秀吉が家康を東海道から関八州に転封したのは左遷であるとか、
居城を鎌倉や小田原ではなく辺鄙な江戸にしたのも秀吉の指図であるとか、
いろいろ言われているわけだ。
しかし、頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、
日本は近畿と関東の二箇所に拠点を置くのが常態となった。
室町時代は足利尊氏の子孫を鎌倉公方とした。
近畿は西日本から中部まで、関東は甲信越から奥州までを支配下に置く。
これらの流れでみるとき、
秀吉が近畿を、家康が関東を押さえるという二局体制にしようと考えたとすべきである。
もし家康に異心があれば、彼を関東に放つのは極めて危険である。
関東は常に騒乱の拠点となってきたからだ。
であればやはり秀吉は生前ずっと家康を信頼し評価していたとすべきではないか。
家康は戦功があるから、三河・遠江・駿河の三国で足りなければではどうするかというときに、
関東をまとめて与えようと考えても不思議ではなく、左遷とは言いがたい。
秀吉の狙いは明や朝鮮であっただろうし、
関東には苦手意識があったと思う。
江戸は上杉氏や後北条氏の頃からすでに関東の要衝となりつつあった。
小田原や鎌倉は関東全域を治めるにははずれすぎる。
室町時代関東は、西の上杉氏と東の古河公方に分かれて対立した。
その最前線に太田道灌が築いたのが江戸城と川越城。
その前例がある。
つまり、関東全域を治めるには、パワーバランス的に江戸川越のラインに主城を置かねばならぬが、
江戸は海に面していて物資を調達しやすい。
やはり江戸でなくてはならなかった。
世田谷城では内陸すぎる。
それらの判断はやはり小田原攻めの最中、石垣城において、
秀吉と家康の間でなされたのであろう。
なるほど、近畿と関東の二局分割を解消するために、
たとえば愛知とか岐阜に首都をもってこようというアイディアもある。
しかし今までそれは一度も歴史上実現しなかった。
橋下市長のように大阪都を作って二都態勢にするというのが、
結局東京一局集中を回避するための現実策ではなかろうか。