地雷原

定年まであと6年半、今の仕事を後任に引き継げる程度に適当に整理してゆっくりとフェイド・アウトしていく予定だったが、実際に役職につき仕事に手をつけてみるととんでもなくたくさんのことを裁かなくてはならないような気がしてきた。いや、職務上、手を付けるべき案件ばかりであるが、もっとも賢いやり方は、まったく手をつけない(で、かつ手をつけたふうに処理する)ことだとも思える。現状には確かに問題がある。しかし私にそもそも、それらを改善する義理があろうか。渡世の義理。一宿一飯の義理。結局万事がそんな浪花節的な問題に思えてくる。

私はもともと周旋屋ではないし、40代の頃までは積極的に人間関係を広げようとしてきたが、その後外の活動も人付き合いも減らしてきたから、なんかやれと言われても簡単に手配はできない。できることといえばごく身近な人で、手伝ってくれそうな人のつてを頼って人を呼んでくる、それもある程度時間の余裕を見て早めに手を付ける、くらいしかない。今までもそうしてきたつもりだが、これからはよけい慎重にやる必要がある。

地雷を踏まぬようにといろいろ予防線を張ってきたつもりだがまんまと地雷原のど真ん中にはまってしまった。困ったことである。

老後の楽しみ

何もやることがないときに、無理になにかをやろうとする必要はないと思うんだよね。そういうことは若い頃はやったほうが良いかもしれないが、年を取ったら、なにもせずぼーっとしていた方が良い。もちろん差し迫った仕事があったり、どうしてもやりたいことがあればやれば良い。だが、何もなければ何もしない。

定年退職した後の年金ぐらしの年寄りってさ、金が無いけどなにかやってなくては気がすまないから、朝からずっと図書館で新聞読んだり、雑誌読んだり、散歩したり。ちょっと色気のあるやつはユーチューバーやったり。金持ちなら旅行したり飲み食い歩きしたりするわけじゃん。やっぱそういうやつって必要なのかな。

自分でも死ぬほど退屈だと、そういうことやっちゃうのかな。たぶんやっちゃうんだろうな。一番ありがちなのはずっとネット見てたり、なにかもの書いてたりするんだろうな。子どもの頃は油絵なんかも描いてたから、あれはすごく時間がかかるからひまつぶしにまたやってもいい。作曲は最近覚えた趣味だがあれもすごく時間かかるからやってもよい。なんならなにか楽器の演奏、ピアノの練習でもやるか。

何にしろ、仕事を趣味にしたくはなかった。仕事というのは賃金労働のしごとね。そんなものは定年退職したら何もなくなってしまう。定年とともになくなってしまう趣味なんて最悪じゃないか。定年後こそは自分の趣味が必要になってくるのにさ。城山三郎だっけかな、毎日が日曜日って。そんなの最初からわかってることじゃん。

だから何もかも前倒しで、今のうちに、定年後に遊べるような趣味を覚えておく。それ以外のことは、定年後には不要なのだから、今のうちに断捨離しておく。

ただほんとに、何もしないのが一番良いような気がする。只管打坐ってやつ。ただもう何もせず一日ぼーっとする。そんなことを若い頃やっては時間の無駄だ。将来のためになにか無理にでも、優先順位をつけて、学んだり仕込んだりしなきゃいけない。しかし年寄りはそんなことする必要がない。後は死ぬだけなのだから、なにかふと思いついてやりたくなるまでただぼーっとしてれば良い。優先順位がすごく低くてもいま衝動的にやりたいことをやればよい。なんて贅沢な時間の使い方だろう。これこそ老人にしかできない贅沢だよな。例えば撮りっぱなしにした写真の整理だけでも1週間はつぶせるだろう。何をやれば良いが思いつかないと毎日同じルーチンを繰り返すことになる。それは嫌だ。朝起きて、散歩して図書館言ってスーパーで惣菜買って晩酌するとか。なにか変化を持たせたいよね。

カントは毎日同じ道を同じ時刻に散歩したっていうが、そういうことをやりたいやつはやれよと思う。でもたぶん毎回同じことをやりつつ毎回なにか違うことがあったんだと思うよ。

給料をもらってやる仕事

60才にもなると人生の総括みたいなことをやってしまうのだが、世間の評価というものは別にして、自分自身で満足のいく仕事をしたかどうかという、自分自身の価値基準に基づいた評価で言えば、高校生の頃から大学院生の頃にやった仕事というものは、良い仕事だったと思うのである。私は博士課程まで進学させてもらい、その後大学で助手になった。そのくらいまでの仕事はまあまあの出来だったと思う。

ところが大学教員という仕事に就いて、給料をもらいながらやった仕事というのは、今から見るとどれもこれもまったくダメだ。つまり、賃金という報酬を得るためにやる仕事というものを、これまでに30年ほどやってきたわけだが、これは自分に与えられた、もらった給料の分の仕事をして世の中に報いることで精いっぱいで、自分で満足できるような仕事は一つもできなかった、ということなのだ。学生の頃にやった仕事は給料のためにやったものではない。自分がやりたくてやった仕事、自分が自分で選んでやった仕事だった。

いわゆる「社会的業績」、つまりなんとかという大学の教員になったとか、なんとかという役職についたとか、論文を何本なんとかという学会の論文誌に通したとか、そういうことは私にとって、職を離れ死んでしまえば何も残らないものであって、少なくとも、自分にとっては何のご褒美にもならない。なんとかという勲章をもらいました、ということも私にはあまり意味はない。意味のない仕事をして勲章をもらった人を多く知っているからだ。むしろ自分の好きなことを単著で書いて世の中の人に読んでもらったほうがましだ、と私なら思う。その本によって私は死んだ後も人々に記憶されるかもしれないし、何か社会貢献できるかもしれない。

今は教員として働きながら、個人の、ある意味趣味の仕事もしているわけだが、こちらに関しては私は割と満足している。つまり、死んだ後も残るような、というか、残したいような仕事をしている。残ってくれると良いと思っている。大学教員という仕事は自分のやりたい仕事をやるために必要な地位である、ということは言えるかもしれない。しかし言えなかったかもしれない。もっといろんなことができたはずなのに。こんなはずではなかった、という気持ちが強い。少なくとも、今給料をもらいながらやっていることは、今の職を辞めてしまえば後には何も残らない。こんなものが残るはずがない。まったくもって、金のために切り売りしただけの仕事だ。今の肩書は仕事をするのに便利かもしれないが、残念ながら私はそれを全然活かせてはいない。

そうしてみると私は、給料をもらいながら、やりがいのある、満足の出来る仕事のできない人間だということになる。或いは今私がいる環境はそういうことができそうでできない環境だと言える。丸谷才一みたいに教員をさっさとやめて専業の作家か何かになれればよかったのかもしれないが、私にはそんな才能もなかったし、そんな機会もなかった。永井荷風も教員だったが辞めてひどく困窮したらしい。

もし私が給料をもらう仕事をしなくてもすむ身分だったらもう少し有意義な仕事ができたかもしれない。給料をもらう仕事をしている時間、自分の好きな仕事ができていたら、何かもっと良い仕事ができたかもしれない。

いや、世間の人はいうだろう。うぬぼれるなと。給料をもらってやったからこそ多少は世の中のためになったのだ。給料をもらわず勝手にやった仕事なんて所詮自己満足で、世の中にはなんの役にもたってないのだと。

確実に言えることは、私は給料をもらってやる仕事と、やりがいを、結局両立できなかったってことだ。

安藤レイを出版停止にした

『安藤レイ』は私が46才で心臓を悪くして入院したときの体験をもとに書いたSFで、自作の漢詩を載せたり、なんとかという新人賞に応募して一次通過したり、しばらくして安堂ロイドというテレビドラマが出たりと、いろんなことがあっていろんな思い入れもあるんだが、いろいろ手直してしてkindleに出していたのだが出版停止にした。

SFとしてオチが古臭すぎるというのが一つある。今ならこんなネタのSFは書かないだろう。直しようはあるかもしれないが、すぐには思いつかない。

研究職にあった主人公が工場長になるんだけど、この工場長の描写があまりにも薄すぎる。今ならもっと面白く書けると思うのだが、手直しするには手間がかかりすぎる。

そう。全面的に書き直さなきゃならないがそれは容易ではない。だからとりあえず出版停止にした。SFはこの後に、『妻が僕を選んだ理由』とか『天女降臨』などを書いたのだが、これらは今のところ手直ししなくてもよかろう(そのまま out of date してもよい)と思っている。

工場長に就任して前任者に話を聞きに行く。前任者は忠告する。工場長の任期は2年しかない。前任者のやった通りにやるのが一番苦労がない。新しいことをやろうとしても10のうち1できるかどうかだ。場合によっては100のうち1できるかどうかだ。前任者がやったこと、やらなかったことにはどれも理由がある。前任者がやらなかったことをやろうとすれば必ず何か障害がある。その障害を乗り越えて組織を変える頃には任期は終わっている。だから何も新しいことはしないほうがよい。

とまあ、こんな忠告を受けて、工場長となった主人公は、地元で雇われた番頭さんみたいな人たちに万事任せて気楽に仕事する。

というような話に書き換えたい。もともとそういう話ではあったのだが、より具体的に、リアルな、よりえぐいものが今なら書けるはずだとおもう。でも当分やらないし、たぶん永久にやらないと思う。

還暦

若い頃は遥か遠くにあるもののように見えていた還暦というものが間近に迫ってくるとやはり人は誰しも苛立ちとか焦りのようなものを感じるのだろう。また二度目のアブレーションを受けることが決まり、結局私の考えていたことよりも医者が言っていたことのほうが正しかったことがわかって、それもまたいら立つ原因になっていたと思う。

ある立ち飲み屋のおばさんは、確かな年齢は知らないが私よりたぶん10才くらい年上だろう。一時期大病を患って店を閉めたり開けたりしていたが、普段からテニスやスキーなどをやっているせいか今は極めて健康であるという。

私の周りの60過ぎたおっさんおばさんたちは、健康な人も病気がちな人も、みんなあっけらかんとしていて、私だけがくよくよ気にしているような気がしてしかたない。私の場合46才から今までずっと入院したり退院したり通院したり、また入院して手術を受けたり、薬を毎日飲まなきゃならなかったりで、病気と常に真正面に向き合っていなくてはならず、体はともかくとしてメンタルをやられてしまった。若くして癌にかかってしまい闘病生活を続けている人も同じような気持ちなのだろうと思う。定年後時間が有り余るようになって病院に通うようになるのはもう覚悟も決まっているしそんなにストレスにはならないのではなかろうか、などと考えたりもする。

私の場合、拡大性心筋症というやつなので、心臓にはできるだけ負担をかけないようにしなくてはならないし、そもそも運動とかスポーツというものが嫌いだからやる気もないのだけど、これからは心臓に負担をできるだけかけないようにして、心臓をできるだけ長持ちさせて死ぬまでだらだら生きていくしかない。私の場合自覚症状はないし日常生活には何も困っていないのだが、でも重症であることには変わりないわけで、運が悪かったとも言えるし、この程度ですんでよかったということもあるのかもしれない。ともかく問題は体というよりは気の持ち方だと思う。考えすぎるのが良くない。だが考えないというのがこれがまた非常に難しい。こういうふうにブログに吐き出したほうが楽になるともいえるし、書けば書くほど考えてしまうからよくないともいえる。なんとも言えない。

私の祖父は75才くらいで死んだのだが、最期の頃は足がむくんでいた。つまり心臓が弱っていたのだが、ある日突然心臓が止まって死んだ。まあそんな感じで死ねたら別に悪くもない。むしろあまり長生きして家族に面倒をかけたり、老人ホームに入って無駄飯を食うのは嫌だ。しかしぼけてしまった方が自我がなくなって楽に死ねそうだから、そうなりたいという気持ちもどこかにある。

いずれにしても今後年寄というものはどんどん社会のリソースを食ってしまう。どうにかすべきではなかろうか。できるだけ社会に負担のかからない方法で年寄を本人が気のすむまで生かしておく方法というものはできないものなのだろうか。正直私は定年後は、遊んでも良いが仕事はもうしたくない。こりごりだ。

話は全然違うんだけど、普通の人にとって読書とは、今日はどこそこのレストランで食事したとか、どこそこの温泉に泊まったとか、そういうイベントというか、趣味というか、余暇の過ごし方の一種のように思える。

若いうちは、本をかたっぱしから乱読するのも良いかもしれない。

しかし今の私にとって、ゆっくり本が読める喫茶店とか、ファミレスとか、あるいは図書館などというものはまったく必要ない。むしろ、図書館にいると本が読めなくて困る。東京都立中央図書館とか国会図書館で紙の本を読むのが一番苦手だ(この二つの図書館は本の貸し出しをやってないので館内で読むしかない)。

私にとってはすべての本がデジタル化されていて、読みたい箇所がただちに検索できればそれでよい。ゆっくり本が読みたいと思うことはあるが、読み始めるとすぐに読み続けるのがつらくなる。基本的につまみ食いしかできないたちなんだと思う。

昔の人はLP盤のレコードを擦り切れるまで聞いたとかいうけど、ほんとかどうか知らないが、そういう読書をする人が案外多いのだろう。レコードや本の蒐集家にはそういう人が多そうな気がする。私はもちろん蒐集家ではない。手元に置いておいたほうが便利な本だけを身の回りに置いている。ただそれだけだ。

最初から最後まで著者が書いていることが自分が読みたいことであれば読めるかもしれないが、たいていはそうではない。著者に付き合って読み続けることが苦痛になってくる。どうしようもなく退屈になってくる。だから途中でやめてしまう。若い頃は本に書いてあることすべてが珍しく新鮮で面白く全部読んでしまう。読了した時点ではまだその本のことがわかってない。二度、三度と読んでいるうちにだんだんわかってくる。この本好きとか嫌いとか、この著者好きとか嫌いというのが、5年とか10年後にわかってくる。

そうやって好き嫌いというものがはっきり最初から固まってしまったから、今は1冊読み終わる前に飽きてしまう。いろんな本を読み過ぎたせいで先がだいたい読めてしまう。たぶんそういう状況なんだと思う。

村上春樹は1Q84を最初の1章だけ読んでみたのだが、ははー、こんな文章を書く人なんだなと思い、それで読むのをやめてしまった。私の場合、続きを読んでみたいとか、結末まで読んでみたいという気にはならなかった。

たぶんそんなふうになったのが、40代半ばくらいで、読みたい本がなくなってしまったので、それで自分で小説を書くようになったのだと思う。小説を自分で書くと言うことと、その小説をうまくかけるようになるというのはまた違うのだけども。

これまた全然関係のないことではあるが、世の中には、柳田国男はどうして桂園派にこだわり現代短歌を拒絶したのかとか、江藤淳はなぜアメリカ留学までして戦後に保守派、右翼になったのかとか、最初から結論ありきで論文を書く人がいる。どんな愚かなことを書いているかと思って読んでみると、どうでもよいことをいろいろ調べ上げて、こまかなことをだらだら書き記して、読んでみても結局、だからどうなんだという感想しかでてこない(そういうユーチューブの動画やブログ記事は多い。長いだけで結局何も言ってない。カマラ・ハリスの演説みたいなもんだろう)。そして、柳田国男や江藤淳の考え方を理解しようとか、寄り添おうという気持ちは一切無い。自分の先入観を書き換える気ははなから無いのだ。世の中にはこういうたぐいの研究者しかいないわけではなく、きちんとまじめに地道な仕事をする人もいる、世の中にはそうした当たり外れがあるものだとあきらめるしかない。

はてブ

リビングのテーブルに厚手のビニールのシートを敷いて、テーブルとビニールシートの間に地図を挟んで眺めたりしている。今は北海道を眺めているのだが、最初はなんとも思わなかったが、見ているうちにだんだん強い圧を感じてくる。北海道の上を何万という熊が歩き回って、オレタチ、ニンゲン、クウ、みたいなことを熊語で呟いているような気がする。昭文社の地図なのだが、択捉島が右下に別枠で描かれていて、それをハサミで切って右上のほうにつないでみたのだが、どうも縮尺が合わない。ほんとうの択捉島はもう少し大きいはずなのだ。こういうことをされると困る。デジタルの地図なら、指で広げて大きさを変えられるのに紙の地図では拡大縮小できなくて困る。

北海道には振興局、総合振興局というのがあちこちにある。それが行政区域になっているらしい。国が予算をかけて振興しないことにはあっという間に原野に返ってしまうのだろう。明治になって鉄道を通してやっと北海道は開拓できるようになったわけだ。江戸時代の徳川幕府がしり込みして大して開拓しなかったのもわからんでもない。私が老中松平定信の立場だったとしても、敢えて手をつけようという気にはならなかったと思う。今から思えばロシアが南下してくる前に幕府が直轄領でも作って管理してればよかったのにと思うが、当時は思いもよらなかったのに違いない。イギリス人が罪人をオーストラリア送りにしたように、徳川幕府も罪人を国後島とか択捉島とか樺太なんかにどんどん流せばよかったのに。そうしたら彼らが勝手に自活して開拓したんじゃないかと思ってしまう。

何もやる気が起きないので何もやらないよりはとブラウザのブックマークの整理をしたり、はてなブックマークをせっせとつけたりしている。はてブをつけるのはおとなり日記という機能を使って、私の読みたい日記を自動的に見つけてほしいからだ。

複数のPCで chrome を使ってブックマークを共有するとブックマークにどんどん重複ができてきて手に負えなくなる。それをちまちまてまひまかけて整理したりなどした。

宣長、小林秀雄、三島由紀夫などで検索すると割と面白いブログはみつかるのだが、たいていみんな読書感想文程度のことしか書いてなくてがっかりする。そもそも面白いブログを見つけたからといってどうだというのだ、いったいこんなことをやってなんの役に立つのかと思うが、あと20年ばかりの人生、どうせ20年経つ前に飽きてしまうんじゃないかと思うので、長すぎることはあるまいと思っている。

松岡正剛の千夜千冊なども非常な労作だとは思うが、いま改めて読んでみると大したことは言ってない。本から本へ、次から次に横断していくだけであり、著者や、思想に沿っていったりきたりたどったりといった読み方はしてない。例えばだが、宣長から真淵へ移ったり、また真淵から宣長に戻ったり、さらに荷田春満や契沖に行ったり、そこから伊藤仁斎や荻生徂徠へ行ったりという読書はしていない。そういう読み方をしているかのように見えるところもあるがそうではない。一冊の本を頭から終わりまで読んでその感想を書いているだけだ。たとえば「吉川幸次郎 仁斎・徂徠・宣長」でも、吉川幸次郎が「仁斎・徂徠・宣長」という本を書いたから彼らをパラレルで論じているだけのことで、それ以上の深みはない。

映画ならば頭から最後まで見ましたというレビューでもよかろう。単独の本の感想もそんな感じでよかろう。しかしそれだけが読書であろうか、と思わせる。読書とははたして一冊で完結するものなのか。一著者で完結するものなのか。一時代で、一国で完結するものなのか。小林秀雄などは『本居宣長』で、あちこち寄り道したり、バックトラックしたり、そんな読み方をしていたし、だからこそあの著作は読んでいて非常に骨が折れる。

退屈なのは仕方ない

若い頃は10年後20年後30年後世の中がどのように変化していくかわからないから、windows、mac、linux など複数のOSを並行して使ってみる、などということをすることに意味があるかもしれない。ブラウザーも firefox、chrome、brave なんかいろんなものを試しに使ってみる。いろんな可能性を試し、いろんなことに保険をかけるという意味もあり、また柔軟にものごとに適用できるようになったほうがよい。

しかしながら、老い先短くなると、そんなにいろいろやっても仕方ない。自分が死ぬまでの間、一番慣れているものを使えば良い、ということになる。

定年退職するとヒマになるから linux をメインにして windows もサブで使う、みたいなことを考えていて、ubuntu を試しに割と使ってみたんだけど、結局いろんなところにいろんな不満が残る。microsoft にしても apple にしても世界中に多くの顧客がいて、ものすごい金と人が動いていて、それに比べれば linux のコミュニティは明らかに貧弱で、サービスを受けられないのは仕方ないとして、不具合を解決できないというのはもうどうしようもない。なので観念して windows だけ使うようにしようかと思っている。

ubuntu を使うならブラウザは firefox をメインにしようかとも思ったが、やはり firefox はかなりもっさりしている。特に youtube。firefox で youtube を見ているとときどきサムネイルの読み込みが止まったりする。やはり youtube は chrome と一番相性が良い。それはもう仕方のないことなのだ。

また brave も暫く使ってみて、結局 chrome と大差はない。少なくとも brave と chrome を両方並行して使う意味はあんまりない。だから、職場用のアカウントと個人用のアカウントを chrome で使い分けていればそれでいいじゃんという気になってきた。

やってみてわかったのは、ubuntu と windows を並べて2画面で使うよりも、windows 一つでデュアルディスプレイで使ったほうが、ずっと使いやすいってことだった。あたり前のことなんだがデュアルディスプレイだとウィンドウを片方にどかしたりもってきたりできる。別々のOSで使っているとそもそもマウスをOS間で動かすこともできない。マウスとキーボードが2つ必要になる。いろいろと面倒だ。

で、話は戻るが定年後ヒマになるから趣味を増やしたりOSやブラウザを複数使った方がよいのではないかとも思っていたが、それは逆で、やはりそこらあたりは極力シンプルに、断捨離したほうがよい。ヒマをもてあますくらいでちょうどよいのだと思う。一度、ヒマでヒマで死にそうになるくらいヒマになってみたほうが良い。それで、あれこれ手を広げて趣味を増やそうなんてしないほうが良い。ただもう、ほんとうにやりたいことだけを、毎日繰り返しながら死を待つというのが良い気がする。いろいろと貪欲にあれこれやってみるというのはやはり若者には有効でも、年寄にはなんの意味もない気がする。意味のないことをあれこれやっても仕方ない。

何もすることがないときは何もしない。ただ雑念がわいてくるのに任せてぼーっとしている。それが年寄の生き方というものではなかろうか。

サンテFX Vプラス

サンテFX Vプラスっていう目薬をさしてみたら、これがオレの目か、っていうくらい白目が白くなった。

最初から目薬させよって思った。

だがしかし今度から血管収縮剤の入ってない目薬にしようとは思った。見た目だけ充血が消えてもしかたない。

よく見たら使用期限2015年だった。今ではもうこの目薬ふつうに売ってない。

サンテPCなど買えばよかろうか。

カルト

白目が充血しているのは、手で目を無意識のうちにこすっているからではないかという仮説を立てて、意識して目をこすらないようにしてみたのだが、あまり効果はみられなかった。また、夕方よりも、朝起きたすぐのほうが充血が少なかった。

目が充血しているのはパソコンの画面の見過ぎ、目を酷使しすぎているせいだろうと思われる。右目より左目が充血しているのは左目を余計に酷使しているのかと思う。目が疲労して、栄養や酸素が足りなくなり、酸素や栄養を目にどんどん送り込まなくてはならないので、血量が増えその結果白目が充血するのだろうと思われた。

なので、暇な時間にはyoutubeを見るのではなくaudibleを聞くことにしてみた。ところが困ったことにaudible よりもyoutubeのほうが朗読にせよ講演にせよ音源がたくさんある。それでyoutubeで小林秀雄や渡辺昇一などを聞き始めた。

渡辺昇一が騎馬民族征服王朝説はおかしい、江上波夫が文化勲章を受けたのはおかしいと言っていて、その根拠としては古事記をはじめとする日本神話には馬が全然でてこない。出てくるのはスサノオノミコトが天照大御神の家に野生の馬の生皮を剥いで放り込んだという話だけだ、それに比べて神様が海からやってきたとか海の神様の娘と結婚したとか、陸を迂回して海を経由して攻め入ったなどという話はいくらでもある。

そもそも騎馬民族が大陸から渡ってきたのであれば、日本列島が島国であることすらわからなかったはずだ。なぜなら、本州の最北端まで騎馬民族が攻め入るまでは、日本が島でできていることはわからないはずだと。

そりゃまあそうなので、縄文時代からずっと日本は島国だってことは日本人は知っていたはずなので、その後に稲作が入ってきて、かなり短い期間で、稲作が広がっていって、その勢力がじわじわ東を圧倒していったということはあったかもしれないが、日本人というものは基本的には縄文時代と弥生時代では違いがないはずだ。

あと渡辺昇一は、小林秀雄という人は、ボードレールがポーなんかを批評していたのを真似して日本語で批評を始めた最初の人だなどと言っていた。なるほどそれ以前の例えば夏目漱石や正岡子規などの批評というのは荻生徂徠や頼山陽などの論説とほとんど連続していて、その根底には漢文の素養があるわけだ。小林秀雄が面白がられた理由は漢文ではなくフランス語の、当時のフランスの文芸批評の口ぶりをそのままそっくり輸入したからなのだ。

その小林秀雄が戦後敢えて本居宣長を書いた。誰も小林秀雄の「本居宣長」を理解できなかった。その理由の第一は小林秀雄自身にある。彼はもともと洋物の文芸批評をするはずの人だったのにそれがこてこての和物の評論を始めたのだ。しかも、敗戦後、国学などが徹底的に批判されていたときに。どうも小林秀雄という人は周りとことさら違うことがやりたい人らしい。戦前には、漢文調の論評が主流な中で欧文調の批評をやって読書人らに大いに受けた。戦後はその真逆をやってみたが、今度はさっぱり当たらなかった。そりゃそうで小林秀雄のファンというものはみな基本的に西洋かぶれで、和風な評論が嫌いなのだ。なのに、小林秀雄がまじめ腐って宣長を論じた。おもしろいはずがない。ただそれだけのことかもしれない。

それで、連載中は誰も話題にもしなかった『本居宣長』が単行本で出ると書いた小林秀雄本人がびっくりするくらいに売れた。これまたわけわからない。戦後しばらくたって、みんな宣長がわからなくなっていたころ合いに出たから、みんな読んでみようかと買ってみた。買ってはみたものの、結局読まず、まともに論評もされず、みんな書斎の飾りにしてしまった。実にばかげている。

それでも小林秀雄という人は恐るべき人で、本居宣長のかなり本質まで見抜いていた。見抜いていたけれどそれをおフランスの文芸批評の文体と論調で書いたものだから、とてつもなくちぐはぐなものができてしまった。小林秀雄はたぶん、ものすごく地頭(じあたま)の良いひとなのだろう。なんでも直感的に一瞬で見抜いてしまう。しかしそれを論理的に説明できる人では必ずしもない。だから彼の文章は悪文と呼ばれる。論理的に破綻している、または、何を言いたいのかわからない、ただのきどった美文だなどと言われ、私もほとんどの文章はそのたぐいだろうと思う。

江戸天保時代に宣長はあれほどの高さまで到達していたのに、今の人は全然宣長を理解できていないと思う。戦前の国粋主義者らもわかったようで何も理解してなかった。まして戦後の左翼には危険思想としか認識できなかった。小林秀雄はかなりのところまで肉薄していたが、しかしまだまだよくはわかっていなかったと思う。

渡辺昇一は宣長というひとはオカルティズムの人、スピリチュアルな人、精神主義な人であるという。小林秀雄が宣長は精神主義と言ったせいで国粋主義と誤解された、宣長や小林秀雄が言いたかったことはようするにスピリチュアリズムのことだ、などと言っていたがそれはそうだと思う。

宣長がカルトだったことはもちろん事実に相違あるまい。子供のころから仏教や儒教にはまり和歌を詠んだりするのはもともとそういう素養があったからだし、自分は親が神にお祈りして生まれた子だと宣長は生涯信じていた。この信仰心というものは、真正のものであれば仏教でも儒教でも神道でもなんでもよかったのだろう。

宣長に古事記伝が書けたのは、また、古事記を研究したいと思った動機は、彼がカルトだったせいではある。しかし、宣長も古事記もカルトであり、カルトとは古事記時代の原始神道、アミニズムでありシャーマニズムである、ということにはならない。

宣長は、いわゆる霊感の強い人、オカルティズムな人。古代日本のアミニズムのビジョンを見て、共感できる能力がある人だっただろう。しかし宣長の場合はそこで終わりではない。

宣長はもともと仏教にも儒教にもものすごく詳しい人だった。その彼が古事記を読んでいるうちに、さまざまな疑問がわいてきただろう。だから宣長はまず、日本古来の神道というものは本来どういうものであったかを再構築し、アミニズム、シャーマニズム時代の神道というものを仮定し、そこから、外来宗教の影響を受けずに自国内だけで純粋培養したらこうなったであろうという、本来あるべき、ピュアな、理想の神道を作ろうとした。つまり、キリスト教やイスラム教や儒教や仏教のような普遍性のある世界宗教を、それらとはまったく別にもう一つ、純粋に日本由来の素材から作ろうとした。そのためには理論武装しなくてはならない。理論武装した宗教とはすなわちカルトである。

宣長は、ナイーブな、外来思想と簡単に混淆し、免疫を持たなかった神道を作り直して、外来思想と簡単には混ざらない歯止めのある、理論武装した普遍宗教にしようとした。特に仏教やキリスト教に対抗しうる神学を構築しようとした。世界の原始宗教は、ギリシャローマの神話にしても、キリスト教やイスラム教などの普遍宗教によって駆逐されていった。同じことが日本でも、仏教や儒教の伝来によって起こっていた。宣長はそこに危機感をおぼえて、いつ外来宗教に浸食され滅ぼされるかもしれない弱い宗教である神道を鍛えて強い宗教にしようとした。彼はだから、不本意ながら、無理にカルトへ舵を切らざるを得なかったのである。彼はだから、上田秋成のナイーブさ、寛容さが我慢ならなかった。宗教とは不寛容でなくてはならない、さもなくばもっとものわかりの悪い不寛容な宗教、もっと排他的な宗教が現れたときに、おおらかで物わかりの良い寛容な宗教は一方的に浸食され、駆逐され、いつの間にか淘汰されてしまうからだ。つまり、神道もまた、世界の他の宗教と同じ程度には不寛容で排他的にならねばならない。日本人であるからには日本固有の宗教を最も尊び、他の宗教から守らねばならない。そのためには神道にも独自の神学が必要だ。宣長はそのロジックに初めて気づいた日本人であったかもしれない。逆の言い方をすれば宣長という天才が現れるまで、日本人は世界から隔絶していたおかげでそうした危機感をまったくもっていなかったということになる。今、川口市や蕨市で起きているようなことを宣長は天保時代に予見していたのである。宗教マニアの宣長だったからこそ、いちはやく、誰よりも先にそこに気付いた。

宣長が偉かったのはここまで完成度の高い神学理論を創始しておきながら、自分自身が教祖様になろうとは決してしなかったことだ。マルチン・ルターに似ているともいえる。

ところが、宣長の理論は彼の死後いろんな教祖様に利用され、あまたの新興宗教が生まれることになる。宣長にはそこまで制御することはできなかった。そしていまなお宣長は誤解されたままなのである。もし宣長がみずから新興宗教の教祖になっていたらこんな混乱と無理解は生じなかったかもしれない。

アルコールは怖い

気分が落ち込んでいるときに強い酒を数滴飲むと気持ちがすごく前向きになる。

しかし20〜30分もすれば血液の中からアルコールが代謝されてなくなり、気分が元に戻る、というか、反動でよけいおちこんだりする。

そもそもやる気ってなんなんだろうね。常に気持ちよく、前向きな状態を維持すると、気分は楽だよね。だから薬を飲む人もいるんだろうけど。

前向きな気持ちってそもそもなんなんだろうね。実はあやしげなものかもしれないし。