雑な議論に書いたことの繰り返しになるが、ゼレンスキーだってもとはお笑いタレントだし、小池百合子も蓮舫もテレビタレントだし、青島幸男も横山ノックもそうだし、ロナルド・レーガンもシュワルツェネッガーもみんなそうだ。テレビに出て顔と名前を売らないことにはそもそも選挙に勝つことができない。政治的手腕なんてものは後付けにすぎぬ。
ゼレンスキーにしても、個人の勇気や決断というものはもちろんあっただろうが、彼を神輿に担いでロシアに一泡ふかせてやろうというやつらが大勢集まって金を出し合ったからあれほどのことができたのだ。ゼレンスキーと小池百合子に何の違いもないということは、じゃあ小池百合子でもいいんじゃんということになる。
要するに政治家というのはフロントエンドに過ぎず、バックヤードの有象無象が権力と金と人を動かして、その結果組織票を集めて、見た目、民意が反映されたというお墨付きを得ているだけなのだ。それは民意のようで民意でもなんでもない。民意などというものは浅はかで頼りにならぬもので、そもそも存在しているかどうかすらあやしい。匙加減しだいでどうとでもなる。株価の操作にしても似たようなものだろう。株式会社というものは経営の民主化のように言われているが実際には一部の資産家が結託して上げ下げしているのだろう。もちろん番狂わせのようなことや、予想以外の展開というものもあるのだろうが、だいたいは操縦可能なように、民衆は普段から飼い慣らされている。
私は町の立ち飲み屋で飲むとき客どうしの話をそれとなく聞いたりするが、どいつもこいつもみんな踊らされている。彼らの人生と都知事と何の関係があるのか。まったく無縁無関係のことになんであれほど、酒のつまみ替わりとはいえグダグダと議論するのだろう。実に不思議だ。ツイッターでは、話の向きは逆のことが多いが、踊らさされているという意味では同じだ。何かしらに踊らされて踊るように民衆は子供のころから調教されている。
首長なんて飾りで誰がなっても同じだとか、何もしない首長が良い首長だとかいうのはもっともだが、神輿のてっぺんに鳳凰の飾りが乗ってるように、飾りは飾りとして人目について機能しなくてはならんので、ランダムに無名の人を選んでは大衆が納得しないから、なんかもっともらしい学歴とか業績をくっつけて、結局タレント政治家が生まれるという仕掛けになっている。所詮選挙など売名行為以外の何物でもないのだ。
前にも書いたが選挙の結果みんなが納得して政治が安定して回るなら裏で何が行われていようと、民意が捏造されていようと、そりゃそれでいいのかもしれない。人がみなものわかりが悪くて暴動を起こして店を燃やしたり、監獄を襲撃したり国王をギロチンにかけたりするよりかずっとまし、という考え方もある。実際、選挙やってれば人民は納得して実力行使に走りにくいというのであれば、あいつらそれで気が済むんならやっときゃいいんじゃんという流れになるしかない。
しかしまた、民意なんてものが巧妙に仕立てられたヤラセに過ぎず、何の根拠もないのであれば、民意を(表向きは)無視した徳川幕府や足利幕府のような専制支配と本質的には何も違わぬということにならんか。徳川は足利を悪政と叩き、薩長は徳川を悪政と叩いたが、はたしてそんなに悪い政治だったのだろうか。今の政治のほうが良いという根拠はなんだろうか。ただの幻想ではないか。