尊観という人を、ざっとネットに落ちてる情報だけで調べると、およそ二人いる。
一人は、1239-1316。名越朝時の子で浄土宗の僧侶。
もう一人は、1349-1400。時宗の遊行上人12世。時宗中興の祖。
この二人目の尊観は亀山天皇の孫で、亀山天皇が生前最後に西園寺家の娘に生ませた恒明親王の王子の深勝法親王と同一人物であるという説があるという。Wikipedia もこれに従う。
しかしながら『日本外史』では、尊観は南朝後村上天皇の子であると言っている。つまり、後村上天皇は最初皇子がなかったので、亀山天皇の孫(深勝法親王。外史では誤ってこれを恒明と呼んでいる)を養子としたが、後に実子が生まれたので、養子を僧侶とした。これが尊観であるという。
たぶんいずれも伝説なのだろう。高名な僧侶はこのようにして皇族のご落胤とされている可能性が高いとみなくてはならない。
尊観は、上野国祝人(はふり)村に隠れていた家康の遠い祖先で新田氏の末裔の有親(ありちか)を得阿弥という僧侶とし、連れていた二人の男子のうち長男を長阿弥とし、もう一人はまだ幼かったので僧侶とはならず、徳寿と呼んで、三河に逃れたのだという。徳寿は松平氏に養われてのちに松平泰親となり、これが三河の徳川家の遠祖となったというのだ。また長阿弥は後に親氏と名乗り、その子・広親は徳川譜代の酒井氏となったという。
Wikipedia によれば「徳阿弥」と名乗ったのは有親の長男の親氏の方であって、彼が松平家の祖だとなっている。
これらは、いずれにせよ、松平家と酒井家が清和源氏の血を引いているということをいうために作られた伝説に違いないわけだが。
Wikipedia では、松平泰親は長氏の嫡男であるともし、またやはり弟でもあると書いている。
以前にも似たようなことをうだうだ書いた。
徳川氏の歴史を読んでいると「上野」という地名が出てくる。これは「三河国碧海郡上ノ庄」もしくは明治以後の「三河国碧海郡上野村」のことらしい。紛らわしい。
また、「伊奈」という地名も出てくるがこれも信濃の天竜川の伊奈谷と紛らわしい。豊川市伊奈町(旧宝飯郡小坂井町伊奈)、本多氏の居城・伊奈城というものがあった。