読解

なんかうだうだ書きなぐるのもどうかと思うのだが、ここは書き捨て場なので、
読みたくない人は読まないし、
読みたくなくて読んだとしても他人のブログに文句を言うひとはいないだろうと思うから、
これからもあまり遠慮せず書こうと思うが、
そうでない場所(ツイッターとか)にはあまり書かないようにしようと思う。

無料キャンペーンの後の虚無感というのはある。
書いている最中と、
ダウンロード数が増えていくのを眺めている間は結構楽しいのだが、
その反動でかなり落ち込む。
酒を飲んだときとそのあとと似ているような気がする。
無理やりハイになればそのあとローが来る。

青空文庫由来の有名タイトルの無料キンドル本に何十とついているレビューを読んでいると、
暗澹たる気持ちになる。
マンガとか、新人作家の作品とかは、
人の好みがそれぞれ分かれるだろうが、
古典はその読者に読解力があるかどうかもう如実にわかる。
だいたい何もわかってない。
どこをどう読めばそんなレビューになるのか。
いやまあたまにうっかりレビューしてしまったような人に文句を言うつもりはない。
トップレビュアーとか何百冊もわかったようなことを書いている人のレビューがあまりにひどい。

いやね、つまり、無名作家の書いたものには、人は読んで実際に感じた正直な感想を遠慮なく書くよね。
良くも悪くもそれは本人がほんとうにそう思ったことを書いているからよしとしよう。
わかっていようがいまいが正直な感想を聞くのはこちらもためになる。
だが、古典は、みな臆病になる。
自分だけ間違ったこと言ったら笑われると。
だからみんな嘘のレビューを書く。
嘘とは言えなくても、見栄を張った、飾った、借りてきたレビューを書く。

私は興味ぶかいレビュアーはほかのレビューも読むようにしている。
よりその人の価値観や立ち位置がわかって、より正確にその人のレビューを参考にできるからだ。
匿名(ペンネームではなくアノニマスなという意味)のレビュアーなどは99.9%無視してよいとも思う。

古典をきちんと読めるということは、
著者の知名度や歴史的権威や世間の評判などはいったん横によけておいて、
ちゃんと自分で読んでみて、
客観的に判断できるということだと思う。
その上でその人の主観に基づく解釈があればなおよい。
しかしそんな小林秀雄みたいなレビュアーは滅多にいない。
滅多にいないから小林秀雄は小林秀雄なわけだが、
にしても、そんな、客観的でもなければ主観的でもなく、
情報量がゼロのレビューばかり見ていると自分は誰に対してものを書けばいいのか、
ほんとにわからなくなる。

平家物語を読んで、「世の中は諸行無常だと実感した」とかいうようなレビュー。
一般人ならともかく、読書人ならあり得ない。
源氏物語なら「もののあはれをしみじみ感じた」とか。
もうね。
「実は読んでない」「実はわからなかった」とは決して言わない。

私は私の書きたいものしか書けない。
そういう書き方しかできないのだからしかたない。
このブログと同じだ。
私が好きで書いたものに値段がつけられればつけて売りたい。
ついでにこのブログにもたどりついてもらいたい。
逆にこのブログにたどりついた人に私の書いたものもついでに読んでもらいたい。
ただそれだけだ。

人は本を読む。
それは読解するということではないのか。
人は本を読んで何をしているのか。
ただの娯楽なのか。
蒐集して本棚に並べて眺めることなのか。
こんな本を読んだとか何冊読んだとか自慢したいだけなのか。
わかったようなレビューを書いて自己満足することなのか。

つまり、テクニックの問題なのだ。1%の読者はちゃんと読めるとしよう。
のこり99%の読者はただ読んだふりしているとしよう。
しかし本をたくさんの人に読んでもらうためには、
その99%の人にも面白いと思ってもらえるようなものを書かねばならない。
1%の人に面白いと思ってもらい、
自分も書いていて面白く、
かつ残り99%の人にも「面白かったです」と言わせるような本。
どんな本なんだそれは。

例えばだ。
歌舞伎とか能を見るとき、
人は「わからん」とはなかなか言わない。
実は古典とはぐにゃぐにゃと形のないよくわからないものなのだ。
演じている人もまじめに演じるほどにわけわからなくなっていくと思う。
わからないという答えは実は正解なのである。
しかし、古典とは「わかった」「正解のある」ものだとみんな考えるし、
パンフにもそう書いてあるから、
要するにパンフを丸暗記して復唱するような感想しか持ち得ないのだ。
感想を持つということは試験勉強して合格点をとるのと同じことなのだ。
そんなことで「わかった」って仕方ない。
「わかってない」のと何も違わない。

葬式のお経にしてもそうだ。
誰も意味はわかって聞いてないが、あれは、
梵語の読み上げや、漢文の素読や、和讃や、念仏などがメドレーになっている。
特に和讃はわりと面白い。古語がわかれば声だけでだいたい意味はわかる。
結婚式とか七五三の祝詞なんかもあれはただの大和言葉だ。
古語の知識があれば100%理解できる。
歌舞伎のセリフはぎりぎりわかるかな。
でも能は無理だな。当時の話し言葉に近いんだろうが、なじみのない漢語が多すぎて、
意味が取れない。平曲も和漢混交文で読むからわかるんであれを音だけでわかれといっても無理だろう。
ひらがなだけで書かれた平曲もあるがまるでわからん。

お経で鐘や太鼓で派手にやるのはたいてい和讃だ。
あれは庶民にわかるようにパフォーマンスしていた時代の名残だわな。
神様や仏様や霊魂に語りかける言葉は梵語や漢語が使われる。
しかし参列している人にわからせるにはかつては楽曲に合わせて和讃で聞かせていた。
しかし今普通の人にわかるのは念仏の部分だけだ。

幼名と諱

幼名を調べ始めて思うのだが、
犬丸とか虎丸など、動物名に丸を付ける名前というのは非常に一般的な気がする。
それで近代でも、野口英世の母の名は鹿であったし、
女性名にも熊とか虎などがあった。

元服して付ける名前が正式な名前であるというが、
古来日本の名前というのは幼名しかなかったのではないか。
少なくとも庶民は幼名のまま一生を過ごしたのではないか。
柿本人麻呂とか猿丸、蝉丸、こういう名前は元服などしなかった庶民の名ではないか。
山部赤人や山上憶良もそうではないか。
そんな気がしてならないので、万葉集などを見てみると、
他にもいろんな例がある。

麻呂が付くもの、
阿曾麻呂(あそまろ)。
清麻呂(きよまろ)。
鮎麻呂(あゆまろ)。
駿河麻呂(かすがまろ)。
奥麻呂(おきまろ)。
兄麻呂(えまろ)。
乙麻呂(おとまろ、弟麻呂)。
福麻呂(さきまろ)。
黒麻呂(くろまろ)。
奈良麻呂(ならまろ)。
仲麻呂(なかまろ)。
比良麻呂(ひらまろ、枚麻呂)。
田村麻呂(たむらまろ)。
武智麻呂(むちまろ)。
巨勢麻呂(こせまろ)。
安麻呂(やすまろ)。
雄能麻呂(をのまろ)。
常麻呂(とこまろ)。
今麻呂(いままろ)。
耳麻呂(みみまろ)。
鈴伎麻呂(すずきまろ)。
苗麻呂(なへまろ)。
梁麻呂(やなまろ)。
咋麻呂(くひまろ)。
愛宕麻呂(あたごまろ)。
葛野麻呂(かどのまろ)。
小黒麻呂(をぐろまろ)。
内麻呂(うちまろ)。
縵麻呂(かづらまろ)。
賀祜麻呂(かこまろ)。
田麻呂(たまろ)。
苅田麻呂(かりたまろ)。
長田麻呂(おさだまろ)。
島田麻呂(しまだまろ)。
宮田麻呂(みやたまろ)。
海田麻呂(うみたまろ)。
長谷麻呂(はせまろ)。
綿麻呂(わたまろ)。
家麻呂(やかまろ)。
富士麻呂(ふじまろ)。
福当麻呂(ふたぎまろ)。
文室麻呂(ふみやまろ)。
元利麻呂(もりまろ)。
奈止麻呂(なとまろ)。
帯麻呂(おびまろ)。
多太麻呂(ただまろ、縄麻呂)。
虫麻呂(むしまろ)。
公麻呂(きみまろ)。
堺麻呂(さかひまろ)。
道麻呂(みちまろ)。
奈弖麻呂(なでまろ)。
楓麻呂(かえでまろ)。
訓儒麻呂(くすまろ、明らかに儒者、陰陽師らしい漢字の選び方)。
蔵下麻呂(くらじまろ)。
飯麻呂(いひまろ)。
宿奈麻呂(すくなまろ)。
嶋麻呂(しままろ)。
蓑麻呂(みのまろ)。
豊麻呂(とよまろ)。
赤麻呂(あかまろ)。
国麻呂(くにまろ)。
大麻呂(おほまろ)。
子麻呂(こまろ)。
閉麻呂(あへまろ)。
訶多麻呂(かたまろ)。
倉麻呂(くらまろ)。
石川麻呂(いしかはまろ)。
足麻呂(たりまろ)。
龍麻呂(たつまろ)。
麻呂は、もと、男子の自称か。
明らかに丸、円と同根。
一個の、という意味か。

通常男子の名だが、翁丸のように犬の名に付けることもあったようだ。

足(たり)が付く例、
島足(しまたり)。
鎌足(かまたり)。
石足(いはたり)。
仲足(なかたり)。
名足(なたり)。
越足(こしたり)。
年足(としたり)。
道足(みちたり)。
継足(つぐたり)。
潔足(きよたり)。
比広足(ひろたり)。
五百足(いほたり)。
小足(をたり)。
足はもともとは一人(ひとり)、二人(ふたり)、三人(みたり)、
四人(よたり)、幾人(いくたり)などの「たり」と同じ。
たりは朝鮮語かもとのこと。

たぶん、麻呂、足、だけで人名になりえたのだろうと思う。

そのほか、
毛人(えみし)。
堅魚(かつを)。
広耳(ひろみみ)。
四縄(よつな)。
宇合(うまかひ)。
八束(やつか)。
鹿人(かひと)。

たぶん固有名詞だが、一般名詞かもしれない例。
東人(あづまひと)。
真人(まひと)。
伊勢人(いせひと)。
祖父麻呂(おほぢまろ)。

たぶん一般名詞、或いは役職名。
大嬢(おほいらつめ)。
女郎(いらつめ)。
郎子(いらつこ)。
娘子(をとめ、または処女)。
老夫(おきな)。
武良自(むらじ)。
犬養(いぬかひ)。
鳥養(とりかひ)。
牛養(うしかひ)。
副使麻呂(ふくしまろ)。
船守(ふなもり)。
意美麻呂(おみまろ)。

おそらく元服した後の名前。
大伴家持。
藤原広嗣。
阿倍広庭。

家持の父は旅人(たびと)。こちらはどうも元服後の名前とは思えない。

[日本における諱の歴史](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B1#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E8.AB.B1.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2)。
しかし嵯峨天皇はすでに平安時代であって、
家持はその前の人だから、
家持が諱であるなら諱はもう少し前から始まっていないといけない。

諱とか戒名というが、もともとは死んだ後に残す名前であったかもしれない。
或いは朝廷に出仕するために付けた公の名前。
いずれにせよ唐から輸入した風習だわな。
諱を使わない人が万葉時代にはまだたくさんいた。
家持は諱を使うようになった最初期の人かもしれない。

でまあ話は戻るが、日本人は昔から、
動物や地名や植物の名を人の名に使ってきていたのだろう、
「家持」のような漢字二字の男名、
「高子」のような漢字一字に子を付ける女子名、
というのは、奈良後期にもなかったわけではないが、
平安初期にかなり一般化したということだろう。

たぶん諱というのは、自分の実の親ではなく、自分の上司などに付けてもらう名前で、
それゆえにより社会的であり、公の名であり、社会の一員としての名前なのだ。
烏帽子親というが加冠する人は自分の親ではなく親から依頼されただれかだろう。
偏諱という。二文字の名のうち一文字は貴人からもらう。もう一文字は実父(あるいは養父)
が与える。棟梁ならば一族の通し字を用いる。
そういう儀礼なのだろう。

女性の名前というのはずっとよくわからなかったのだが、
戦国武将の娘の名前がちらほら歴史に残るようになる。
例えば、家康の長女は亀姫。
おそらく単に亀という名だったと思う。
これまた動物名。
妹に振姫、督姫がある。
秀忠の娘に勝姫。勝姫の娘に、ふたたび亀姫。
ほかに、豪姫、寧々。
ほんとにわずかしかわからない。
あとは庶民から側室となった女性の名で喜世、など。

たぶんもうかなり詳細に調べてる人がいるはずだ。

そういや荷田春満(かだのあづままろ)という江戸時代の国学者がいたな。
なぜ「満」をまろと読ませたかったのだろうか。
秀丸はテキストエディタだしな。

痩せるには。

後もう少しで血液検査してその結果がでるからそれから書けばいいんだが、
後で書こうと思うと忘れてしまうので、いま書いておく。

たぶん、ある程度痩せた状態では、食べないから痩せるのではない。
内臓脂肪は食べないことによって痩せるが、
内臓脂肪を落とした状態で単に食べないのでは痩せない。
食べても食べなくても痩せないのなら食べた方が良いに決まってる。
体質を変えないと体重は痩せない。

コレステロール値を気にしてもあまり仕方ない。
やはり体内で合成されてしまうから体質を変えるしかない。
コレステロールを採ろうが採るまいがコレステロール値が変わらないのなら気にしても仕方ない。
血圧も同じ。

運動をすれば痩せるのでもない。
筋肉を付けて基礎代謝を増やすから痩せるのでもなさそう。
すべてに言えることだが、何か意図的に痩せようとか体質を変えようとかしても、
だいたいは無駄だ。

デブのダイエットは簡単だ。
ただ食わなければいい。
それで私は10kgおとした。
ここからさらに10kgおとしたいが、運動と節食ではどうにもならん気がする。

たぶん効果があるのは、
酒をたまに、適量飲むということ。
食事は米をメインに腹が減ったら食うということ。
腹が減ってないときやただ見た目や知識で食べたくなったからと食べないこと。
これだけで体質が変わり、痩せると思う。
酒をもともと飲まない人はこれで変わるはずもないけど、
私のように毎日大量に飲んでいた者にとっては一番効くやり方のように思える。

酒場放浪記

最近よく吉田類の酒場放浪記を見るのだが、
昼間駅前とどこか普通の店などを取材して、
夜飲み屋で収録している。
昼間の取材は、壁に掛かった時計など見るに13:30頃である。
夜の収録はどう見ても19:00くらい。
その間はいったい何をしているのだろうか、と不思議に思う。

おそらく、現地集合は午前中。
そこでいったんスタッフの打ち合わせがあり、
駅前で、吉田類が駅に降り立った絵をとる。
14:00ないし15:00くらいまでに昼間の収録を終える。
17:00から居酒屋が開店するとして、その前までに居酒屋でリハーサルをやる。
常連客で賑わう19:00頃から収録を開始して、
だいたい20:30くらいまでに終わらせているのではなかろうか。
そうすると一回のロケで丸一日使うわけである。
途中休憩を入れて実働8時間くらいだろうか。

小椋山

秋雜歌 崗本天皇御製歌一首
> 08-1511 暮去者 小倉乃山尓 鳴鹿者 今夜波不鳴 寐宿家良思母

雜歌 泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首
> 09-1664 暮去者 小椋山尓 臥鹿之 今夜者不鳴 寐家良霜

この二つの歌は同じである。

> ゆふされば をぐらのやまに なくしかの こよひはなかず いねにけらしも

と訓む。割と有名な歌。
崗本天皇とは舒明天皇か斉明天皇であるという。
泊瀬朝倉宮に天の下治しめしし大泊瀬幼武天皇は雄略天皇。
どうもよくわからない。
しかも小椋山、あるいは小倉乃山というのがどこかわからない。
「小椋」「小倉」ともにそれぞれ一度きりしか万葉集には出ないからである。
もしかすると固有名詞ではなく「小暗」の意味かもしれんね。
たとえばもとは「小暗き山」だったのが「小倉山」という固有名詞と間違われたとか。

ダブって採られているくらいだからよく知られてはいたが万葉時代には誰の歌か何の歌かもうわかんなくなっていたのだろう。

も一個あった。

春三月諸卿大夫等下難波時歌二首 并短歌
> 09-1747 白雲之 龍田山之 瀧上之 小桉嶺尓 開乎為流 櫻花者 山高 風之不息者 春雨之 継而零者 最末枝者 落過去祁利 下枝尓 遺有花者 須臾者 落莫乱 草枕 客去君之 及還来

龍田山の滝の上の小桉の嶺に。

ますますわからん。
龍田山の滝の上というからには竜田川の上流かと思うが、飛鳥や奈良の中心からはだいぶはずれる。
詞書きにも難波に下るとあるから、
やはり生駒山辺りでなくてはならない。
謎は深まった。

いやそもそも龍田山というのが生駒山なのではなかろうか。

ははあ、なるほど、生駒は北過ぎる。
奈良盆地から難波に至る道というのは大和川沿いであったに違いなく、
従って信貴山もしくは高安山あたりが龍田山もしくは小桉の嶺か。
「山高」というからにはこの辺りで一番高い目立つ山でなくてはならない。

上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首 小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豊御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古
> 03-0415 家有者 妹之手将纒 草枕 客尓臥有 此旅人憾怜

竹原井、つまり聖徳太子の行宮後というのは、
大阪府柏原市青谷、ここらには聖徳太子関係の史跡が多い。

獨惜龍田山櫻花歌一首
> 20-4395 多都多夜麻 見都〃古要許之 佐久良波奈 知利加須疑奈牟 和我可敝流刀尓

> たつたやま みつつこえこし さくらばな ちりかすぎなむ わがかへるとに

ふーむ。
やはり、龍田山というのは、
奈良と難波を往来する人が必ず通る、大和川沿いの地峡から眺める山であった。
船旅であったかもしれぬ。
竜田川とはあまり関係ない。
ていうか竜田川をさかのぼって生駒まで行ってはならない。
うーんと、たぶんだが、龍田山というのはこの大和川の地峡全体のことで、
そのなかの最高峰が小椋の峰でこれがすなわち信貴山ではなかろうか。

ヴイナス戦記

「アリオン」「クルドの星」の続編だというので、
気になったのでアマゾンでポチって読んでみたが、
あまり面白そうではない。
どうも安彦良和が自分で書きたくてかいたストーリーではないと思うんだ。
たぶん、アニメ化、映画化するための原作として仕方なく書いた。
映画監督になるために自分が原作者になった。
そりゃそうだわな、「クルドの星」じゃアニメ化できんわな。
それで無理矢理SF仕立てにしたかんじだわ。

[アニメ](http://www.nicozon.net/watch/sm18826462)
は、まあ、良く出来てはいるようだが。
だがこれは(CG使ってなかった頃の昭和の)メカの動きが面白いのであり、
キャラクターの作画が安彦良和である必然性がほとんどないわな。

やっぱ安彦良和で面白いのは「クルドの星」「王道の狗」「虹色のトロツキー」とか、
近代アジア史ものなわけだが。
異論はあるだろう(実際ここらが好きだという人を見たことがない)。
今連載している(らしい)「麗島夢譚」まで時代をさかのぼるとかなり変な癖が出て、
「神武」とかはもう全然つまらない。
不思議な人だわな。
要するにフィクションが下手な人だと思うんだ。
いや、フィクションにする元ネタがフィクションだとめろめろになってだめな人というべきか。
フィクションの元ネタが史実だったり近代だったりするとすっと一本筋が通って面白い、というか。

[巨神ゴーグ](http://www.b-ch.com/ttl/index.php?ttl_c=1983)。
出だしが「Cコート」っぽくて良い(笑)。
これぞまさしく純粋な動く安彦良和。
つか、「Cコート」アニメ化した方が絶対良いと思う、こんなロボットものより。
ロボットじゃないとスポンサー付かないんだなあ。
不毛だよな、安彦良和イコールガンダムという発想。
まあ入り口はガンダムで良いとして他にいろんなことをやらせてあげれば良かったのに。
で、安彦良和も最後は諦めて(開き直って)ガンダムオリジンとか描き始めたのな。
全く興味ないがな、ジ・オリジン。

安彦良和は、キャラが命の人なのだが、そこにガンダムテイストのSFを混ぜると、
肝心のキャラが死んでしまう。
「王道の狗」なんてほんとによくできた話で、
架空の人物、加納周助、風間一太郎のコンビはすごく良く出来てるし、
実在の陸奥宗光なんかも良くかけてる。
「虹色のトロツキー」も主人公の日本人とモンゴル人のハーフのウムボルトや、
その他の脇役ジャムツや麗花などの中国人も、
よく思いつくもんだと思う。
ていうか明らかに私が書いた「特務内親王遼子」なんてのは「虹色のトロツキー」の影響だしな。
東洋のマタハリとか(笑)。
近代アジア史物はもっと書きたいが、いろいろアレがアレなので書きにくいものはあるわな。

ま、私もいろんなジャンルを書き散らすほうではあるが、
安彦良和の統一感のなさははんぱない。

小泊瀬と大泊瀬

和歌では長谷(はせ)のことを「をはつせ」と言ったりするのだが、
「はつせ」は初瀬のことだなってすぐわかるんだが、「を」がよくわからない。
古今以後でもたまに使われるが、もう意味がわからなくなっているようだ。
万葉集では「小泊瀬」とあるから、
「小泊瀬」に対して普通の「泊瀬」があるんじゃなかろうかと思い調べてみると、
意外な事実が。

武烈天皇のことを小泊瀬稚鷦鷯尊(をはつせのわかさざきのみこと)
といい泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)に住んだが、これに対して、
雄略天皇を大泊瀬稚武尊(おほはつせわかたけるのみこと)
と言い、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に住んだとある。

そんでまあ、泊瀬に大泊瀬と小泊瀬があったのかなかったのか、
あったけど忘れられたのか、
それとも雄略天皇のほうが昔或いは年上なので大泊瀬でそれに対して、
武烈天皇を小泊瀬というのか、よくわからん。
ただもう万葉集の時代には「をはつせ」だけが歌語として残っていて、
古今集以後でもまれに使われた、ということなのだろう。

> 01-0045 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷為 京乎置而 隠口乃 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而

こもりくのをはつせやまは、とある。

> 01-0079 天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎擇 隠國乃 泊瀬乃川尓 舼浮而 吾行河乃 川隈之 八十阿不落 万段 顧為乍 玉桙乃 道行晩 青丹吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上従 朝月夜 清尓見者 栲乃穂尓 夜之霜落 磐床等 川之水凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手尓 座多公与 吾毛通武

こもりくのはつせのかはに。

> 03-0282 角障経 石村毛不過 泊瀬山 何時毛将超 夜者深去通都

はつせやま。

> 03-0420 名湯竹乃 十縁皇子 狭丹頬相 吾大王者 隠久乃 始瀬乃山尓 神左備尓 伊都伎坐等 玉梓乃 人曽言鶴 於余頭礼可 吾聞都流 狂言加 我聞都流母 天地尓 悔事乃 世間乃 悔言者 天雲乃 曽久敝能極 天地乃 至流左右二 杖策毛 不衝毛去而 夕衢占問 石卜以而 吾屋戸尓 御諸乎立而 枕邊尓 齋戸乎居 竹玉乎 無間貫垂 木綿手次 可比奈尓懸而 天有 左佐羅能小野之 七相菅 手取持而 久堅乃 天川原尓 出立而 潔身而麻之乎 高山乃 石穂乃上尓 伊座都類香物

こもりくの、はつせのやまに。
どうも万葉時代は「初瀬」ではなく「始瀬」と書いたらしいな。

> 03-0424 隠口乃 泊瀬越女我 手二纒在 玉者乱而 有不言八方

こもりくのはつせをとめが。

> 03-0425 河風 寒長谷乎 歎乍 公之阿流久尓 似人母逢耶

かはかぜ(の?)さむきはつせを。
この頃から長谷という表記があったのか。

> 03-0428 隠口能 泊瀬山之 山際尓 伊佐夜歴雲者 妹鴨有牟

こもりくのはつせのやまの、か。

> 06-0912 泊瀬女 造木綿花 三吉野 瀧乃水沫 開来受屋

はつせめ(の?)

> 06-0991 石走 多藝千流留 泊瀬河 絶事無 亦毛来而将見

はつせがは。

> 07-1095 三諸就 三輪山見者 隠口乃 始瀬之桧原 所念鴨

こもりくのはつせのひばら。

> 07-1107 泊瀬川 白木綿花尓 堕多藝都 瀬清跡 見尓来之吾乎

はつせがは。

> 07-1108 泊瀬川 流水尾之 湍乎早 井提越浪之 音之清久

はつせがは。

> 07-1270 隠口乃 泊瀬之山丹 照月者 盈県為焉 人之常無

こもりくのはつせのかはに。

> 07-1382 泊瀬川 流水沫之 絶者許曽 吾念心 不遂登思齒目

はつせがは。

> 07-1407 隠口乃 泊瀬山尓 霞立 棚引雲者 妹尓鴨在武

こもりくのはつせのやまに。

> 07-1408 狂語香 逆言哉 隠口乃 泊瀬山尓 廬為云

こもりくのはつせのやまに。

> 08-1593 隠口乃 始瀬山者 色附奴 鍾礼乃雨者 零尓家良思母

こもりくの、はつせのやまは。

> 09-1770 三諸乃 神能於婆勢流 泊瀬河 水尾之不断者 吾忘礼米也

みもろの、かみのおばせる、はつせがは。おばせる?「おはせる」でいらっしゃる、か。
「御室の神のおはせる初瀬川」まともかくすでに万葉集の頃には初瀬川流域は三輪山とともに神域と見なされていたようだ。

> 09-1775 泊瀬河 夕渡来而 我妹兒何 家門 近舂二家里

はつせがは。

> 10-2261 泊瀬風 如是吹三更者 及何時 衣片敷 吾一将宿

はつせかぜ。

> 10-2347 海小船 泊瀬乃山尓 落雪之 消長戀師 君之音曽為流

あまをぶね、はつせのやまに、ふるゆきの、と読むらしい。
なぜ海小船なのか、少し気になる。

> 11-2353 長谷 弓槻下 吾隠在妻 赤根刺 所光月夜邇 人見點鴨 一云 人見豆良牟可

(を?)はつせ(の?)ゆつきがしたに。

> 11-2511 隠口乃 豊泊瀬道者 常滑乃 恐道曽 尓心由眼

こもりくの、とよはつせぢは。

> 13-3225 天雲之 影塞所見 隠来笶 長谷之河者 浦無蚊 船之依不来 礒無蚊 海部之釣不為 吉咲八師 浦者無友 吉畫矢寺 礒者無友 奥津浪 諍榜入来 白水郎之釣船

こもりくの、はつせのかはは。

> 13-3226 沙邪礼浪 浮而流 長谷河 可依礒之 無蚊不怜也

さざれなみ、うきてながるる、はつせがは。

> 13-3263 己母理久乃 泊瀬之河之 上瀬尓 伊杭乎打 下湍尓 真杭乎挌 伊杭尓波 鏡乎懸 真杭尓波 真玉乎懸 真珠奈須 我念妹毛 鏡成 我念妹毛 有跡謂者社 國尓毛 家尓毛由可米 誰故可将行

こもりくの、はつせのかはの。

> 13-3299 見渡尓 妹等者立志 是方尓 吾者立而 思虚 不安國 嘆虚 不安國 左丹柒之 小舟毛鴨 玉纒之 小檝毛鴨 榜渡乍毛 相語妻遠 或本歌頭句云 己母理久乃 波都世乃加波乃 乎知可多尓 伊母良波多〃志 己乃加多尓 和礼波多知弖

こもりくの、はつせ(波都世)のかはの。

> 13-3310 隠口乃 泊瀬乃國尓 左結婚丹 吾来者 棚雲利 雪者零来 左雲理 雨者落来 野鳥 雉動 家鳥 可鷄毛鳴 左夜者明 此夜者昶奴 入而且将眠 此戸開為

こもりくの、はつせのくにに。

> 13-3311 隠来乃 泊瀬小國丹 妻有者 石者履友 猶来〃

こもりくの、はつせをくにに。

> 13-3312 隠口乃 長谷小國 夜延為 吾天皇寸与 奥床仁 母者睡有 外床丹 父者寐有 起立者 母可知 出行者 父可知 野干玉之 夜者昶去奴 幾許雲 不念如 隠孋香聞

こもりくの、はつせをくに(に?)

> 13-3330 隠来之 長谷之川之 上瀬尓 鵜矣八頭漬 下瀬尓 鵜矣八頭漬 上瀬之 年魚矣令咋 下瀬之 鮎矣令咋 麗妹尓 鮎遠惜 麗妹尓 鮎矣惜 投左乃 遠離居而 思空 不安國 嘆空 不安國 衣社薄 其破者 継乍物 又母相登言 玉社者 緒之絶薄 八十一里喚鷄 又物逢登曰 又毛不相物者 孋尓志有来

こもりくの、はつせのかはの。

> 13-3331 隠来之 長谷之山 青幡之 忍坂山者 走出之 宜山之 出立之 妙山叙 惜 山之 荒巻惜毛

こもりくの、(を?)はつせのやま

> 16-3806 事之有者 小泊瀬山乃 石城尓母 隠者共尓 莫思吾背

ことしあらば、をはつせやまの、いはきにも。
ここまで万葉集。
読みは「をばつせ」であった可能性もあるようだ。

どうもいま長谷寺のある辺りはいくらなんでも天皇が都にするには奥まりすぎているようだ。
実際の初瀬宮は三輪山の麓、今の桜井市役所あたりにあったのではないか。
そして初瀬山というのは三輪山のことだったのではなかろうかと思うが、どうよ。
ただまあ、枕詞の「こもりくの」を奥まった国の、と解釈できなくもないわな。
で、長谷寺は清少納言や紫式部や紀貫之も参詣したらしいんだが、
ほんとかいなと思わなくもない。
吉野は初瀬よりもさらに奥だわな。

後撰集

> 菅原や伏見のくれに見わたせは霞にまかふをはつせの山

はて。伏見に長谷寺などあったのだろうか。

> うかりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを

「祈れどもかなはぬ恋」という題詠だったらしい。
祈るから長谷観音、ということになったのだろうか。
割と唐突な感じのする歌。
源俊頼とかよくわかんね。

> 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮

有名な歌なんで、気にも留めてなかったが、
ググってみると、
「かげもなし」というのは、
「雪や風を避けるための物陰」が見当たらないと解釈している例がほとんど。
いやしかし、
古語では、「かげ」というのはまず「光」(朝日影、など)のことであり、
次には「像」「姿」「幻」のことである。
「かげろふ」の「かげ」である。
たとえば「人影」というがこれは「人の影」ではなくて「人の姿」と言う意味だ。
英語で言えば light よりも vision、image というのに近い。

「陰」(shade)という意味はなくもないが一般的ではない。
おそらくは割と最近になって「陰」という意味が固定してきて、
さらには光が当たらない「影」(shadow)という意味になった。

「影」という漢字にしてもそうだが、これは「景」と同じで、
ひかり、すがた、まぼろし、という意味だ。
これを光の差さない暗い箇所という意味につかうのはおそらく近世の日本だけだ。
だから

> 駒をつなぎ止めて、袖や馬の背に積もった雪を打ち払い、しばらく休憩するための、適当な物陰がない

というよりは、単に

> 馬の姿も、人の姿もまったくみあたらない閑散とした雪原

という意味に解釈すべきだと思うがどうよ。
でまあ現代人にはこの定家のダダイズムがピンと来ない。
存在しない景色をなぜ歌に詠むか、となる。
私も最初、はぐらかされて腹を立てたほうだ。

定家ただ独りがたどり着いたこの境地を、現代人はわかってない。
幽玄とかありがたがっておりながら幽玄の意味がわかってない。
[幽玄](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BD%E7%8E%84#.E5.92.8C.E6.AD.8C.E3.81.AE.E5.B9.BD.E7.8E.84)だが、正徹がすでに、

> 人の多く幽玄なる事よといふを聞けば、ただ余情の体にて、更に幽玄には侍らず。
或は物哀体などを幽玄と申す也。余情の体と幽玄体とは遙か別のもの也。
皆一に心得たる也。

などと言ってるのがおかしい。
でまあ、鴨長明

> 詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし

これが比較的近いかな。
正徹と鴨長明は正確に理解しているわな。
姿に見えない景色をわざわざ感得する。
まさに禅だな。
或いは「色即是空、空即是色」。
定家が和歌で初めてやって、みんなまねした技だ。

> 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮

これも同工異曲。
こっちのほうがわかりやすい。
さきほどの佐野のわたりの、と比べるとより理解しやすいだろう。
断っておくが私はこういう定家の歌が好きなわけじゃない。