宣長と山陽

宣長よりも頼山陽は50年も後に生まれてきている。
宣長は頼山陽が21才の時まで生きているが、これは山陽が江戸遊学中に出奔するのとほぼ同じ時期。
ほとんどなんの接点もなくても仕方ないと言える。

宣長は本人の自覚としては「歌学の中興の祖」であったはずだが、
当時の社会は「歌学の中興」などというものは欲しておらず、「国学」だとか「尊皇攘夷」というものを望んでいた。
武士道というものを国民精神にまで高めることを望んでいた。
そのために宣長の意図は一切無視され、凡百の思想家たちに好き勝手に利用される過程で封印された。
ヒエログリフを解読したシャンポリオンのように、
エニグマや紫暗号を解読したチューリングのように、
単なる暗号の解読者として重宝がられもてはやされたが、その思想はゴミくずのようにはぎ取られ捨てられた。
師にも弟子にも理解されなかった。孤独な人だった。
敗戦後、戦前思想の粛清の嵐が吹きすさんでも、戦前までに作られたそうしたステレオタイプは、
現代人にも無意識のフィルタとしてほぼ無傷に受け継がれた。
今でも理解されてない。
こうした暗黙のフィルタの強靱さは驚くべきものだ。

江戸時代の学者というのはたいていそんなふうに利用されてきた。頼山陽もまた同じように利用されたと言えなくもない。
しかし50年後の江戸末期に生まれてきた山陽は、宣長よりもずっとそうした時代精神に素直であり、
自ら進んでその役を買って出たようにも見える。
山陽が死んだ1783年というのは幕末動乱のほんの手前であって、
幸か不幸か、たとえば80才まで生きていたらどうなったか(つまり安政の大獄で息子三樹三郎が処刑される頃まで)と思うと興味深くはある。

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