読解

なんかうだうだ書きなぐるのもどうかと思うのだが、ここは書き捨て場なので、
読みたくない人は読まないし、
読みたくなくて読んだとしても他人のブログに文句を言うひとはいないだろうと思うから、
これからもあまり遠慮せず書こうと思うが、
そうでない場所(ツイッターとか)にはあまり書かないようにしようと思う。

無料キャンペーンの後の虚無感というのはある。
書いている最中と、
ダウンロード数が増えていくのを眺めている間は結構楽しいのだが、
その反動でかなり落ち込む。
酒を飲んだときとそのあとと似ているような気がする。
無理やりハイになればそのあとローが来る。

青空文庫由来の有名タイトルの無料キンドル本に何十とついているレビューを読んでいると、
暗澹たる気持ちになる。
マンガとか、新人作家の作品とかは、
人の好みがそれぞれ分かれるだろうが、
古典はその読者に読解力があるかどうかもう如実にわかる。
だいたい何もわかってない。
どこをどう読めばそんなレビューになるのか。
いやまあたまにうっかりレビューしてしまったような人に文句を言うつもりはない。
トップレビュアーとか何百冊もわかったようなことを書いている人のレビューがあまりにひどい。

いやね、つまり、無名作家の書いたものには、人は読んで実際に感じた正直な感想を遠慮なく書くよね。
良くも悪くもそれは本人がほんとうにそう思ったことを書いているからよしとしよう。
わかっていようがいまいが正直な感想を聞くのはこちらもためになる。
だが、古典は、みな臆病になる。
自分だけ間違ったこと言ったら笑われると。
だからみんな嘘のレビューを書く。
嘘とは言えなくても、見栄を張った、飾った、借りてきたレビューを書く。

私は興味ぶかいレビュアーはほかのレビューも読むようにしている。
よりその人の価値観や立ち位置がわかって、より正確にその人のレビューを参考にできるからだ。
匿名(ペンネームではなくアノニマスなという意味)のレビュアーなどは99.9%無視してよいとも思う。

古典をきちんと読めるということは、
著者の知名度や歴史的権威や世間の評判などはいったん横によけておいて、
ちゃんと自分で読んでみて、
客観的に判断できるということだと思う。
その上でその人の主観に基づく解釈があればなおよい。
しかしそんな小林秀雄みたいなレビュアーは滅多にいない。
滅多にいないから小林秀雄は小林秀雄なわけだが、
にしても、そんな、客観的でもなければ主観的でもなく、
情報量がゼロのレビューばかり見ていると自分は誰に対してものを書けばいいのか、
ほんとにわからなくなる。

平家物語を読んで、「世の中は諸行無常だと実感した」とかいうようなレビュー。
一般人ならともかく、読書人ならあり得ない。
源氏物語なら「もののあはれをしみじみ感じた」とか。
もうね。
「実は読んでない」「実はわからなかった」とは決して言わない。

私は私の書きたいものしか書けない。
そういう書き方しかできないのだからしかたない。
このブログと同じだ。
私が好きで書いたものに値段がつけられればつけて売りたい。
ついでにこのブログにもたどりついてもらいたい。
逆にこのブログにたどりついた人に私の書いたものもついでに読んでもらいたい。
ただそれだけだ。

人は本を読む。
それは読解するということではないのか。
人は本を読んで何をしているのか。
ただの娯楽なのか。
蒐集して本棚に並べて眺めることなのか。
こんな本を読んだとか何冊読んだとか自慢したいだけなのか。
わかったようなレビューを書いて自己満足することなのか。

つまり、テクニックの問題なのだ。1%の読者はちゃんと読めるとしよう。
のこり99%の読者はただ読んだふりしているとしよう。
しかし本をたくさんの人に読んでもらうためには、
その99%の人にも面白いと思ってもらえるようなものを書かねばならない。
1%の人に面白いと思ってもらい、
自分も書いていて面白く、
かつ残り99%の人にも「面白かったです」と言わせるような本。
どんな本なんだそれは。

例えばだ。
歌舞伎とか能を見るとき、
人は「わからん」とはなかなか言わない。
実は古典とはぐにゃぐにゃと形のないよくわからないものなのだ。
演じている人もまじめに演じるほどにわけわからなくなっていくと思う。
わからないという答えは実は正解なのである。
しかし、古典とは「わかった」「正解のある」ものだとみんな考えるし、
パンフにもそう書いてあるから、
要するにパンフを丸暗記して復唱するような感想しか持ち得ないのだ。
感想を持つということは試験勉強して合格点をとるのと同じことなのだ。
そんなことで「わかった」って仕方ない。
「わかってない」のと何も違わない。

葬式のお経にしてもそうだ。
誰も意味はわかって聞いてないが、あれは、
梵語の読み上げや、漢文の素読や、和讃や、念仏などがメドレーになっている。
特に和讃はわりと面白い。古語がわかれば声だけでだいたい意味はわかる。
結婚式とか七五三の祝詞なんかもあれはただの大和言葉だ。
古語の知識があれば100%理解できる。
歌舞伎のセリフはぎりぎりわかるかな。
でも能は無理だな。当時の話し言葉に近いんだろうが、なじみのない漢語が多すぎて、
意味が取れない。平曲も和漢混交文で読むからわかるんであれを音だけでわかれといっても無理だろう。
ひらがなだけで書かれた平曲もあるがまるでわからん。

お経で鐘や太鼓で派手にやるのはたいてい和讃だ。
あれは庶民にわかるようにパフォーマンスしていた時代の名残だわな。
神様や仏様や霊魂に語りかける言葉は梵語や漢語が使われる。
しかし参列している人にわからせるにはかつては楽曲に合わせて和讃で聞かせていた。
しかし今普通の人にわかるのは念仏の部分だけだ。

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