続後撰集

[続後撰集](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/13/10.html)
だが、
西園寺入道前太政大臣というのが西園寺実氏で、
単に前太政大臣というのが若死にした九条良経であろうか。
この二人は太政大臣だから入選が多いのだろうが、非凡な歌もあるようなので、よく調べてみる必要がある。
定家がダントツに多いように見えるが、定家は巻頭・巻末には一つもないのにたいして、
俊成はなんと春上巻頭、春中巻末、春下巻末、夏巻末、冬巻末に置かれていて、
別格の扱いを受けていると言ってよい。

> 年のうちに 春たちぬとや 吉野山 かすみかかれる みねのしら雪

これはまあ巻頭歌なんでこんなもんだろうが、

> つらきかな などてさくらの のどかなる 春の心に ならはざりけむ

> ゆく春は 知らずやいかに 幾かへり 今日のわかれを 惜しみきぬらむ

> 鳴る滝や 西のかは瀬に みそぎせむ いは越す波も 秋や近きと

> なかなかに 昔は今日も 惜しかりき 年やかへると 今は待つかな

そうそう。これが俊成。
平明で抒情的で優美。
さすがに為家はわかっている。
でもなんで「西の川瀬」なんだろう。深い意味はないのか。
たまたま滝の下流が西だったのだろうか。てことは東山だろうか。

思うに、定家は俊成の子だから、俊成のような素直な歌も割と詠んでいる。
為家はわざと父のそういう歌ばかりみつくろったのではなかろうか。
たとえば

> こころあてに わくともわかじ 梅の花 散りかふ里の 春のあはゆき

> あとたえて とはれぬにはの 苔の色も 忘るばかりに 花ぞふりしく

> 小倉山 しぐるる頃の あさなあさな 昨日はうすき よものもみぢ葉

など。
あまり定家らしくない。
「見渡せば花も紅葉もなかりけり」とか「駒とめて袖打ち払ふかげもなし」みたいに、
ひねくれてもいないしいじけてもないし世をはかなんで落ち込んでもいないし、
モノトーンでも幽玄でもない。
いわゆる、素直な「優なる姿の歌」である。
俊成の歌に似ている。

後鳥羽院ほか、順徳院、土御門院など、承久の乱で流された人たちの歌が多いほか、
選者の為家、為家の子の為氏の歌も若干入る。

> はる風の ふかぬ世にだに あらませば 心のどかに 花はみてまし

これを入れているのもうれしいよね。
これ宇多上皇の歌なんだよね、醍醐天皇に間違われてるけど。

ざっと見ただけだが、センスの良い歌の選び方だと思う。
さらに詳しく読んでみる。

家康転封

秀吉が家康を東海道から関八州に転封したのは左遷であるとか、
居城を鎌倉や小田原ではなく辺鄙な江戸にしたのも秀吉の指図であるとか、
いろいろ言われているわけだ。
しかし、頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、
日本は近畿と関東の二箇所に拠点を置くのが常態となった。
室町時代は足利尊氏の子孫を鎌倉公方とした。
近畿は西日本から中部まで、関東は甲信越から奥州までを支配下に置く。

これらの流れでみるとき、
秀吉が近畿を、家康が関東を押さえるという二局体制にしようと考えたとすべきである。
もし家康に異心があれば、彼を関東に放つのは極めて危険である。
関東は常に騒乱の拠点となってきたからだ。
であればやはり秀吉は生前ずっと家康を信頼し評価していたとすべきではないか。

家康は戦功があるから、三河・遠江・駿河の三国で足りなければではどうするかというときに、
関東をまとめて与えようと考えても不思議ではなく、左遷とは言いがたい。
秀吉の狙いは明や朝鮮であっただろうし、
関東には苦手意識があったと思う。
江戸は上杉氏や後北条氏の頃からすでに関東の要衝となりつつあった。
小田原や鎌倉は関東全域を治めるにははずれすぎる。
室町時代関東は、西の上杉氏と東の古河公方に分かれて対立した。
その最前線に太田道灌が築いたのが江戸城と川越城。
その前例がある。
つまり、関東全域を治めるには、パワーバランス的に江戸川越のラインに主城を置かねばならぬが、
江戸は海に面していて物資を調達しやすい。
やはり江戸でなくてはならなかった。
世田谷城では内陸すぎる。
それらの判断はやはり小田原攻めの最中、石垣城において、
秀吉と家康の間でなされたのであろう。

なるほど、近畿と関東の二局分割を解消するために、
たとえば愛知とか岐阜に首都をもってこようというアイディアもある。
しかし今までそれは一度も歴史上実現しなかった。
橋下市長のように大阪都を作って二都態勢にするというのが、
結局東京一局集中を回避するための現実策ではなかろうか。

詠歌一体2

詠歌一体の前半部分は単に題詠の作法のようなことをうだうだ述べているだけである。藤原清輔が「和歌一字抄」という、一字題の詠み方について書いているのに対して、「池水半氷」のような長い具体的な題をどう詠むか。題のすべてを詠み込むのでなく全部あるいは一部を連想させるようにするとか。初句や上三句にすべての題を詠み込むのは良くないとか。そんな技巧上の話をしていて、為家の趣味や嗜好とは直接関係ないように思えるが、

からにしき 秋のかたみを たちかへて 春はかすみの ころもでのもり

これは「すべて歌がらもこひねがはず、衣手の森をしいださんと作りたる歌なり」と手厳しい。誰の歌かと調べてみると、明日香井雅経。父定家の親友である(雅経は一時鎌倉に住んだので、源頼家、実朝とも親しい。実朝と定家に交流があるのも雅経のおかげである)。定家と雅経は歌風も近い。どちらかと言えばなんかもやっとした、作った歌を詠む人である。これはやはり遠回しに定家を批判していると言えないだろうか。これに対して次の二首

春がすみ かすみていにし 雁がねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に

これは古今集に出る詠み人知らず。

ほととぎす 鳴く五月雨に 植ゑし田を 雁がね寒み 秋ぞ暮れぬる

こちらは新古今に載る善滋為政の歌。これら二つは雅経の歌と同様に春と秋を一つの歌に詠み込んでいるが、雅経の歌ほどはわざとらしくないから良い、などと言っている。まあそう言われればそうかもしれない。

善滋為政はよくわからん人だが、幸田露伴連環記によれば、善滋は「かも」と訓み、文章博士・陰陽師の賀茂氏で、父賀茂忠行はおよそ醍醐・村上天皇の頃の人、兄慶滋保胤はこれも名字は「かも」と訓むらしく、道長の頃の人。為政の歌は拾遺集に初出だから、やはり道長よりかすこし前の人ではなかろうか。このあたりの時代背景を調べ出すと切りがないな。

中宮の内におはしましける時、月のあかき夜うたよみ侍りける 善滋為政

九重の 内だにあかき 月影に あれたるやどを 思ひこそやれ

宮中ですらこんなに月が明るい夜は、粗末な我が家などはさらに明かりが漏って明るいですよ、というかなりふざけた歌。

「泉」という題で「木の下水」、鹿を「すがる」、草を「さいたつま」、萩を「鹿鳴草」、蛍を「夏虫」などとわざと変名で詠むのは良くないと。なるほどまったくそのとおり。

名所の地名を詠み込むときには必ず有名な地名にしなさい、ただし、旅で実景を詠む場合にはそれほどこだわる必要は無い。これも素直に同意できる。

百首など定数の歌合で最初のとっかかりとなる歌を「地歌」というらしい。歌合の歌はその場の即興で詠むべきものであり、たとえ秀歌であってもあらかじめ用意しておいてはいけない(どうしても場の雰囲気とは違う内容になってしまうからだろう)が、地歌だけはその性格上、先に詠んでおかなくてはならない。後拾遺の能因の歌

ほととぎす 来鳴かぬよひの しるからば 寝る夜も一夜 あらましものを

このようなものが地歌だという。確かに歌合の即興というよりは巧んだ歌な感じだ。

やはり為家はわざとらしく作った歌が嫌いである。雅経や定家の歌風を嫌っていたはずである。そして小倉百人一首は定家の原型を為家が完成させたというのもなんか違う気がしてきた。小倉百人一首はあきらかに為家の趣味ではない(かといって定家の趣味でもない)。

為家が選んだ「続後撰和歌集」「続古今和歌集」の傾向を見ればもっとはっきりしてくるはずだ。それでなんとなくだが、小倉百人一首は定家・為家の二代で完成したのではなく、もう少し後の世に、つまり為氏・為世の時代に、なんとなくもやっと成立したのではないかと言う気がする。

詠歌一体

[朦朧趣味](/?p=9201)を読み返してみると、
やはり為家という人は、父定家には似ず、むしろ祖父の俊成に似て、
素直なわかりやすい歌を詠む人であったように思う。
丸谷才一は定家が好きで為家が嫌いなのだ。
だからたぶん俊成もそんなに好きではなかろう。
為氏は定家に輪をかけて幽玄チックな人だったらしい。
どうも父より祖父が好きになるタイプらしいね、この家系は。
だから趣味が代ごとに振動している。
為氏の子・為世までくるとかなりもうへろへろになってる感じがする。

為家の歌論に「詠歌一体」というのがある。

> 和歌を詠むこと必ず才能によらず、ただ心より起これることと申したれど、
稽古無くては上手のおぼえ取りがたし。
おのづから秀逸を詠み出だしたれど、のちに比興のことなどしつれば、
さきの高名もけがれて、いかなる人にあつらへたるやらんと誹謗せらるなり。

俊成・定家・為家・為氏という四代の歌風の変動を見るとき、上の主張はかなり意味深である。
「比興」とは「他のものにたとえて面白く言うこと」とあり、
つまりは、実景を詠まずに、作り事でおもしろおかしい歌を詠むこと、という意味であろう。
まさに父定家や子の為氏はそういう歌を詠むのである。
為家はゆえに祖父俊成のような素直な歌を詠みたいと言っているのではないか。
しかしただ素直な歌を詠んでいても「上手のおぼえ取りがたし」つまり他人に評価されにくいから、
稽古は必要だと。
しかしあまり(定家や為氏のように)稽古しすぎると奇をてらいすぎていかんよと。

例に挙げている歌がまた興味深い。

紅葉浮水
藤原資宗

> 筏士よ 待てこととはむ みなかみは いかばかり吹く 山のあらしぞ

新古今に載る。
ここで紅葉とは嵯峨野のことである。

月照水
源経信

> 住む人も あるかなきかの 宿ならし 蘆間の月の 漏るにまかせて

これも新古今に載る。
この二つは題詠の心得のために例示したものであり、
前者は題を読まないと何の意味かつかみかねる(おそらく上流で花か紅葉が散っているのであろうと予測されるが春なのか秋なのかはわからない)のだが、題をそのまま歌に詠むのはよろしくないと。
後者は「月」は歌に出るが「水」はただ連想させているだけとなる。
題に水とあるから蘆間からは月の光だけでなく、露も漏れているのだろう、ということになろうか。

> 其の所の当座の会などには、只今の景気ありさまを詠むべし。
たとひ秀歌なれども、儀たがひぬれば正体なきなり。

正論である。
わざわざそれを言っているのは、
正直に詠まず、作って飾って詠む輩が多いからだろう。

> 雪降れば 峰の真榊 うづもれて 月に磨ける 天の香具山

祖父俊成の歌だ。
褒めている。確かにすばらしい。

> 見渡せば 波のしがらみ かけてけり 卯の花咲ける 玉川の里

相模。まあこれも実景の歌だわな。
恋の歌は

> しのぶれど 色にいでにけり 我が恋は ものやおもふと 人のとふまで

> うらみわび 今はまだしの 身なれども 思ひなれにし 夕暮れの空

が良いらしい。
前者は有名だが後者は無名の歌だわな。
今はまだ思いが通じていない恋だが、うらみわびて眺めるのに馴れた夕暮れの空、という意味だわな。
確かに面白い。

> 日も暮れぬ 人もかへりぬ 山里は 峰のあらしの 音ばかりして

源俊頼。なるほど確かに良い歌だ。実に単純明快。
ま、いずれにせよ、俊頼や俊成、家隆などは褒めているが、定家の歌が良いとはどこにも書いてない。
これは愉快だ。
暗に父の歌風を批判しているようにも見える。

敷島の道2

[敷島の道](/?p=13857)の続き。

定家の「拾遺愚草」を拾い読みしてたら、
飛鳥井雅経が自分の子・教雅の歩き初めに

> あとならへ 思ふおもひも とほりつつ 君にかひある 敷島の道

定家かへし

> 敷島の 道しるき身に ならひおきつ 末とほるべき あとにまかせて

意味は分かりにくいのだが、
雅経が教雅の歌の指南を定家に頼み、そのお礼に書道の手本を贈った、
それに対して定家は雅経にならって教雅に歌を教えましょうと言った、ということらしい。

歌の配置からみると、定家の子・為家が元服した後の話らしいから、
とっくに鎌倉時代に入っているが、承久の乱よりは前だろう。

どうも雰囲気としては「敷島の道」というのは「歌道」というよりも、
も少し広く漢学や仏教に対する、日本固有のことについての知識や学問や芸能、
つまり国学という意味で使われているような気がする。
まあ、国学の中心は、当時としては和歌だったわけだが、
神話とか神祇とか祝詞とか、歌物語など国文学全般、仮名文字の書き方、
大和心の使い方のようなものまでを包含していたかもしれん。

とか思いつつ広辞苑を調べるとどうやら初出は千載集の序らしい。
つまり定家の父俊成だわな。
よく調べましょう自分。
和歌に出た最初の例はしかし上に挙げた飛鳥井雅経と藤原定家の贈答歌かもしれん。

> 春の花の朝、秋の月の夕、思ひを述べ心を動かさずといふことなし。
ある時には糸竹の声しらべをととのへ、ある時には大和もろこしの歌言葉を争ふ。
敷島の道も盛りに興りて、心の泉いにしへよりも深く、
言葉の林、昔よりも繁し。

うーん。やはり「もろこし」に対する「大和」であり、
漢学に対する国学、という意味に使われている可能性は否定できないよね?
文脈的には「大和もろこしの歌言葉を争ひ」とは和漢朗詠集や新選万葉集のように漢詩と和歌を並列にあつかったようなものだよね。
俊成・定家・雅経には共通認識があったかもしれんが、
ちゃんと説明してもらわんとわからんよね。
つまり、俊成が作った言葉というより、
もともと和歌に限定されない「敷島の道」の用法があって、
それを俊成が和歌集の序に使ったかもしれんわけで。