鬼界ヶ島から和歌を詠み書き付けた卒塔婆を流し、
それが厳島神社まで流れ着いて、清盛にまで達し、
それで恩赦につながったという。
まあ、あり得ん罠。
島に熊野権現をまつったとき俊寛だけは関わらなかった、
というのも伏線というやつか。
それはそうと長野の善光寺が焼けたというのと、平家の滅亡となんの関係があるのかと。
なんかそういうのがやたら多い。
鬼界ヶ島から和歌を詠み書き付けた卒塔婆を流し、
それが厳島神社まで流れ着いて、清盛にまで達し、
それで恩赦につながったという。
まあ、あり得ん罠。
島に熊野権現をまつったとき俊寛だけは関わらなかった、
というのも伏線というやつか。
それはそうと長野の善光寺が焼けたというのと、平家の滅亡となんの関係があるのかと。
なんかそういうのがやたら多い。
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ほんとにできた。
すげえっ。
ダイエットは行きつ戻りつ。
体重の振れ幅が5kgくらいはある。
内臓脂肪はだいぶ落ちたのだろう。
皮がものすごく余る。
腹とあと、背中。
へそ周りに最後の最後まで肉が余る。
これを落とすにはやはりあと5kgほど減らして標準体重にしなくては。
新田次郎著「新田義貞」上下巻を図書館から借りてくる。
いちいち取材旅行しているのがなんとなく、経費で旅費落としているんだろうなあと思わせる。
稲村ヶ崎の解釈はずいぶんくどい、しかし、それが正解だとも思えない。
できるだけ科学的に史実に忠実に記述しようとしたあとがあるが、
そんなことをしてどれほどの意味があるのだろうか。
太平記は確かに作り話臭い。
作り話臭さを解消するために天文学的に分析をしてみる。
しかしそれだけでは単に新解釈を加えたにすぎないだろう。
新田次郎としては、
一ノ谷の断崖を馬で駆け下りた義経のように、あるいは平忠常の乱のとき源頼信が浅瀬を馬で渡ったときのように、
稲村ヶ崎も奇襲であったと解釈したいようだ。
私も最初はそうかと思ったが、
実際には、
六波羅が落ちて関東の武士がこぞって倒幕軍に合流した結果、
鎌倉側がとうとう支えきれなくなって、
たまたま稲村ヶ崎が突破された、
と考えるのが自然ではなかろうかと思う。
幕府に反抗したのはもはや足利尊氏や新田義貞だけではなかったということだろう。
新田義貞が挙兵してわずか15日で鎌倉幕府が滅んだのは、それだけ、
倒幕の機運が満ちていたからだと言える。
また新田次郎は、金剛山が落ちなかったのは、楠木正成が特に有能だったからではなく、
寄せ手にやる気がなかったからだという。
果たしてこの解釈もどうだろうか。
ところで、wikipediaなど読んでいると、
一ノ谷にはひよどり越えのような絶壁はなかったと書いてあり、
また一ノ谷の別働隊は義経ではなくて多田行綱だったという説もあるようだ。
多田行綱は、平家物語では清盛に鹿ヶ谷の陰謀を密告した人物となっているがそのような事実は疑わしいなどとも書いてあり、
どうも摂津源氏の子孫らが行綱に同情的な記述をしているようにも思える。
そのように歴史的に正しいか正しくないかという観点で軍記物語を読んでもおもしろくないのであり、
太平記は太平記のままに読まなくてはつまらんのであって、
史実は脚注に書くなりしてもらえば良いのであり、
戦後民主主義作家の脚色の方がよほどうっとうしいと言う気もする。
* [平家女護島 近松門左衛門](http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~itasaka/jugyou/heike001.html)
* [俊寛 倉田百三](http://www.aozora.gr.jp/cards/000256/files/43686_24405.html)
* [俊寛 菊池寛](http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1101_19885.html)
* [俊寛 芥川龍之介](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/159_15201.html)
平家物語では、巻第二「大納言死去」「康頼祝詞」から巻第三「赦文」「足摺」「有王」「僧都死去」まで、延々と、
ずいぶんな分量を費やして、俊寛が流されて死ぬまでの話が記述されている。
また、有王が俊寛を訪ねたのは、清盛が死ぬより前、平家全盛の時代で、
流刑になった三人のうち二人だけが恩赦で帰ったすぐ後である。
俊寛の家族は妻と娘、さらに若君が京都に残されていたが、若君に続いて妻がなくなり、
娘の手紙を有王が髪の毛の中に隠して俊寛にもたらしたことなっている。
そして俊寛は食事をとらずに餓死する。
倉田百三の話はだいぶオリジナルに似ているが俊寛の家族はみな死に絶えたと有王から聞き、
俊寛自身は岩に頭をぶつけて自殺する。
菊池寛の話では、平家が滅んだ後に有王が訪ねてくると、俊寛は土地の女性と結婚し子供ももうけており、
釣りや農耕などして自給自足、楽しく暮らしている。
平家が滅んだと聞いても都に戻る気すらない。
有王には、「都に帰ったら、俊寛は治承三年に島で果てたという風聞を決して打ち消さないようにしてくれ。島に生き永らえているようなことを、決していわないようにしてくれ。・・・俊寛を死んだものと世の人に思わすようにしてくれ」
と言って分かれる。
芥川龍之介の話では、有王が訪れる時期は清盛が生きている間なのだが、
俊寛はすでに現地で妻がおり、なんとなしに隠遁生活を送っており、四方山話をしたあと
「見せばやな我を思はん友もがな磯のとまやの柴の庵を」との歌を残して有王と分かれることになっている。
この辞世の歌は平家物語には見えないが源平盛衰記では俊寛が一人島に残されたときに詠んだことになっており、
有王に残したとはかかれてない。
ふと、芥川龍之介はなんでこんな退屈な内容の「俊寛」をわざわざもう一つ付け足さなくてはならなかったのか、
と思う。
わざわざ倉田や菊池の前作を参照してまで、何か新たな解釈がしたかったのだろうが、読んでみて、
いったいどこで何を言いたかったのか、よくわからんのである。
平家物語を、鬼界ヶ島に三人の男が流される、という辺りまで読んで、
なんかどこかで読んだことがあるなと思ったら、
菊池寛の「俊寛」だった。
三人のうち俊寛だけが許されず、鬼界ヶ島に住み続けるのだが
「自分で拓いた土地に、自分の手で蒔いた種の生えるのを見ることは、人間の喜びの中では、いちばん素晴らしいものであることを、俊寛は悟った。」
といった具合にいつの間にか原住民の暮らし最高みたいな話になっていく。
この話は実はけっこう有名で、
近松門左衛門が浄瑠璃にし、菊池寛に続いて芥川龍之介も小説にしたらしい。
ははあ、なるほど。
芥川龍之介の俊寛の冒頭で、
「ある琵琶法師が語ったのを聞けば、俊寛様は御歎きの余り、岩に頭を打ちつけて、狂い死をなすってしまうし、わたしはその御死骸を肩に、身を投げて死んでしまった」といっているのは倉田百三の戯曲「俊寛」のことで、
「またもう一人の琵琶法師は、俊寛様はあの島の女と、夫婦の談らいをなすった上、子供も大勢御出来になり、都にいらしった時よりも、楽しい生涯を御送りになった」と言っているのが菊池寛の小説「俊寛」なのだなあ。
平家物語の中に保元・平治の乱の記述がないのはそれぞれ保元物語、平治物語というものがあるからだろうか。
神田神保町の某古本屋で吉川英治著新平家物語全16巻セットを1600円で購入。
異様に安い。
内容はまあまあ。
村上春樹著、平将門研究とかいう本があったので、wikipediaで調べてみたが、
1Q84の著者とは同姓同名の別人らしい。
実に紛らわしい。
神田駅西口の某居酒屋で美少年1合300円であったので、飲んでみる。
昔ながらの甘い酒。
美少年酒造は火の国酒造と社名変更したそうだ。
美少年ブランドの酒はおそらく在庫限りでもう飲めまい。
平家物語には驚くべきことに、
保元の乱も平治の乱も出てこない。
いや、保元・平治の頃などという言及は出てくるのだが、
物語として記述されてない。
不思議と言えば不思議だ。
保元・平治の乱については既知として読まねばならない。
重盛の性格描写も清盛に劣らぬくらい不自然だよなあ。
思うに、応仁の乱の頃は登場人物も多くなんかごちゃごちゃしてて、
よくわからんがそれに比べると鎌倉幕府の頃まではシンプルでわかりやすいと思っていたのだが、
実際のところは後世になるほど日記などの基本資料の数が増えて、
説話や軍記物に頼らずとも歴史が構築できるので、
自然と話がややこしくなるのだろう。
平家物語は、敵味方や善悪があまりにも単純化されていて、
歌舞伎や浄瑠璃程度しか歴史を反映してないのだろう。
清盛や重盛がほんとはどんな人間だったかなどはほんとはよくわからないのだな。
途中で滅んでしまった平氏にくらべると源氏のほうはそうとう詳しく歴史が残ってる感じだわな。
白河上皇と平忠盛に関連する、祇園女御、兵衛佐局の話、
特に平清盛が忠盛でなく白河上皇の子であるうんぬんの話は、
平家物語にはなく、源平盛衰記にだけある。
平家物語は忠盛などの前置きがあまりなく、ただちに清盛の時代になっている。
ふたたび、平家物語。
「二代后」という話があって、
藤原多子(「まさるこ」と読むらしい)が近衛天皇の后となったが、近衛天皇は17才で崩御し、
多子は太皇太后となる。
太皇太后といっても当時まだ多子も17才だった。
その後、後白河天皇をはさんでその次の二条天皇の強い要望により(と平家物語には書かれている)再び入内して后となった。
それで多子のことを「二代后」という。
当時、多子21才、二条天皇は18才。
しかし二条天皇も23才で崩御し、その後多子は出家する。
ちなみに近衛天皇は二条天皇の叔父に当たる。
ふうん、そんな話があったんだ、とは思うものの、これまた源平合戦とはなんの関係もない、
単に平家一門全盛時代にあった一つのエピソードに過ぎんよなこれは。
この、平家物語を読んで行くに、確かに平清盛はやってることはえげつなく、悪者だったかもしれんが(笑)、
権力抗争というものはどうしても極端まで行ってしまうものであり、
同じことをかつて藤原氏がやってきたのであって、
平氏だけが責められる筋合いのもんではないような気がする。
藤原道長だって四天王とかいう自警団もっててそうとうあくどいことやってたに違いない。
清盛の嫡男、重盛は忠と孝のはざまで苦しんだ「義人」のように書かれているが、
これもどうだろうか。
あの状況では平氏は藤原氏に取って代わるより他に方法はなく、
清盛がやっていたことも、その後源氏や北条氏がやってきたことと大差はない。
藤原氏が平氏を憎んで滅ぼして、結局は源氏がその役割を引き継いだに過ぎない。
ならば重盛がもっと要領よくやった方が動乱は少なくすんだ可能性が高い。
天皇家や藤原氏とうまくやっていれば平家一門はもっと長く続いただろう。
いやあ、しかしすごい時代だな。
政争・戦乱、また戦乱。