[Battle of Manzikert](http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Manzikert)や
[Alp Arslan](http://en.wikipedia.org/wiki/Alp_Arslan)、
[Roussel de Bailleul](http://en.wikipedia.org/wiki/Roussel_de_Bailleul)
などを丹念に読んでわかることは、マラズギルトの戦いというのは、
残された記述には矛盾や不完全なことが多く錯綜しているということと、
史実のまま小説にしてもごちゃごちゃしすぎてあまり面白そうではない、ということだ。
だから適当に脚色するしかないと思うが、一応史実は史実としてきちんと把握しておかねばなるまい。
> In 1071 Romanos again took the field and advanced with possibly 30,000 men, including a contingent of the Cuman Turks as well as contingents of Franks and Normans, under Ursel de Baieul, into Armenia.
> Ursel de Baieul was a Norman adventurer (or exile) who travelled to Byzantium and there received employ as a soldier and leader of men from the Emperor Romanus IV.
> he was was sent into Asia Minor again with a force of 3,000 Franco-Norman heavy cavalry.
クマン・トルコとはキプチャク平原にいたトルコ人。
後は、フランク人とノルマン人の傭兵。
ウルゼルはノルマン人の隊長。ノルマンディから逃げてきたか旅してきた。
おそらくライン川とドナウ川をたどってコンスタンティノープルまで来たのだろう。
ロマノス軍は、東ローマ人、トルコ人、フランク人、ノルマン人などで構成されていた。
> At Manzikert, on the Murat River, north of Lake Van, Diogenes was met by Alp Arslan. The sultan proposed terms of peace, which were rejected by the emperor, and the two forces met in the Battle of Manzikert. The Cuman mercenaries among the Byzantine forces immediately defected to the Turkish side; and, seeing this, “the Western mercenaries rode off and took no part in the battle.” The Byzantines were totally routed.
フランク・ノルマンの傭兵は参加しないだろうと見たトルコ傭兵はセルジュークに寝返ったとある。
Manzikert はギリシャ語であり、トルコ語では Malazgirt、イラン語では Malāzgird または Manāzgird、
アラビア語では Manāzjird などとも言うらしい。
いずれにしても、このアナトリアともアルメニアとも言うべき土地は、古代ギリシャ人が住んでいた場所からはかなり外れており、
地名をギリシャ語読みにしなくてはならない義理はない。
よくわからんのでマラズギルトで良いのではなかろうか。マラズギルドと書いても間違いではない。
気になったのは、マラズギルトからアララト山は見えるかということだった。
近頃は現地に行かなくても google earth でだいたいの眺望は把握できる。
マラズギルトはヴァン湖の北、ムラト川のほとりにあるというが、
google map で見ると、山から幾つかの川が流れでて、平原で合流する辺りにマラズギルトの町はある。
アナトリア高原の中の扇状地のような場所だろう。
で、おそらくアララト山は見えるのだが、160km は離れている。標高5000m あっても、少し遠すぎる。
たぶん東京から富士山を見るくらいの大きさである。
マラズギルト要塞の場所には、当時の城塞跡かは知らないが、記念公園があるようだ。
アララト山は見えないが、東の、ヴァン湖の近くに大きな[Mount Süphan](http://en.wikipedia.org/wiki/Mount_S%C3%BCphan)
という山が見える。
これはアナトリアでアララト山の次に高い山だそうだ。
アフラートは、ヴァン湖畔にあり、マラズギルトはそこから北へ、そうとう険しい山岳地帯を越えて 50km くらいのところにある。
アフラートからマラズギルトへ救援に向かうには、二日か三日はかかるだろう。
左図の一つ目は、google earth で、正面に東のシューファン山、右手にヴァン湖があって、
マラズギルト(左)とアフラート(右)を線で結んだものである。
二つ目はヴァン湖畔のアフラートから山を越えてマラズギルトを見たものであり、山がそうとう険しいことがわかる。
[Ahlat](http://en.wikipedia.org/wiki/Ahlat)
> Ahlat and its surroundings are known for the large number of historic tombstones left by the Ahlatshah dynasty.
アフラートにはマラズギルト戦後にセルジューク朝による大規模な入植があった拠点の一つ、
少なくともセルジューク王族の都の一つのように思われる。
ロマノスはアフラートへ[Joseph Tarchaneiotes](http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Tarchaneiotes)を派遣した。
彼の軍勢がどうなったかはわからない。
アフラートを取ることもなければ、マラズギルトに向かいもしなかった、
ともかく行方不明になってしまったようだ。
> Romanos was unaware of the loss of Tarchaneiotes and continued to Manzikert, which he easily captured on August 23
1071年8月23日、ロマノスはタルカネイオテスが行方不明になってしまったことを知らぬままマラズギルトを簡単に落とした。
> The next day some foraging parties under Bryennios discovered the Seljuk army and were forced to retreat back to Manzikert.
翌24日、先遣隊がセルジュークを発見し、マラズギルト要塞に撤退した。
> The Armenian general Basilakes was sent out with some cavalry, as Romanos did not believe this was Arslan’s full army; the cavalry was destroyed and Basilakes taken prisoner. Romanos drew up his troops into formation and sent the left wing out under Bryennios, who was almost surrounded by the quickly approaching Turks and was forced to retreat once more. The Seljuk forces hid among the nearby hills for the night, making it nearly impossible for Romanos to send a counterattack.
アルメニア人の将軍というのは現地テマのローマ人ということだろう。
ロマノスに命じられて出撃した彼はセルジュークに捕らえられてしまい、
ロマノスもマラズギルトまで撤退した。
セルジュークは丘のかげに隠れて反撃を防いだ。
> On August 25, some of Romanos’ Turkic mercenaries came into contact with their Seljuk relatives and deserted.
翌25日、トルコ人傭兵はセルジュークの側に寝返っていなくなった。
> Romanos then rejected a Seljuk peace embassy
ロマノスはセルジュークの和平交渉を拒絶。
> The Emperor attempted to recall Tarchaneiotes, who was no longer in the area.
ロマノスはアフラートへ向かわせた軍勢を戻そうとした。
> on August 26 the Byzantine army gathered itself into a proper battle formation and began to march on the Turkish positions
翌26日、ロマノスは態勢を整えてセルジューク軍へ向けて進撃した。
> Andronikos Doukas led the reserve forces in the rear
アンドロニコスは予備の軍団とともにロマノスの後方にいた。
> The Byzantines held off the arrow attacks and captured Arslan’s camp by the end of the afternoon.
東ローマ軍は昼までにセルジューク陣営まで進んだ。
セルジュークは遊牧民族特有のヒットアンドアウェイ戦法でローマ軍を翻弄し、
ロマノスは日が暮れる前に撤収しようとしたが、
アンドロニコスはロマノスを援護せず、勝手に戦線離脱した。
セルジュークはこの機会を利用して反撃。
結局この日、ロマノスはセルジュークの捕虜になってしまった。