ただ生き続ける

病院に通うということは、時間もとられるし、メンタルもがりがり削られる。しかし日頃健康で病院とは無縁だった人がある日突然死ぬということも聞くので、持病のために定期的に通院して早めに悪いところを見つけてもらうほうが良いとも言える。

歯の詰め物が取れただけで食欲がなくなってしまうのはいつものことだ。年寄りなので詰め物が取れるだけでなく、歯が一部欠けてしまったりする。逆に若い頃と違って虫歯にはなかなかならなくなった。

ともかくこうやって体を気にしながら生きていくのが面倒だ。しかし若い頃は気にしなさすぎて虫歯をたくさん作ってしまったし、あれやこれやと今の不養生の元になっているわけで、人生やりなおしたいかといわれればしかしそれもまためんどくさいし、やはりいちばん面倒くさくないことはさっさと死ぬことだという結論になる。しかしながら人間は本能的に死ぬのを怖がるし、勝手に死ぬと回りに迷惑がかかるから、めんどうくさいめんどうくさいと言いながらただ生き続けることになる。

今書いている本なのだが企画が持ち上がったのが去年の8月、最終〆切が来年1月になってしまった。いやはや1年半も延々と書き足したり削ったり推敲したりしている。気の長い話である。まあそういうこともあるだろう。とりあえずこの本が出るまでは死ねないな。他のことはともかくとして。

やることがないと退屈で死にそうになるとかボケるから、年を取ってから何か新しいことを始めたほうが良いなどとよく言われ、また私もそう思っていたが、そうすると私の場合 暇になるとだいたい Linux をいじったりし始めるのだけど、Linux をある程度弄り倒して思うのは、もう Windows でいいじゃんという諦めというか。これから何十年も生きているのであれば Linux とか MacOS とかいろいろ手を出して、Windows がなくなった世界に備えるということもありかもしれんが、Windows がなくなるより先に自分が死ぬのはほぼ確実だから、もうじたばたしてもしかたない、 Windows でいいじゃんという結論になる。Linux にしても、私ごときが使ったくらいで Linux に貢献できることなどしれている。Windows にしろ私ごときが使ったくらいで良くも悪くもならない。いろいろ新しく試して中途半端に終わるよりも、今までやってきたことで、一応成果があったことを少しでも磨いたほうがましだと思う。

源清蔭

源清蔭についての考察も今度出す本から除外することにしたので、こちらに載せておく。

桓武天皇の生母は百済(くだら)王家の血を引く(たか)(のの)(にひ)(がさ)。西暦六六〇年百済滅亡、六六三年白村江の戦いにも敗れ、大陸から多くの百済王族が任那(みまな)符の難民らとともに亡命してきた。人の移動とともに大陸由来の天然痘が流行し、聖武天皇は疫病を避けてあちこち遷都した。桓武によって新しく造られた平安朝廷では宮廷の公卿や女官にも移民が多く含まれ、和風より漢風の文芸が貴ばれた。「昔、聖武天皇は侍臣に詔し、万葉集を撰ばしめた。これ以来十代、百年を()て、其間和歌は棄てられ採られず。野相公(小野篁。野宰相とも)のごとき風流、在納言(在原行平)のごとき雅情ある者はあれど、皆、和歌で世に知られることはなく、他才(すなわち漢詩)で知られるばかりであった(筆者意訳)」と『古今集』「真名序」でぼやいている状況が生まれたのである。これに反発した平城天皇は奈良に都を戻し、日本文化を復興させようとしたが、薬師の乱で敗れ、嵯峨天皇が勝利した。

嵯峨帝は唐詩(からうた)を好み和歌(やまとうた)はほとんど顧みられなかった。この傾向は人臣にして初めて摂政となった藤原良房と、その甥で天皇が成人しても関白に居座り続けた基経の頃まで続く。清和天皇は二十代半ばで退位、出家させられて、三十路に入ってまもなく嵯峨野の奥、水尾(みずのお)の里で寂しく死んだ(そのため清和天皇は水尾の帝とも呼ばれる)。清和の兄、(これ)(たか)親王もいきなり基経に比叡山の麓、小野の里に蟄居させられ、あちこち放浪したあげく、五十才過ぎに寂しく死んだ(『伊勢物語』に詳しい)。清和の皇子、陽成帝は長寿を保ったが、やはり若くして退位させられ、院御所に引き籠もった後、何をしていたか全くわからない。『小倉百人一首』に採られた「(つく)()()(みね)より()つる みなの(がは) (こひ)ぞつもりて (ふち)となりける」、これ一首だけが陽成帝の御製として知られる。たった一つでは他の歌と比較することもできず、本人の歌かどうかすら疑わしい。調べは美しく、屏風歌としては良い出来かもしれないが、この時代の宮廷和歌がいかに形骸化して低調だったかを象徴するような歌ではある。

満十二才で即位して三年目、陽成帝には皇子(後の(みなもとの)(きよ)(かげ))が誕生するが、その年、基経は突如陽成帝を廃位し、皇統を四代遡り文徳天皇の弟、(とき)(やす)親王を立てて光孝天皇とする。時康親王はすでに五十五才、基経の恣意的な皇位介入に腹を立てて自分の皇子らをみな臣籍降下させてしまう。

光孝天皇は皇太子を立てぬまま崩御。このとき陽成院はまだ十八才だったが、基経は源氏姓を賜って臣下となっていた光孝天皇の皇子、(みなもとの)定省(さだみ)を皇籍復帰させ、立てて宇多天皇とする。藤原基経、人臣の分際で、もうやりたい放題である。

源清蔭の母は紀氏、『伊勢物語』の主要人物の一人である紀(あり)(つね)の娘は在原業平の妻。業平とともに『伊勢物語』によく出てくる(これ)(たか)親王(文徳の皇子で、清和の兄)の母は有常の父()(とら)の娘。さらに陽成帝廃位の直接原因と関係があると思われる、宮中殺人事件で殺された陽成帝の乳母、(みなもとの)(まさる)(嵯峨源氏)もやはりその母が紀氏。

紀氏は名虎でさえ正四位下で、いわゆる受領階級、国司に任じられ地方に派遣される程度の家柄だった。その紀氏が天皇や皇族の妃となって徐々に宮中で勢力を拡大し、藤原氏を脅かす存在になりつつあった。もしかすると皇族は、摂政関白に居座り続ける藤原氏に対抗し得る氏族として紀氏に期するものがあったかもしれない。しかし有常は文徳朝末期に左遷。惟喬親王も清和朝に蟄居。

陽成朝に基経は出仕拒否。藤原氏から女御が入内する気配すらない。陽成帝が藤原氏を嫌っていたのは明らかだ。そうしたところで陽成帝に清蔭が誕生。帝が清蔭に譲位して院政を始めれば、藤原氏は皇統から切り離され、摂政になることもできない。誰の入れ知恵か、源融(みなもとのとほる)あたりか知らないが、そういう企てが進行していたかもしれない。源融は東宮傅として皇太子時代の陽成帝に仕えていたので、自分が摂政になると思っていたのに基経に摂政を取られて怒っていたという説もある。源融はおそらく藤原氏によって軟禁状態にあったと思う。紀氏を巻き込んだ皇族対藤原氏の対立。薬師の乱以来の大乱になる可能性があった。それで基経は藤原氏を母に持つ時康親王まで皇統を強制的に巻き戻した。陽成帝の生母藤原高子と兄基経の仲が悪かったとか、陽成帝に乱行があった、などというのはすべて作り話か、事実としても本質的な問題ではない。

陽成天皇暴君説。藤原氏に同情的に書いているのが自分ながら意外だ。

栗山潜鋒と三島由紀夫と小室直樹。ここにもちょこっと陽成天皇の話が出てくる。小室直樹の書いたものも今読むといたるところに間違いがあることに気付く。

水尾の里と小野の里

ほかにもいろいろ書いているがめんどくさくなってきたのでとりあえずこのへんで。

源俊頼陰謀論

貫之が仮名序に「あきのゆふくれ」と書いたことで平兼盛が「秋の夕暮れ」を歌に詠み込み、清少納言が「秋は夕暮れ」と言い、みなが「秋の夕暮れ」を使うようになったのだろうか。

貫之が「秋の夕暮れ」を発明したのだろうか。ではなぜ貫之は「秋の夕暮れ」を自分の歌に一度も使わなかったのか。なぜ彼の時代まで「秋の夕暮れ」を詠んだ歌が一つも無いのか。「古の世々の帝」が「さぶらふ人を召して、ことにつけつつ歌を奉らせ給ふ」例を列挙している中になぜわざと「秋の夕暮れ」を混ぜる必要があるのだろう?極めて不自然ではないか。

東京国立博物館に『古今集』の最古にして最も美麗な写本、国宝元永本古今和歌集が展示されている。通りがかる人はみな、なんだかちっこくて地味な本だなと、ちらっと見て過ぎ去るばかりだ。しかしながらこれ、唐草模様を雲母刷りにし、金銀の切箔を散らした料紙を用いており、そうとう手間も元手もかかったものらしい。なぜこんな写本を作ったのか。源俊頼が関わっているのはほぼ間違いない。俊頼本人が書いたか、誰か字のうまい人に代わりに書かせたのだ。

元永本は俊頼が白河院の歓心を買うため献上した品ではないか。これを俊頼は正本として、普通の紙に写した副本をたくさん作って配ったのではないか。何のために?

『後拾遺』は完璧な勅撰集だった。『後拾遺』に比べればそれより前の勅撰集は不完全だった。いろいろな不備があった。勅撰集の体裁は『後拾遺』で初めて整い、続く勅撰集の規範となった。白河天皇と藤原通俊による偉大な業績だ。そのことを誰よりも俊頼自身が痛感していたはずだ。俊頼はその事実をどうにかして否定したかった。そのため(『万葉集』ではなく)『古今』が最初の勅撰集であることにしようとした。『後拾遺』は単に四番目の勅撰集に過ぎないことにした。『古今』に日本最初の勅撰集たる権威を持たせるために俊頼は元永本を作った。自分が勅撰集選者の始祖たる紀貫之の正統な後継者であることにした。『古今』選者の一人に過ぎなかった貫之はこうして崇拝対象になった。そして自分が選んだ『金葉集』も、この元永本のように金ピカに装丁して白河院に献上しようとした。ダレイオス大王が自分こそはアケメネス朝の正統な王であることを誇示するためにべヒストゥーン碑文を彫ったように。ダレイオスはしかしキュロス大王の嫡流にとってかわった簒奪(さんだつ)者だったのだが。

『金葉集』という名前にしてもこの元永本にしても、俊頼はやたらと豪華でキンキラキンなのが好きなのだ。金閣寺を作った足利義満、金の茶室を作った豊臣秀吉みたいな人なのだ。しかし白河院は、先にも述べたように俊頼には決して勅撰を許そうとはしなかった。白河院はそうした下心やこけおどしが嫌いな人だったと思う。もちろんすべては私の勝手な空想である。しかしさまざまな状況証拠からプロファイリングしていくと俊頼という人はそんな人だったとしか思えないではないか。

俊頼ってほんとはどんな人だったんだろう、どういうつもりでこの本を作ったんだろうってことを考えながら、私はしばしこのA5版程度の大きさしかない、多少虫食いのある写本を眺めたのであった。

e国宝というサイトにいくとこの元永本の画像を見ることができるが、この仮名序にはっきりと「はるの朝に花のちるをみ、あきのゆふくれにこのはのおつるをきき」と書いてある。貫之の時代にはまだ「ゆふぐれ」という言葉はなかった。「ゆふべ」と言っていた。ほぼ間違いあるまい。では「ゆふべ」を「ゆふぐれ」と書き間違えただけ?しかし曽祢好忠の歌との類似性についてはどう説明する。好忠は貫之よりも後の時代の人だ。では貫之は老年になって自分よりはるかに若い好忠の歌を知ってそれを仮名序に取り入れたのか。ちょっとあり得ないだろう。

さらに疑いの目で見ると、仮名序の前半部分と後半部分で、どうも文体やテンポに統一感がなく、ちぐはぐな感じを受けないだろうか。また「鏡の影に見ゆる雪と浪を歎き」とは紀貫之自身の歌「しはすのつごもりがたに、年の老いぬることをなげきて」と詞書きした「むばたまの ()黒髪(くろかみ)(とし)()れて (かがみ)(かげ)()れる白雪(しらゆき)」を参照しているのは明らかだが、もし貫之が仮名序を書いたとして、古歌を並べている中にいきなり自分の、しかも晩年に詠んだ歌を入れるだろうか?おかしいではないか。 古今集仮名序疑惑、私の推理では真犯人は、源俊頼くん、君だ。となるが、このことについてはもうこのくらいにしておきたい。

秋の夕暮れ参照。

めまい

体調が悪くて半日潰れた。例によって心房細動の方はまったく自覚症状はないし、息切れするなどということもない。心臓の鼓動はいつ聞いてもいつも違っていて、だから最近は聞いても仕方ないなと思っている。鼓動の間隔がいつもバラバラなのは心房細動のせいもあるだろうけど飲んでいる薬の副作用な気もしてならない。期外収縮もいつも起きている。

薬を2日続けて飲み忘れたので1日1回のところを2回ずつ飲んで、今日もあと1回飲もうかと思ってたのだが、めまいがする。明らかに心臓の不調ではなくて、内耳とか、そのあたりの問題だと思う。心臓とはまったく関係ない別の持病なのか。半年に一度くらい突然くる。薬の飲み過ぎによる副作用?電車が速く走って(京急線みたいに)はげしく振動するときなどに気分が悪くなることがある。小田急でもなったことがある。立っているときになるのでできるだけ座るようにしている。今日は朝早く起きたからそれも関係あるか。

だいぶおさまってきた。なんなんだったのだろうかこの症状は。

自分のために書き残しておこう。昨日今日とお酒を飲む気が起きなかった。

髪の毛がますます細くなってきた気がする。若い頃はゴワゴワのくせ毛だったので思い切りすいていたのだが、今はすかなくてもよい、すくと少し少ないくらいになって、かきわけると地肌が見えるようになってきた。

埴輪と仏像

日本人が仏像を作り始めるよりもずっと前から日本人は埴輪を作っていた。

そして日本人が仏像を作り始めると日本人は埴輪のような造形を作り出すことをやめてしまった。日本人の創造性が固定化され様式化され、技巧的になり、宗教に絡め取られると同時に、多様性が失われてしまった。自由な創作活動が不可逆的にできなくなった。

もし日本に仏教が伝わらず、仏像を崇め拝むという習俗に染まらなければ、日本人は埴輪的な造形物を作り続けていただろう。仏像は確かに芸術的に非常に価値が高い。洗練されている。しかし所詮仏像は外来のものだ。別に日本で作るまでもない。必要があれば輸入すれば済む話だ(まして奈良の大仏なぞ作る必要はまったくなかった)。日本固有のものは日本でしか作れないのだから、日本はまずもって埴輪を作り続けるべきだった。しかし仏教は伝来し、仏像へ日本人の意識がすべて向けられてしまった結果、仏像以外の造形が絶えてしまったのは非常に惜しいことだと思う。

もちろんこれは仏像に限った話ではない。仏教、儒教、すべてに言える。日本人が日本だけでできたことの多くが外来思想や外来文化によって途絶してしまい、その発展が妨げられた。

実は同じことが明治にも起きたのである。弥生古墳時代には当たり前だった芸術が飛鳥奈良時代に混淆し、平安時代には捨て去られた。明治初期には西洋文芸理論との混淆も見られたが中期以降はただ単に江戸時代の文芸は切り捨てられ西洋文芸理論だけがもてはやされるようになった。

もちろん埴輪と神道は違う。しかし、古代神道と仏教の関係は、埴輪と仏像を見ればだいたい想像がつく。儒教や仏教は、キリスト教やイスラム教に比べればまだ日本と親和性が高く、日本に与えた良い影響ももちろんたくさんある。だが外来宗教には違いない。日本古来の固有の伝統だと言われるのはかなり違和感がある(アザーンはだめだが寺の鐘は良い、など)。

ただ、埴輪にせよ、もとは中国から渡ってきたもので、兵馬俑の模型を真似たものであったかもしれない。或いはもっと近い時代の唐三彩なんかの影響かもしれない。

ついでに言っておくが神社で朝、ブロワーで掃除しているのはなんとかならんのか。うるさくて非常に不愉快だ。別に機械を使って掃除するのがだめだというつもりはない。静かにしてほしい。早朝神社に参拝して清らかな気分になりたいのに、神経を逆なでする。境内を静寂に保つことは神道とは関係ないことなのだろうか?神社の周りを暴走族が取り囲んでエンジンふかしても良いのか?

NATOとEU

トランプが大統領になるとアメリカがNATOから脱退するなどと言われているが、冷戦が終わってワルシャワ機構もなくなったのに、NATOにアメリカが残っている理由はあまりない。EUはEUだけでロシアと対決すればよく、アメリカを巻き込まないほうが良いという考え方もある。

そんなら日米安保もやめてしまえという考えもあるかもしれないが、そうなると台湾有事はかなり現実化するかもしれない。

EUはでかくなりすぎた。フランス、ドイツ、イタリアあたりでこぢんまりとやっていればよかったのにNATOにアメリカがいて、虎の威を借りて、実力以上に拡大主義に走ったのがよくない。統一通貨ユーロも、欧州経済圏も、アメリカが手を引けばどうなるかわからん。それに比べてロシアは自分の実力だけで今もそれなりの勢力を保っているのはすごいことだが、しかしロシアもプーチンがいなくなればどうなるかわからんよな。日本はなんだかんだ言って一国でけっこうがんばっているほうではないか。日本と台湾と韓国が同盟すればそこそこすごいんだがそれって大日本帝国の再現だから嫌がる人が多すぎてだめ、そのつなぎ役をアメリカが代行しているのでなんとかなっている。どうしようもないなこりゃ。ヨーロッパも同じで、アメリカがいなくなりゃ結局ドイツかフランスか、どっちがじゃあヨーロッパの盟主になるのって話の蒸し返しになるだけよなきっと。そうやって地域ごとに盟主がいればアメリカの世界覇権は要らなくなるんじゃないの。

やる気

若い頃は寝起きが悪く朝はやる気が出なくてその代わり夜は朝まで飲んで遊べた気がするのだが、年を取ると朝からなんだかやる気が出て効率よく仕事ができているような気になるのだが、夕方にはもうやる気が枯渇してしまい、あとは酒飲んでさっさと寝てしまうようになった。一日のやる気は結局あまり変わってない。朝のうちにやる気を使い切ってしまうのはもったいないから、朝はできるだけだらだらするのが良いのかもしれない。

若い頃に比べて大人になって真面目になった、仕事ができるようになったように錯覚してしまうけどそうではないのだ。若い頃のほうが不真面目であった、などということはない。若い頃大したことができてなかったのは経験値が圧倒的に不足していて、経験値を蓄積するのにいそがしかったのだ。

やる気をできるだけ大切にしてけちけちつかっていかなきゃだめかもしれない。

お茶が古かったわけではないことがほぼ確定した。あれはお腹の風邪だったのだ。季節の変化に体調の変化がついていけなくてどうしても風邪をひく。体がなれると風邪を引かなくなるらしい。たぶん若い頃からそうだったのだが、若い頃は多少腹を壊しても風を引いても勢いで済ませてたが年寄りだとしゃれにならん。

一葉の歌 2

山の井の 浅くもあらぬ 冬なれや 汲み上ぐる水の やがて凍りぬ

寄る波に 消えぬ雪かと 見えつるは 入江の葦の 穂綿なりけり

うつせみの 世に誇れとや ほととぎす 我に初音を まづ洩らしけむ

野ぎつねの あたらすみかと なりにけり よしありげなる 峰の古寺

山鳩の 雨呼ぶ声に 誘はれて 庭に折々 散る椿かな

今はしも 人つらかれと 思ふかな 末とげがたき 仲と思へば

ともしびに 寄りて身を焼く 夏虫の あな蒸し暑き 夜半にもあるかな

何しかも 床の別れの つらからむ 見しは夢なる あかつきの空

いとどしく つらかりぬべき 別れ路を あはぬ今より しのばるるかな

影映す 鏡は置きて 新玉の 今年は心 磨き変へてむ

空をのみ 眺めつるかな 思ふ人 天下り来む ものならなくに

あやにくの 雨にもあるか 隅田川 月と花との あたら盛りを

降る雨に 濡るとも花を 見に行かむ 晴れなばやがて 散りもこそすれ

夏の夜は 短きものと 知りながら 見果てぬ夢ぞ はかなかりける

打ちなびく 柳を見れば のどかなる おぼろ月夜も 風はありけり

大方の 花は散りにし 夏山に 春を残せる 鶯の声

思ふこと 少し洩らさむ 友もがな 浮かれてみたき おぼろ月夜に

一葉の歌

をちこちに 梅の花咲く さま見れば いづこも同じ 春風や吹く

春風は いかに吹きてか 梅の花 咲ける咲かざる 花のあるらむ

明日といはば 散りもやすらむ 庭桜 今日の盛りをとふ人もがな

くろづたひ 行く人多く なりにけり 山田の里に 梅咲きしより

楽しさに 里のわらべは とく起きて 若菜摘みにと出づる春日野

降る雨に 濡るとも花を 見に行かむ 晴れなばやがて 散りもこそすれ

咲きにほふ 花にも酔ひて 澄田河 うつし心の 人なかりけり

世の人の 心の色に 比ぶれば 花の盛りは 久しかりけり

ねぜり摘む 里のわらべの かげ絶えて 田河の末に 蛙鳴くなり

月待ちて いざ見に行かむ 角田河 こよひを花は 盛りなるらむ

散りて行く 花もさこそは つらからめ 我のみ惜しむ 風の音かは

散りぬとて 忘られなくに 山桜 青葉のかげの ながめられつつ

水の色も ひとつみどりに なりにけり 夏草茂る 野辺の細川

夏の夜は 短きものと 知りながら 見果てぬ夢ぞ はかなかりけり

夏衣 替へて干す日も なかりけり 降り続きたる 五月雨の頃

帰るべき しほこそなけれ 山桜 暮るればやがて 月の出でつつ

いとどしく 濡れてぞ色は まさりけり 春雨かかる 山桜花

昨日まで 固くふふみし 桜花 今朝降る雨に ほころびにけり

世の人の 宝とめづる 玉もなほ みがきてのちの 名にこそありけれ

世の中の 憂さもつらさも 忘れけり ただ一杯の これのなさけに(酒)

寒けれど 小簾開けてみむ 角田川 漕ぎ行く舟の 今朝の白雪

うつし絵に 見るここちして 箱根山 月こそのぼれ 湖の上に

不忍の 池のおも広く 見ゆるかな 上野の山に 月はのぼりて

風ばかり とふと思ひし 松の戸を こよひは雨も 叩きつるかな

吹き迷ふ 筑波根おろし なほさえて ふもとの野辺は 春としもなし

咲く梅も 月もひとつの 色ながら さすがに折れば まがはざりけり

我が庭は 萩も薄も あらなくに 秋なる風ぞ おどろかし行く

いざさらば 起き居て聞かむ 夜もすがら 寝られぬ閨の こほろぎの声

おもふどち 雪まろげせし いにしへを 火桶のもとに しのぶ今日かな

凍りけむ いささ小川の 細流れ 今朝は音なく なりにけるかな