する。

 ヴィットーリオ・エマヌエーレの娘マリア・クロティルデと、ナポレオン3世の従弟でナポレオン1世の弟の子ナポレオン・ジェローム(ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト)の婚姻の約束も含まれていたが、これはオーストリアを露骨に警戒させた。

 カヴールはオーストリア支配から脱した暁に、「イタリア連邦」とでも言うべきものを構想していた。北イタリアとサルディーニャ島はサヴォイア家が。その南にはボナパルト家が。その南には教皇領。さらにその南にはブルボン家の両シチリア王国。カヴールは当初、これら四つの国の連邦という形で、イタリア統一を成し遂げようと考えていたのだ。

 両シチリア王国とは教皇領より南のナポリ王国とシチリア島のシチリア王国を、ナポリの王宮にいるブルボン家の王が支配していたので、合わせて両シチリア王国、と呼ぶのである。このサヴォイア家とブルボン家が実質的なイタリアの盟主となるであろう。カヴールは当然両シチリア王国のブルボン家の協力を期待する。この機会に両シチリア王国も立憲君主制に移行すればよい。ピエモンテ与党第一党の首班として宰相となったカヴールにはそれが一番好都合でかつ近道に思えた。俺にもそれが一番の理想型だったように、今でも思う。

 しかし両シチリア王国の君主フランチェスコ2世の動きはにぶかった。急激な世の中の動きに乗り切れず、呆然として路傍にたたずむ人のようであった。地中海のど真ん中という、重要な場所にいたのにもかかわらず。

 カヴールは徹底的な国内の改革を断行する。王や僧侶らの反発をねじふせて修道院を解散しその領地を国有化する。一方で彼は共和主義者を抑え、普通選挙や自由貿易を制限した、立憲君主制の中央集権国家を目指す。

 あなた方は、そんないくじのないことで、オーストリアに勝てると思っているのですか、ノヴァーラの雪辱を晴らすことができると、思っているのですか、イタリア統一の大業を成就できるとお考えなのですか。それほどに自治や伝統が大切なのですか、と言ってね。そう、かのビスマルクのように果敢に改革を進めたんだ。

 ポー川下流のミラノやロンバルディアはアルプスの雪解け水が潤す沃穣の地であり、特に米がばんばん獲れる。また、ヴェネツィアは今も海運業が盛んで、その海軍力も衰えていない。また北イタリアは人民も勤勉で生産性も高い。イタリア近代工業は北イタリアのピエモンテ、モデナ、ミラノ、ボローニャが先導していた。北イタリアを押さえるということは、イタリア産業をほぼ手中に収めることに等しいのだ。寒冷で日照の少ないオーストリアやハンガリーなどを治めるハプスブルク家としても、農業に適したロンバルディアを、おいそれと手放すわけにはいかない。

 ピエモンテ政府は兵を募り、ミラノの南にポー川を挟んで隣接するモデナ公国やトスカーナ大公国の民衆を扇動する。たまらずハプスブルク家の領主はヴィーンに亡命する。オーストリアは最後通牒を送りつける。これ以上、挑発を続ければ、戦争だ、ただちに武装解除し、モデナとトスカーナから手を引けと。その上、フランスとピエモンテの間で調印されたプロンビエールの密約は事前に漏れており、イギリス、ロシアなどの反対でナポレオン3世は弱腰になっていた。しかし、小国ピエモンテは強硬姿勢を変えない。イタリア人民は、いよいよ祖国を統一する好機だと勇み立つ。イタリアは今や煮え立つ鼎のように熱狂していた。かつて大ナポレオンの力を借りて、イタリアが一時的に統一されたことがあった。今度は3度目の正直。対オーストリア戦に向けて、まさに、遺恨十年、一剣を磨いて来たのである。1859年の春のことだった。


※5 サヴォイア公、古くはサヴォイア伯の領土は、アルプスの西のはじ、レマン湖畔と、レマン湖に東から流れ込むローヌ川上流域の渓谷、そしてレマン湖から西へ流れ出すローヌ側下流域のシャンベリーやグルノーブルあたりまである。ここは現在のフランス領、もしくはフランス語圏のスイス領に相当する。サヴォイア伯は第1次十字軍の頃にトリノ辺境伯の娘と結婚し、ピエモンテ公を兼ねるようになる。つまりサヴォイア伯はもともとどちらかと言えばイタリア人ではなくてフランス人だったわけである。

サヴォイアは15世紀のブルゴーニュ戦争の過程で、ローヌ川上流域を失う。今のスイスのヴァレー州である。また16世紀の宗教改革ではジュネーヴとヴォー州を失う。これらスイスのレマン湖周辺の領土は二度と戻ってこなかった。

十八世紀にスペイン継承戦争に勝利したサヴォイアはシチリア島を手にしたが、これをサルディーニャ島と交換。サルディーニャ王を兼ねる。

イタリア統一戦争において、モデナ・トスカーナ・教皇領の併合をフランスに認めさせるため、先にプロンビエール条約に定めたように、フランスにサヴォイアやニースなどを割譲する。これによってサヴォイア公はほぼ完全にその故地サヴォイアを失った。

デーテ 5. マジェンタの戦い

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 おやおや、こりゃおかしなことになって来たぞ。どうも今夜このデーテという女には、彼女の叔父さんの霊が憑依しているらしい。昔のピエモンテの戦争の話を始めやがった。語り口からして、彼女自身が話しているとは、とても思えない。

 どれ、ピエモンテ産の冷えたワインで、ピエモンテ料理のバーニャカウダでも突きながら、ゆっくりと拝聴することにするか。なあ、君も食べたいだろう。

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 敵国オーストリアの元帥はミラノ総督のギュライ将軍。彼は、かの行進曲で有名なヨーゼフ・ラデツキーの後任だった。ラデツキーはハンガリーの没落貴族の息子で叩き上げの軍人。ナポレオン戦争の頃から従軍しており、イタリア独立の野望をくじき、九十歳過ぎまで現役だったが、やはりハンガリー人のフェレンツ・ギュライに、ミラノ総督を交代する。ギュライの父はナポレオン戦争時代に名を成した将軍であった。

 ギュライ軍はポー川の支流の一つ、国境のティチーノ川を渡り、ラデツキー将軍がピエモンテを破った戦いで有名な、ノヴァーラの街まで、すでに侵攻していた。

 俺が最初にやらされた仕事は、やはりポー川支流のセージア川の堤防に発破をかけて決壊させ、辺りの水田を水浸しにすることだった。それ以来俺はずっと工兵部隊にいた。俺が今も大工仕事などやっているのは、軍隊で土木や建築やらの仕事を覚えたおかげだ。

 4月終わりから5月にかけて、この時期ポー川の支流はアルプスの雪解け水でいずれもみなぎっていた。その上、ピエモンテに味方するかのように連日豪雨が続いた。おかげでギュライは数日間、ノヴァーラで足止めを食った。俺たちはそのすきにノヴァーラの対岸の町ヴェルチェッリに入ったが、やがてオーストリア軍が大挙してセージア川を渡ってきたので、ヴェルチェッリを放棄してポー川南岸のカザーレに移動した。

 俺たちは結局、目的地のアレッサンドリアまではいかず、ここ最前線カザーレでふんばることになった。カザーレは、別名セメントの都とも呼ばれるくらい、セメントだらけの近代的な要塞の町だ。かつてラデツキー将軍もこの町を落とすことはできなかった。ヴェルチェッリにオーストリア軍が進駐してきた。俺たちはさらにカザーレの堡塁をセメントでがちがちに固める作業にかかった。カザーレの西とピエモンテの首都トリノの東に、南のアペニン山脈からコブのようにつきだしたモンフェッラート丘陵地帯はセメントの大産地なのだよ。モンフェッラートを迂回して、ポー川はカザーレから北を流れてトリノに至る。俺たちは毎日モッコを担いで、ポー川の中州から砂を採ったり、モンフェッラート山からセメントを運び出したりと、さんざんこきつかわれてね。

 敵は、北イタリア一の大河、ポー川に懸かる橋を渡ろうとしたが、対岸はカザーレ要塞の真っ正面。集中砲撃を浴びてしまう、橋以外から渡河しようとしても何しろ川幅は広い。渡ったとしても、当時世界最大規模の星形要塞(※日本の五稜郭をさらに巨大にしたもの、と思えばよい)カザーレを落とすのは不可能に近い。カザーレとアレッサンドリアを無視して首都トリノへ向かえば、ミラノへの退路を断たれ、ピエモンテのど真ん中で孤立してしまうからね。結局ギュライはカザーレとアレッサンドリアを迂回しつつ東からじんわりとピエモンテ軍を包囲しはじめた。

 俺たち百人ばかりのスイス傭兵はまるごとピエモンテ軍に配属されたわけだが、このピエモンテ兵というのがカザーレに入ってみて知れたのだが、将官から歩兵まで合わせて総勢千人しかいない。たったこれだけであのオーストリア・ハンガリー大帝国に喧嘩を売ったのかと、俺はあきれかえった。総司令はエンリコ・チャルディーニ将軍。

 チャルデーニは生粋のピエモンテ人ではない。領主の家柄でも、軍人の子でもない。彼の父は土木工学の技術者だったそうだ。オーストリアと教皇領の緩衝地帯、モデナ公国の出身。とはいえ彼が生まれたとき、モデナはナポレオン帝国の衛星国になっていたんだが、その後ヴィーン体制期にはオーストリア・ハプスブルク家の分家がモデナを治めていた。それでチャルディーニは20歳まで医学を学んだが、革命やらなにやらの政情不安で亡命しそれから軍隊に身を投じた。というよりも土木や医療ができる彼のような理系の人材を今の軍隊が欲していたし、彼自身一番良い食い扶持だと思ったんだろうね。1848年、ノヴァーラの戦いでロンバルディア義勇軍を率い、以後、ピエモンテの軍属となり、途中からピエモンテも参戦したクリミア戦争で一躍頭角を現したのである。

 チャルディーニは絵に描いたようなおしゃれで陽気なイタリア男で、ある日俺たちスイス兵だけを集めて言った、

「やあ、諸君。はるばるスイスからようこそ。

 我がイタリアが誇る山海の珍味をみなさんに御賞味してもらいたいところだが、あいにく農夫は野良で塹壕を掘り、漁師は丘に上がって薬莢に火薬を詰めるのに忙しく、コックたちもピザのかまどじゃなくて溶鉱炉の番をしているもんでね。我が軍自慢の糧食をご堪能いただくこともできなくて残念だ、ははは。」

 ギャグをかましたつもりかもしれないが、無粋なスイス兵らはくすりとも笑わなかった。

 「さてと。オーストリア軍というのは数ばかり多いが、ただの野合(やごう)だ。ミラノ駐屯軍は指揮官だけがオーストリアやハンガリーの貴族の出身で、下士官はロンバルディアやヴェネツィアの領主、兵卒は地元の農民だ。たまたまオーストリアに支配されているから税を納め軍役に就いているだけで、だれもオーストリアのために死のうというやつはいない。ちょっと小ずるく立ち働いて、出世してやろうと考えている単なる寄り合い所帯。

 しかし我らピエモンテ兵は少数精鋭。ノヴァーラ、クリミアで実戦を経験したベテラン揃い。その上、小粒だがイタリア一の工業国ピエモンテと、図体ばかりでかくて旧態依然とした封建国家オーストリアとは近代兵力に雲泥の差がある。

 しかもまもなくフランス軍が隣のアレッサンドリア要塞に到着する。こちらはなんと五万人だ。その上、宰相カヴール閣下が練りに練った秘策がある。必ず勝てる戦だ。

 傭兵も勝ち戦に乗るか、負ける側につくかじゃあ、まるでうまみも違う。君たちは良いほうについたよ。」

 

 俺は、チャルディーニ将軍の話を、話半分に聞いた。フランス軍が来るかどうか、いつ来るかなんて重大な機密を、将軍が俺たち傭兵にぺらぺら話すはずがない。逆にこんな膠着状態が何週間も、或いは何ヶ月も続くのじゃなかろうかと思ってたところが、なんと、フランス皇帝ナポレオン3世が、実はもう昨日のうちにアレッサンドリアに入ったと聞いて、びっくり仰天した。なぜって、彼は5日前にはまだパリに居たのだから。

 ナポレオン3世は、ピエモンテに最後通牒が送られても、自国の陸軍司令部に武器弾薬や兵站の準備すら命じてなかった。最後通牒は4月23日、宣戦布告は4月29日、フランスがオーストリアに宣戦布告したのが5月3日、皇帝がパリを発ってイタリアへ向かったのが5月10日。アレッサンドリアに着いたのが14日のことだった。

 アレッサンドリアはジェノヴァの北、ピエモンテ州都トリノの東、ミラノの南西に位置し、トリノ、ノヴァーラに次いで、ピエモンテで三番目に大きな町だ。アレッサンドリアの郊外のマレンゴ村はナポレオン戦争時代の激戦地の一つ。かつてエジプト遠征から帰国したナポレオン・ボナパルトはクーデターを起こして第一統領となり、政権を掌握。片やオーストリア軍は、ナポレオンの留守中にマントヴァ・ミラノ・アレッサンドリア・ジェノヴァ・トリノを攻略。ロンバルディア・ピエモンテを完全に制圧し、さらにフランス本国へ侵攻しようとしていた。ナポレオンはオーストリア軍の退路を遮断すべく、レマン湖畔ジュネーヴに兵を集結し、ローヌ川上流の渓谷を抜け、グラン・サン・ベルナール峠を越えてミラノへ入城。ミラノ市民は、ナポレオンはすでにエジプトで戦死したと信じていた。市民たちはナポレオンを旧時代からの解放者としておおむね好意的に見ており、もろ手を挙げて開城し、ナポレオン軍を迎え入れた。敵の意表を衝いたナポレオンはモンテベッロでオーストリア軍を下し、さらにオーストリア軍が占拠していたアレッサンドリアに進軍中にマレンゴで両軍の全部隊が会戦。その結果、フランス軍が完勝したのだ。マレンゴは両軍が死力を尽くした、きわどい戦いだった。もしオーストリアが勝っていたら、北イタリアはまるごとオーストリア領となっていただろうね。

 ピエモンテは、イギリスやベルギーなどと比べれば遅れていたが、当時イタリアの中では最も早く鉄道が発達していた。ましてオーストリアよりはずっと進んでいた。ピエモンテは、オーストリアと戦端を開くより以前から、戦争にこれらの鉄道を利用する秘策を考えていた。前の国王カルロ・アルベルトの時代から国費を投じて、首都トリノからアレッサンドリアを経て地中海の港町ジェノヴァをつなぐ鉄道の建設を始める。ジェノヴァはずっと独立した共和国だったがナポレオン戦争の結果ピエモンテに併合されていた。アレッサンドリアからジェノヴァまでの区間には、イタリア半島を縦断するアペニン山脈の北端が延びている。ピエモンテは当時としては世界最長のトンネルをこの山脈に通して鉄道を開通させる。これによりピエモンテに一本の動脈が通った。後発ではあったが、ピエモンテは鉄道技術に自信を持った。

 さらに、トリノからサヴォイアとフランスの国境近くの町スーザまで、またアレッサンドリアからカザーレ、ヴェルチェッリ、ノヴァーラに至る鉄道を完成させる。スーザからフランス領までは、アルプス山脈が隔てており、当時の技術ではまだここに鉄道を通すことは不可能だった。

 ナポレオン3世はフランス南部の町リヨンに集結させていた軍を徒歩と馬車でアルプスのモン・スニ峠(※3)経由でサヴォイアのスーザに移動させた。スーザからアレッサンドリアまでは、鉄道で一日もかからずに兵士や物資を輸送することができる。

 フランスは必ずしも鉄道先進国ではなかったが、第二帝政開始とともに大投機時代に入り、1855年にはパリ=マルセイユ間が全線開通する。ナポレオン3世自身はパリからマルセイユまでを鉄道で、マルセイユからジェノヴァまでを船で、そしてジェノヴァからアレッサンドリアまでを鉄道で移動した。アレッサンドリアはピエモンテ領内の鉄道のジャンクションであり、故に連合軍の集結地点に選ばれたのだ。

 世界戦史にも類を見ない「鉄道を使った電撃戦」。それがピエモンテの宰相カヴールとナポレオン3世の間で、練りに練られた策戦だった。産業革命がもたらした歴史的な転換点の一つだったとも言える。

 

 チャルディーニ将軍は麾下の将兵を集めて言った、

 「ギュライは、フランス軍が海路マルセイユからトスカーナに上陸し、教皇領を保護し、それから内陸のモデナ、ロンバルディアへと侵攻してくるのだろうと考えていた。フランスはローマ教皇が大好きだ。ぜひとも自分の影響下に置きたい。かつ、フランス皇帝の甥がサヴォイア公の娘と結婚した上でモデナとトスカーナの君主になる、というもっぱらの噂だからだ。

 モデナ公とトスカーナ大公はオーストリアと同じハプスブルク家。彼らはフランスとピエモンテが扇動した暴動のため、すでにお里のヴィーンに逃げ帰っている。

 フランス軍は或いはジェノヴァに上陸するかアルプスを越えてくるのかもしれんが、どちらにせよ、イタリアまで来るにはだいぶ時間がかかるのに、パリの皇帝ボナパルトはのらりくらりしている。

 そこですばやく、ミラノに隣接し比較的手薄なピエモンテを威嚇し、サヴォイア公を屈服させ、フランス皇帝の介入を未然に防ごうと考えた。

 ところが、ナポレオン3世がいきなりピエモンテのど真ん中アレッサンドリアにいると知ったギュライはびっくりしたよな。ハンガリーはブダペスト生まれのフェレンツ・ギュライ伯。領主の家系でお父さんのイグナツ・ギュライも軍人、ラデツキー将軍の同輩で、ともにオスマン帝国や初代ナポレオン帝政と戦った。息子のフェレンツは1816年、17才で軍役に就いたが、彼の初陣は彼が49才の時、1848年の革命の時だったというから、ヨーロッパ全体が平和ぼけしてたヴィーン体制のまっただ中、ハプスブルク家の宮廷でのんきに出世して、老後にさしかかっていきなり実戦を経験したって人だな。

 彼は宿敵ボナパルトにどう立ち向かえばよかろうか、と考える。父イグナツなら、あるいはラデツキー将軍なら、どうしただろうか、と。さあ、諸君。君らがもし、ラデツキー将軍なら。或いはギュライ将軍なら。この局面でピエモンテをどう攻めるか。」

 最前列に居並ぶ青年将校の一人が言った。

「ミラノ駐屯軍全兵力5万をただちにアレッサンドリアに投入し、フランス本隊を叩きます。」

「なるほど。確かにそれが一番良い策だ。しかし、それはギュライが、フランス軍が実はまだ五千人しかピエモンテに着いてない、という情報をキャッチしていれば、の話だ。もしフランスがピエモンテ内の鉄道を駆使して兵を動員する、というところまで知っていたら、まず鉄道網を修復不能なまでに破壊するだろう。そして、断固としてアレッサンドリアへ進軍し、蟻の子も這い出ぬように包囲したら、ナポレオン三世は孤立無援、捕虜になるしかない。そしたら、たんまりと身代金を払ってパリへお帰り願うさ。しかし、帰ったところでもうパリにボナパルト君の居場所はなかろうね。

 ところが、ギュライには、フランス軍が5万人いるか10万人いるかも今の時点ではわからない。どういう仕掛けかしらぬが、フランス大陸軍(グラン・ダルメ)が突如、ミラノから指呼の間、ピエモンテはアレッサンドリアに出現したってわけだ。敵ながら見事な演出。初代ナポレオンの謳い文句「戦争の芸術」って言葉がギュライ頭によぎったろうね。ではどうするかね、中佐(ルーテナント)殿。」

 ピエモンテの中佐ということは、おそらくは貴族の子弟。中佐といえど、彼の若さで、千人しかいない国軍の中ではエリート中のエリートだろう。

 「ええっと。慎重に敵情を偵察し、ラデツキー将軍のように、弱いところを先に攻め、時間差で個別に撃破すると思います。」

 「その通り。10年前、ラデツキーは強かった。何故か。我々イタリア人民がばらばらだったからだ。バルカンでもポーランドでもティロルでも、ハンガリーでも、そしてイタリアでも、オーストリア帝国は、一箇所に味方兵力を集中し、敵には集まる時間を与えず、個別に攻略していく。

 つまり、ギュライ君がお馬鹿さんでなければ、ピエモンテ軍とフランス軍が集まる前に、一番弱い、千人しかいないピエモンテ軍を五万の兵で叩こうとするだろう。フランスのナポレオン親征軍はほっといて。しかし、それもどこにピエモンテがいてどこにフランスがいるか知っていればの話だ。戦場では悠長に偵察なんかしてるひまはない。実際戦ってみなければ敵情というものはわからぬものさ。だから、ギュライは我々連合軍の力量や構成を試すべく、初手は比較的少数の兵を繰り出し、弱いとみれば増援する。手強そうだと思えばミラノに籠城して、オーストリア本国の首都ヴィーンと、ハンガリーの首都ブダペストに駐屯する精鋭部隊がミラノ救援に到着するまで、一ヶ月ばかり持ちこたえようという戦略に切り替えるだろう。

 ギュライは、ナポレオン戦争時代に確立した、教科書的な戦い方しかできぬはずだ。一方我々は、クリミアで実証された最新の科学戦争をしかける。我々は10年前の我々ではない。ラデツキーの勝利しか知らぬオーストリアがどうでるか。みものだ。」

 チャルディーニが言った通りにギュライはモデナ・トスカーナ方面へ割いていた兵を呼び戻し、戦力をピエモンテ戦線に集中しつつ、兵を小出しにして我が方の当たりを探ってきた。アレッサンドリア東の村モンテベッロで戦闘が発生すると、オーストリア兵はフランス兵に榴弾の矢玉を雨あられと浴せられ、撃退された。あっぱれ皇帝直属の精鋭部隊。一応やる気満々。

 アレッサンドリアからフランス軍が、カザーレからは俺たちピエモンテ・スイス軍がそれぞれ打って出て、セージア川を渡り、ノヴァーラをめざす。10年前のノヴァーラの大敗こそは、ピエモンテの悪夢であった。王ヴィットーリオ・エマヌエーレが、トリノの王宮から、自ら近衛兵を連れて、我らチャルディーニ軍が露営するセージア河畔のパレストロ村までやってきた。国家の、サヴォイア家の存亡がかかっているのだ。王も気が気じゃあない。

 ギュライは、パレストロにいる我が部隊にも兵を差し向けた。とうとう敵にピエモンテ軍の本隊が捕捉されたわけだ。小生意気なピエモンテ兵め。とりあえずサヴォイア公以下ピエモンテ軍を血祭りに挙げれば、フランスはただの助っ人。後はどうとでも料理できよう。

 ところがまさにこのとき、アルプスのモン・スニ峠を越えてきたフランス軍本隊が、セージア川対岸に姿を現した。ぎりぎりのタイミング。ギュライ軍は動揺し、すごすごと撤退した。モンテベッロの戦いから10日後、ナポレオン3世到着から15日後、チャルディーニは宿縁の地ノヴァーラを回復する。彼の軍歴はここノヴァーラの敗戦から始まったのだ。しかし感傷に浸っているひまはない。いざ、ミラノへ。

 ギュライはティチーノ川を渡ってミラノ領内に後退。川に架かる橋を全て爆破させる。

 ティチーノ川は大河で、徒歩では渡河できない。ミラノは11の城門と9つの突角堡をもつ巨大な城塞都市。大河ティチーノ川を防衛線にし、その周辺の水郷の村落を要塞化して待ち構えれば、普通に考えて陥落するような街ではない。

 我々は壊れかけた橋を修繕し、また船を並べて浮き橋にしてミラノ領内へ侵攻する。

 ミラノ近郊で起きたマジェンタの戦いは、榴弾の戦い、でもあった。中世、黒色火薬の原料の一つ硝石は、厩肥から作られていた。要するに馬や牛の糞尿、藁、堆肥などから作られていたから、大量生産はできない。ところがスエズ運河が通ってからというもの、インドの鉱山から採れる硝石が安く大量に供給されるようになった。ジェノヴァには火薬工場や兵器廠が作られ、武器弾薬を鉄道で最前線のアレッサンドリアやノヴァーラに運ぶ。それまでの戦争を「馬糞戦争」と呼ぶならば、以後の戦争は「化学戦争」と言える。オーストリアはモンテベッロやマジェンタで、それまでの何十倍、何百倍もの榴弾を喰らった。数千人が榴弾の爆撃で死んだらしいよ。味方の被害も多かったんだが、この千人万人単位の傷病兵の救護ってのは、それまでの戦争の常識では、ありえなかったものだ。恐ろしいね、近代戦争というものは。

 いずれにせよ、勝利は勝利である。我々はマジェンタの勝利の余勢を駆ってミラノに入城する。俺たち連合軍は結局やっとミラノで全軍が集結したのだった。

 俺は、カザーレやアレッサンドリアの星形要塞の巨大さにも度肝を抜かれたが、このミラノのばかでかさと言ったら、もう比べものにもならない。

 1848年の革命以来、ミラノは再びイタリア人のものとなった。パリ市民は夜通し煌々と灯りを灯して浮かれ騒ぎ、共和国広場から北駅までに完成した新しい通りは「マジェンタ通り」と名付けられ、また発明されたばかりの化学染料にも「マジェンタ」の名が付けられた。

 一方、ミラノを追われた敗軍の将ギュライは更迭、ヴィーンに召還され、華やかな宮廷生活から一転、惨めな老後を送ることになる。オーストリアは代わりに皇帝フランツ・ヨーゼフ一世みずからロンバルディアに入った。

 緒戦における心理戦は、ナポレオン3世の大勝利だった。彼の叔父ナポレオン1世ボナパルトも実に無茶なやつだった。常識外れの戦い方をしてなぜか勝ってしまう。ギュライやオーストリア兵がそんな初代ナポレオンの亡霊を彼の甥に見て恐慌状態に陥ったのは、ある意味仕方ないかもしれん。また、ナポレオン3世が叔父にならって無茶な戦い方をしたのも、やはりある意味必然だった。嫌でも彼の叔父の代役を演じるしかなかったのだろう、彼自身に特別な才能はなかったのだから、強引で無茶な叔父のイメージを利用せざるを得ない。

 鉄道を兵站に利用することは、ほんの5年前、クリミア戦争で初めて試みられた。ロシアのセバストポリ軍港の背後に位置するバラクラヴァ湾を奪取したイギリス他の連合軍は、セバストポリとバラクラヴァの間にある丘の上まで、約7週間で11kmの複線の鉄道を敷設し、バラクラヴァから兵士や物資を運んだのである。これによってセバストポリ要塞はたまらず陥落した。ピエモンテとフランスはイギリスの側で派兵したのだが、このときクリミア半島で補給に使われた鉄道を見て、今回のアイディアを思いついたのかもしれない。

 アメリカのリンカーン大統領は、これらの近代戦を研究し、鉄道や電信などの最新技術を駆使して、軍隊を戦略拠点に迅速に移動させることが、決定的に重要な意味を持つことを見出し、アメリカ全土に鉄道網や電信網を張り巡らして、北軍を勝利に導いたのである。プロイセンのビスマルクも、普墺戦争や普仏戦争でその戦略を踏襲した。


※3 この峠はおそらく古代ローマ時代にハンニバルがアルプス越えしたルートである。或いは、越えた可能性のある峠の中でも、最もありえそうな峠の一つである。

1868年には、この峠を越えて、フランス側のモーリエンヌと、イタリア側のスーザまで、モン・スニ峠鉄道が開通する。このころには統一イタリアによってスーザから南イタリアのブリンディシまで鉄道が通っており、またフランス国内もカレーからモーリエンヌまで鉄道が通っていた。インドを獲得しスエズ運河を開通させたイギリスは、モン・スニ峠に鉄道を敷設する会社を設立する。1871年にはアルプス初のフレジュス鉄道トンネルが開通することによってモン・スニ鉄道は廃止される。

デーテ 4. 叔父の戦陣訓

 身を持ち崩してから、父さんは生活もままならないから、ご先祖様が傭兵で立身出世したということもあると思うけど、もう一度家をもり立てようと、兼ねてから計画していた通りに、今度は自分から州兵に志願して、ピエモンテの外人部隊に加わった。父さんは夜寝る時に、僕に戦陣訓を語って聞かせたものだった。

 

***

 

 おまえもいずれ、我がスイスの一兵士として戦場に立つこともあろうから、今から覚悟して、良く聞いておけ。

 決して他人事ではないのだ。

 我がスイスは小国、欧州の真ん中に位置する小さな自治州の寄り合い所帯、常に大国間のパワーポリティクスの犠牲になってきた。しょせんアルプスの天険も我々を守ってはくれぬ。戦乱を避けることはおろか、独立を保つことすら、常にあやうい。スイスはもともと自治州が同盟を結んで神聖ローマ帝国、つまりハプスブルク家から独立して出来た国だ。ヴィルヘルム・テルの話はおまえも知っているだろう。自分の息子の頭に乗せたリンゴを射ることができたら罪を許そうと、オーストリア人の代官に命令されて見事一発で射抜いた。テルは、スイス独立初期の伝説的英雄なのだ(※1)。

 独立によって神聖ローマ皇帝の命令でスイス兵が戦争に駆り出されることはなくなったけれども、他の大国、特にフランスから傭兵を貸してくれと言われれば、断り切れないいろいろな事情があるのだ。またスイスは貧乏な山国だったから、獣らといっしょに原野に育ち、忍耐強く頑健な男共は、外貨獲得のために傭兵になることが多かった。

 我がスイスは、ヨーロッパのいろんな戦争に巻き込まれて、特にフランスとオーストリアという大国の板挟みにあって、スイス兵は立場の弱い傭兵なものだから、いつも最前線の危険な軍務に従事させられる。

 ルイ14世の頃に欧州全土を巻き込んだ一連の戦争(※2)では、一度に4万人以上のスイス傭兵が敵味方に分かれて戦った。フランス革命の時、テュイルリー宮殿を護衛していて、ルイ16世に見捨てられて民衆に虐殺されたのも、スイスの傭兵だった。ナポレオンがモスクワ遠征から逃げ帰るときに、殿軍(しんがり)を任されてほとんど全滅しかけたのも、スイス兵だった。

 そうやって国際政治にブンブン振り回されて、スイス傭兵があっちこっちに引っ張り出されては悲劇的な戦死を遂げたものだから、初代のナポレオン・ボナパルトが失脚したときに、ヴィーン会議で我がスイスは永世中立国となったのだがな。しかし、ヴィーン体制もまたわがスイスをうまく利用しようとしただけだった。そういう長年の血なまぐさい歴史の結果、今やスイスでは国外への傭兵派遣をほとんど完全に廃止しようとしている。少なくとも州単位での傭兵派遣はもはや禁じられた。

 俺が従軍した戦いは主に4つ。最初の2つはオーストリア軍との戦いで、1つはマジェンタの戦い、もう1つは最大の激戦だったソルフェリーノの戦いだ。3つめは教皇軍とのカステルフィダルドの戦い、最後は両シチリア王国の残党たちの掃討戦だ。1859年早々、俺たちが所属していたスイス連邦部隊は、まだアルプス連峰が氷に閉ざされている頃合いに、ピエモンテでフランス軍に合流しそのまま戦闘に加わり、延々1861年の3月末まで、いわゆるイタリア統一戦争と呼ばれる戦争の全期間に渡って俺は従軍したわけだ。

 俺はまずグラウビュンデン州で志願して、予備役として登録された。州都クールの庁舎の役人の言うことには、「10年前の欧州全土をゆさぶった革命以来、どこの国の政情も極めて不安定だ。イタリア方面ではピエモンテが盛んにオーストリアを挑発し、フランスが介入すれば今度はプロイセンが黙ってはいない。そうなればイギリス、スペイン、ロシアも巻き込まれて、ナポレオン戦争のときのような欧州大戦に発展するかもしれない。いずれにせよ傭兵の出番はこれからいくらでもあるだろう、」と。

 それで日雇い人足の仕事などしながら待機していたが、1週間もしないうちに出頭命令があって、「とうとうオーストリアがピエモンテに宣戦布告して交戦状態に入った。フランスは自動的にピエモンテの側に立ってオーストリアに宣戦布告する。ついては、報酬は望み通りにはずむので、ピエモンテに速やかに大軍を投入してもらいたい、スイス連邦軍の精鋭をできるだけたくさん、ピエモンテ州のアレッサンドリアに派遣するように、」そう要請されたそうだ。そこで俺はまずピエモンテ軍所属の傭兵として、イタリアに行くことになった。

 グラウビュンデンから南へ、残雪を踏みしめてサン・ベルナルディーノ峠を越え、マッジョーレ湖の上流、ティチーノ州に入る。そのまま下ると敵国オーストリアが支配するミラノだ。アレッサンドリアに行くにはミラノを迂回しなくてはならないが、すでにミラノからオーストリア軍がティチーノ川を越えてピエモンテ領内に侵入していた。いきなり戦闘の最前線を通り抜ける形になった。


※1 スイス独立は1291年。当時、神聖ローマ帝国は、大空位時代 (1254 ― 1273) の直後で、この権力の空白期間に、スイス出身のハプスブルク家が神聖ローマ帝国全土に影響力を及ぼすようになり、次第にハプスブルク家のオーストリア大公が神聖ローマ皇帝を世襲するようになる。同郷ハプスブルク家の支配を嫌ったスイスのいくつかの州が自治権を守るために連盟したのがスイスの始まり。ヴィルヘルム・テルがオーストリアの代官を射殺したのは1307年と言われる。

※2 ルイ14世(在位1643―1715)の時代には、ネーデルラント(1667―1668)、プファルツ選帝候領(1688―1697)、そしてスペイン(1701―1714)の継承戦争が起きた。ネーデルラント継承戦争は、スペイン王女マリー・ルイーズがルイ14世の王妃となるときに持参金を支払わなかったために、マリー・ルイーズの王位継承権は放棄されていない、つまりフランス王妃が南ネーデルラント(ベルギー)女王に即位できるはずだ、というルイ14世の主張で起きた。すでにスペインから独立し共和国となっていた北ネーデルラント(オランダ)はフランスの領土拡張を脅威とし、イギリス、スウェーデンと同盟してフランスを南ネーデルラントから退けたが、その報復にルイ14世は逆にイギリスとスウェーデンを味方につけてネーデルラント侵略戦争 (1672―1678) を起こす。ネーデルラント共和国はオーストリアとスペインに援助を求めて対抗した。プファルツ選帝候領継承戦争は、ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世の妃エリザベート・シャルロットがプファルツ選帝侯カール2世の娘であったため継承権を主張した。スペイン継承戦争はスペイン・ハプスブルク家が断絶し、ルイ14世の孫アンジュー公フィリップがマリー・ルイーズの長男の次男であったために、スペイン王を相続してフェリペ五世となったが、これに反対したオランダ、オーストリアが宣戦したというもの。なおスペイン・ブルボン家は現在までスペイン王家として存続している。

デーテ 3. 叔父の放蕩

 アルムおじさんはもともとずいぶん身勝手で気むずかしく、近所づきあいも苦手だし、滅多に教会に礼拝にも来なかった。トビアスが死んでからというもの、

 「放蕩暮らしの罪でとうとう神がおじさんを罰した。」

と村中の顰蹙(ひんしゅく)を買い、牧師さんにも

 「悔い改めて正しい生活をしなさい。日曜日にはきちんと教会に来なさい。」

と説教されたのだけど、逆に腹を立て意固地になって、山の上の炭焼き小屋みたいなところに引きこもったっきりになってしまった。村には滅多に下りてこないし、それでみんなおじさんのことをアルムおじさんって呼ぶようになったのよ。下りてきても、太い丸木の杖をついて、まゆげは眉間で1本につながってもじゃもじゃで、鬼のような形相で子供たちは怖がるし。挨拶もせずに山羊のチーズや手作りの家具を売って代わりにパンや服を買って帰っていくだけ。

 おじさんは、年も年だし、息子たちと村で静かに余生をおくるつもりだったのに、そのたった1人の息子も死んでしまって、俗世のことが何もかも嫌になってしまったのかもね。

 アルムおじさんときたら聖書に出てくる放蕩息子そのまんまでね。

 まだトビアスが生きていた頃、彼はよく言っていたわ。

 

**

 

 僕の父さんの故郷のドムレシュクは、グラウビュンデンの中でも1番の山奥だ。標高も高いからマイエンフェルトなんかよりずっと気温も低く、春が来るのも余計に遅い。秋はなくていきなり北風が吹いて雪が積もり冬が来る。

 ドムレシュクはライン川の一支流が流れ出る狭い渓谷にある。その渓谷を南にさかのぼればサン・ベルナルディーノ峠。そこから先はスイスでもイタリア語を話すティチーノ州があり、さらにアルプスを南に降りていけばロンバルディアの沃野。ミラノの町へと続いている。逆にライン川を北へとくだっていけば、グラウビュンデンの州都クールを経て、マイエンフェルトまでたどり着くってわけだ。まあしかし、よそからみればドムレシュクだろうとマイエンフェルトだろうととんでもない山村に違いない。僕は子供の頃はずっとアルプスを知らずに育った。ドムレシュクには、イタリアから帰ってきてわずかの間滞在しただけだ。

 ドムレシュクはほとんどがアルムだ。農地らしき土地は、川沿いにちょっとしかないがね、しかし、うちはもともとドムレシュクでは一番大きな農場を持つ家だったのさ。昔、ご先祖様が、ナポレオン戦争の頃に、たいへんな武勲を立ててね。君、知ってるかい、フランス革命政府はヨーロッパの伝統的な秩序を破壊するものだったから、イギリス、ロシア、プロイセン、スペインなどの大国がフランスに干渉してきた。オーストリアもそういう当時の欧州列強の一つ。何しろルイ16世の后のマリー・アントワネットはオーストリア大公の娘だもんな。そういうフランス王族を革命政府はばんばんギロチン台に送ったんだ。そこでオーストリアはフランス革命政府に宣戦布告したわけさ。

 革命政府はフランスに侵攻してくるオーストリア軍を迎え撃つために、砲兵士官の経験しかない若干27歳のナポレオンをイタリア方面軍の司令官に抜擢した。

 イタリア方面軍は、フランス国境のピエモンテがミラノのオーストリア軍と同盟して、フランスに侵攻しようとしたために、フランス防衛とオーストリアの陽動のために割かれたもので、オーストリア征伐軍の主力はライン川を越え、バイエルン王国をよぎってヴィーンを直接目指していた。イタリア方面軍は長年ジェノヴァの山中に立てこもったきりで、フランス一の貧乏部隊と言われた。ナポレオンには大して戦果は期待されていなかったが、彼はたちまちにしてサルディーニャやピエモンテを治めるサヴォイア公を友軍に寝返らせ、ロンバルディアの要衝・マントヴァ要塞を陥落させてオーストリア領だったミラノに入城する。さらにティロルを越えてオーストリア討伐軍と合流してヴィーンへ迫る。当時の欧州戦史では予想だにされないほどの大勝利で、フランス革命はナポレオン率いるイタリア方面軍の働きによって最終的に成就したと言っても良い。オーストリアは屈服し、ロンバルディアはチザルピーナ共和国というフランスの衛星国となった。その代わり千年もの間自治独立を謳歌した「もっとも高貴なる共和国ヴェネツィア」は、戦乱の巻き添えを食って滅び、ナポレオン没落後にも復活せず、オーストリアに併合されてしまった。

 我がスイスは、フランス革命政府に占領され、フランスを宗主国とするヘルヴェティア共和国という中央集権国家にさせられて、領土も一部フランスに割譲されてしまった。うちのご先祖様はそのヘルヴェティア共和国軍の一兵卒からフランス軍の傭兵隊長になってね。エジプト遠征に従軍したり、大統領となったナポレオン軍のアルプス越えにも参加したりしたんだ。アルプスの行軍中は道先案内役も務めてね。そのとき、ご褒美の財宝だのたくさんもらって、故郷のドムレシュクに凱旋。広い農園を手に入れてね。大きなお屋敷を建てて、たくさん使用人も雇って、家畜もたくさん飼って。

 父さんはそんな家の跡取り息子だったらしい。でも、何不自由なく育って、急に大きな財産を相続したものだから、お金の使い道もよく分からない。何しろ小さな村の大地主だからね。井の中の蛙、怖い者知らずだったのさ。

 時代は変わって、ナポレオンが失脚するとヨーロッパ全体がアンシャン・レジームに復し、スイスもまた独立州の連盟体に戻った。父さんは、グラウビュンデン州の成年男子の義務として、やはり軍役に取られていたのだけど、それが明けて故郷に帰還してくると、今、世の中は産業革命で、どんどん変わっているんだ、こんな山奥の田舎の村でくすぶっちゃいられないと、実家の資産を元手になにやら大きな商売を始めようとした。あちこち、視察と称して物見遊山して回ったり。軍隊で知り合った、どこの馬の骨ともしれない連中とつきあったりして、ほとんど博打に近い事業に投資して、ものの見事に大失敗だよ。金儲けや世渡りの才能も、人を見る目もまるでなかったようだ。それでほとんど財産をすってしまう。

 おかしな借金取りみたいな連中に追い回され、借金が返せなくて家屋敷や農園をみんな取られて、ふてくされて博打や遊興にうつつを抜かし、ますますおちぶれていった。あれはきっと、金持ちの世間知らずのボンボンだからと悪いやつに目をつけられて、うまい話でつられて金をだまし取られたようなものだなあ。で、だまし取られたものは今度はだまして取り返してやろうなんて、いやしい性根になってしまい、人相もだんだんに変わっていって、やくざものみたいになってね。毎日、居酒屋に入り浸っては、亭主に安酒を値切って飲んだりして、そんな若い頃の父さんの話をドムレシュクのひとたちから聞かされるたび、僕は恥ずかしいやらはがゆいやらでたまらない。

 父さんの両親、つまり僕の祖父母は愛想をつかして次々に他界してしまった。父さんには弟が1人いて、親に大学まで行かせてもらった、勉強好きの学士様だったそうだけど、父さんは彼、つまり僕の叔父を口説いたそうだ、いっしょに傭兵になって、ご先祖様のように戦功を樹てて、もう一度大金持ちになって、失った農園も買い戻して、またおもしろおかしく暮らそうぜって。でも叔父は兵役を嫌がって、金目のものをあらかた持ち出して、どこかにぷいっといなくなってしまった。風の噂ではアメリカに渡ってけっこうな実業家になったとかならないとか。

 父さんは他人にもだまされ、身内にも裏切られて、すっかり落胆してしまった。父さんが人間不信になったのは、きっとそのころからだ。

 不運が重なって、周囲で支えてくれる人にも恵まれなかったんだろうね。どこをどう間違ったのか、汗水流して働かなくても良い身分の、お金持ちの息子だったのに、一家離散の憂き目に遭ってしまった。

デーテ 2. 姉夫婦と遺された姪

 姉のアーデルハイトの夫、つまり私の義理の兄だったトビアスという人は、生まれも育ちも、よく分からないひとなの。

 私がまだ子供の頃、トビアスは、流れ者のアルムおじさんに連れられて、デルフリに住み着いた。

 アルムおじさんというのは、トビアスの実の父で、つまり私の義理の叔父なのだけど、村では皆がそうあだ名で呼ぶの。お察しの通り、アルムに住み着いて、なかなか里には下りて来ないからなのだけど。

 デルフリという村は、アルプスの豪雪を避けるように、山の渓谷のくぼみにへばりついて、ぽつんと取り残されたような、ほんとうに小さな田舎の村なので、村人みんなが親戚のようなものなのよ。デルフリの村人たちはみんな似たり寄ったりの私たちのように貧しい暮らしぶりで、親戚知人どうしお互いに助けあい、なんとかやりくりして、つつましく暮らしていた。母とアルムおじさんはドムレシュクの出身で同郷だし、母のおばあさんがアルムおじさんのおばあさんのいとこだから、たぶん私の母方の縁を頼って、おじさんはデルフリに居着くことにしたんじゃないかしら。私の父方は代々デルフリの家系なのだけど。デルフリではみんながアルムおじさんを、アルムに登ったきりになる前はただ「おじさん」って呼んでいた。

 アルムおじさんにトビアスという子供がいるということは、その母親もいなきゃおかしいわけだけど、おじさんは決して自分のおかみさんの話には触れようとしなかったし、トビアスも自分の母親のことは、あんまり覚えていないようだった。

 デルフリに来た頃から、おじさんは髪の毛も髭も生やし放題の山賊みたいなかっこうで、村の中でも特に偏屈で愛想の無い人だったけど、トビアスは優しくて明るい性格だったから、すぐにデルフリの子供たちの中にとけこんでいった。私たち姉妹や、幼なじみの女の子ブリギッテや、お調子者の男の子のペーター、パン屋の息子なんかは、年も近く気も合ったから、いつもつるんで、野山で楽しく遊び回ったり、長い冬の間は学校で一緒に勉強したりした。

 私たちが村の学校を卒業すると、女はすぐに働き始めて、男は州兵に取られるのだけど、その兵役も、普通は1年、長くて2年で終わるわ。でもそのあと、おじさんは、トビアスをそのまま軍隊に残して、彼を傭兵にしようとしたのよ。姉のアーデルハイトは、とても悲しんでね。トビアスと姉は、ずっと前から恋人どうしで、もう公然とつきあい始めていてね。おじさんに泣いて頼んだのよ。トビアスを兵隊に取られるのだけは、嫌だと。

 それで、フランス革命とナポレオン戦争の後、スイスにも新しい風が吹き始めて、それぞれが独立した自治州政府の連盟体だったスイスが、いよいよ連邦政府を持つことになって、さらにそれまで小国が割拠していた周辺のドイツやイタリアなどの地域が統一戦争で国民国家に変容していくと、「やはり我々も対外的に強力な連邦政府を持たなくてはならない、」という機運が盛り上がってきたのね。それで、一部自治州の独立戦争などの結果、スイス憲法が改正されて中央政府に権限が集中されると同時に、州が独自に傭兵を輸出したり海外派兵するのが禁止されたの。つまり、中世から続いた、伝統あるスイス傭兵の時代がついに終わったということよ。それで、トビアスは兵隊にならずにすんで、代わりにメールスの大工の学校に進学することになった。

 おじさんにはもう昔持ってた元手もほとんど残ってなかった。おじさんは軍隊では工兵だったから、自身も多少大工の心得があったのだけど、せっかくだからと、なんとか学費を捻出して、トビアスを徒弟に行かせて、それから彼は立派に親方の資格を得て、デルフリに戻ってきたの。

 姉とトビアスは、まもなく結婚したわ。2人ともとても幸せそうだった。

 ペーターとブリギッテが結婚してから、3年目くらいのことだったかしら。

 ペーターは木こりで、村の山羊を集めてアルムに連れて行って草を食べさせる仕事もしていたわ。少し村から外れた、アルムへ登る途中の、わずかに風雨を除けられる岩陰に、ペーターの家はある。とてもおんぼろで貧しい家だけど、ブリギッテはけなげに家事を切り盛りしていた。しばらくは2人とも幸せに暮らしていたのだけど、夫のペーターは、息子が一人出来てすぐに、切り倒した木の下敷きになって死んでしまった。今じゃブリギッテは、父親と同じ洗礼名の息子ペーターと、目の見えない姑さんの3人で暮らしている。

 ふむ。ペーターにブリギッテ。それに、姉のアーデルハイトと義兄のトビアスか。彼女は俺に相づちも打たせず勝手に身の上話を続ける。しょうがないので俺は彼女に勝手にしゃべらせて、聞き役に徹することにする。

 それで、姉のアーデルハイトが嫁ぎ先に片付くと、私は母と2人暮らしになった。私もそろそろお嫁に行く年になっていたので、未来の旦那様はいったいどんな人だろう、その人とどんな暮らしをするのだろうと、姉やブリギッテや、知り合いの村の夫婦たちを眺めながら、毎日空想してた。デルフリには特に幼なじみで好きあった男の子などなかったので、母方の親戚の紹介で、母の実家のあるドムレシュクの農家に、嫁ぐことになるんじゃないかなあって、母とは良く話していた。スイスでは、トビアスとアーデルハイトのように、村の中で縁組みが決まることもないわけじゃないけど、1つ1つの村はどれも小さいから、男が先祖代々、自分の村に続く家を継ぎ、女がよその村から嫁いで来るってことが多いのよね。ドムレシュク生まれの私の母もそうだし、つい最近デルフリにプレッティガウからお嫁に来たバルベルもそうだわ。

 もちろん私の家は、相変わらず女だけの所帯で貧しかったけど、私がお嫁に行ってしまえば、母には、死ぬまで暮らせるくらいの父の遺産があった。私が家を出ると、母も一人でデルフリに居るのではなく、故郷のドムレシュクの親戚のうちに厄介になって、余生を送るか、さもなくば、トビアスが引き取って養ってくれることになっていた。

 私の義理の兄となったトビアスは、なにしろメールスの職工学校仕込みの鳶職人で、親方の資格も持っていて、村でも特に頼り甲斐のある男だった。親戚にいてくれてよかった、と私にも思えた。父親と違い社交的で働きもので、村の人たちの評判も良く、大工の仕事も順調で、男手のない我が家にも良く手伝いに来てくれて、これからはやっと我が家の暮らし向きも良くなると思っていた。姉のアーデルハイトは、結婚してまもなくお腹が大きくなりだして、やがて女の子が1人生まれたの。牧師さんはその子に母親と同じアーデルハイトという洗礼名をつけたわ。でもいつも私たちはその子のことをただハイディと呼んでいたのだけど。

 私は、家事手伝いで忙しい合間に、ちっちゃな赤ん坊のハイディの子守を自分から買って出たりして、ハイディを抱いてデルフリ村の周囲を散歩に連れて行ったりした。おかげでずいぶん私の腕の筋肉も鍛えられたのよね。ああ、私もそのうち、トビアスみたいな夫にもらわれて、こんな赤ん坊を産むことになるのかしらって。ハイディをあやしたり、おしめを替えたり、寝かしつけたりしながら。そんな物思いにふけっていたの。

 そうやって、ハイディが生まれて1年程は、何事もなく夫婦と娘1人の幸せな暮らしが続いたのだけど、ある日、トビアスが出向いて働いていた建築現場で梁が落ちてきて、彼はその下敷きになって死んでしまった。突然の出来事だった。

 家に運び込まれたむごたらしい遺体を見て、姉のアーデルハイトは、悲嘆のあまり寝込んでしまい、数週間高熱を出してうなされた後、あっけなく死んでしまった。そうして、出来たばかりのトビアスのお墓の隣に、並んで葬られたのよ。

 私はどちらかと言えば体も大きく丈夫だったけど、姉はきゃしゃで病気がちで、夢遊病の発作をよく起こしていたわ。後には姉が生んだ娘、1才になったばかりのハイディが残されたのよ。アルムおじさんは、たった一人の身内のハイディを抱いて、何を考えているのか、無表情だったけど、「俺にはこんな女の子の面倒はみれない」からと、私の母にハイディの養育を全部押しつけてしまい、1人でアルムに籠もってしまった。息子のトビアスとはなんとか異国の地で、2人きりで生きてきたのに、孫娘はさすがに育てる自信がないと、今から思えば、おじさんは諦めて身を引いたのかもしれない。或いは、トビアスを育ててみて、育児にはもう半ば懲りていたのかもしれない。

 母はさすがにハイディの実の祖母だもので、やむなくハイディをうちの子として育てることにしたの。こうしてまた女ばかり3世代の暮らしが始まったのよ。