詠歌一体

[朦朧趣味](/?p=9201)を読み返してみると、
やはり為家という人は、父定家には似ず、むしろ祖父の俊成に似て、
素直なわかりやすい歌を詠む人であったように思う。
丸谷才一は定家が好きで為家が嫌いなのだ。
だからたぶん俊成もそんなに好きではなかろう。
為氏は定家に輪をかけて幽玄チックな人だったらしい。
どうも父より祖父が好きになるタイプらしいね、この家系は。
だから趣味が代ごとに振動している。
為氏の子・為世までくるとかなりもうへろへろになってる感じがする。

為家の歌論に「詠歌一体」というのがある。

> 和歌を詠むこと必ず才能によらず、ただ心より起これることと申したれど、
稽古無くては上手のおぼえ取りがたし。
おのづから秀逸を詠み出だしたれど、のちに比興のことなどしつれば、
さきの高名もけがれて、いかなる人にあつらへたるやらんと誹謗せらるなり。

俊成・定家・為家・為氏という四代の歌風の変動を見るとき、上の主張はかなり意味深である。
「比興」とは「他のものにたとえて面白く言うこと」とあり、
つまりは、実景を詠まずに、作り事でおもしろおかしい歌を詠むこと、という意味であろう。
まさに父定家や子の為氏はそういう歌を詠むのである。
為家はゆえに祖父俊成のような素直な歌を詠みたいと言っているのではないか。
しかしただ素直な歌を詠んでいても「上手のおぼえ取りがたし」つまり他人に評価されにくいから、
稽古は必要だと。
しかしあまり(定家や為氏のように)稽古しすぎると奇をてらいすぎていかんよと。

例に挙げている歌がまた興味深い。

紅葉浮水
藤原資宗

> 筏士よ 待てこととはむ みなかみは いかばかり吹く 山のあらしぞ

新古今に載る。
ここで紅葉とは嵯峨野のことである。

月照水
源経信

> 住む人も あるかなきかの 宿ならし 蘆間の月の 漏るにまかせて

これも新古今に載る。
この二つは題詠の心得のために例示したものであり、
前者は題を読まないと何の意味かつかみかねる(おそらく上流で花か紅葉が散っているのであろうと予測されるが春なのか秋なのかはわからない)のだが、題をそのまま歌に詠むのはよろしくないと。
後者は「月」は歌に出るが「水」はただ連想させているだけとなる。
題に水とあるから蘆間からは月の光だけでなく、露も漏れているのだろう、ということになろうか。

> 其の所の当座の会などには、只今の景気ありさまを詠むべし。
たとひ秀歌なれども、儀たがひぬれば正体なきなり。

正論である。
わざわざそれを言っているのは、
正直に詠まず、作って飾って詠む輩が多いからだろう。

> 雪降れば 峰の真榊 うづもれて 月に磨ける 天の香具山

祖父俊成の歌だ。
褒めている。確かにすばらしい。

> 見渡せば 波のしがらみ かけてけり 卯の花咲ける 玉川の里

相模。まあこれも実景の歌だわな。
恋の歌は

> しのぶれど 色にいでにけり 我が恋は ものやおもふと 人のとふまで

> うらみわび 今はまだしの 身なれども 思ひなれにし 夕暮れの空

が良いらしい。
前者は有名だが後者は無名の歌だわな。
今はまだ思いが通じていない恋だが、うらみわびて眺めるのに馴れた夕暮れの空、という意味だわな。
確かに面白い。

> 日も暮れぬ 人もかへりぬ 山里は 峰のあらしの 音ばかりして

源俊頼。なるほど確かに良い歌だ。実に単純明快。
ま、いずれにせよ、俊頼や俊成、家隆などは褒めているが、定家の歌が良いとはどこにも書いてない。
これは愉快だ。
暗に父の歌風を批判しているようにも見える。

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