樋口一葉を少し調べ始めたのだが、一葉の和歌が面白いとか、日記が面白いというのならばわからんでもないのだが、みな小説ばかり褒めているのが奇怪だ。
なるほど平安時代や鎌倉時代には紫式部を筆頭として女流作家がたくさんいたが、室町、安土桃山、江戸時代になると、戯作作家は男ばかりになって、女がいなかった。明治に入って一番最初に女流作家となったのが樋口一葉だったので、彼女一人に注目が集まった、ということか。
実際、明治時代に有名な女性作家としてはあとは与謝野晶子くらいしかいないが晶子は歌人であって小説家ではない。となるとどうしても一葉がもてはやされることになる。
しかしながら一葉が書いた小説というのは新聞に載せるために書かれた通俗小説、それも短編読み切りの短いものにすぎない。内容もどぎつくて深みがあるとも思えない。内容もさほど珍しいものではない。こういうものは為永春水あたりがいくらでも書いていたし、もっと長編だったし、さらに言えばもっと読みやすいものだった。一葉の小説はまず読みにくい。また、面白いのかどうかもよくわからんし、オチがあるのかどうかもわからない。一葉の小説は実験小説かと思うくらいわかりにくい。もしかすると新聞の都合で無理やり尺を縮められてわけがわからなくなっているのだろうか。一葉はとりあえず世間的な名声が欲しかったのだろうか。作家として安定した地位が欲しかったのだろうか。そのための手段として通俗小説作家になろうとした?いろいろとわけがわからなすぎる。一葉は器用な人なのでとりあえず小説もざくっと書けたのだろう。日記をもっと丹念に読んでみればわかるだろうか。
一葉の日記は小説とはうってかわって非常に読みやすいし面白い。小説も日記のように書けばよいのにねと思ってしまう。和歌はつまらないと人は言うけど私からみると非常に優れている。私にとって与謝野晶子の奇を衒った歌よりは、一葉の和歌のほうがずっとまともに思える。
一葉の文章が良いのは和歌の素養があるからであって、それ以外の通俗小説的な部分は、少なくとも私には全然面白味がわからない。井原西鶴や山東京伝や滝沢馬琴や上田秋成や為永春水が面白いというのは私にもわかる。尾崎紅葉の金色夜叉が面白いというのもわかる。菊池寛が面白いというのもわかる。が、一葉が面白いとは私にはとても思えないのだ。男と女が無理心中したとか吉原の芸者がどうしたこうしたという話にも私にはあまり興味がもてない。近松門左衛門に曽根崎心中とかあったよな。それとの比較考察とかした人いるの?
一葉はもしかすると歌物語のようなものを書きたかったのかもしれない。しかし新聞の読者はそんなものを読みたがらない。江戸時代の読本みたいなものを少し近代風にアレンジしたような小説が読みたかったのではないか。いったいぜんたい一葉はどうしたわけで半井桃水みたいな俗物を師に選んで新聞小説を書こうと思ったのだろうか。もし一葉が与謝野晶子くらいに長生きして、大作家に成長し、新聞社の顔色を気にすることなく、読者の評判などにとらわれることなく、本格的な歌物語なり小説なりを書いていたらきっと傑作ができただろう。実に惜しい気がする。